竹内町
(竹内村から転送)
竹内町 | |
---|---|
余子駅 | |
北緯35度31分22秒 東経133度14分17秒 / 北緯35.52278度 東経133.23806度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 鳥取県 |
市町村 | 境港市 |
人口 | |
• 合計 | 2,113人 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
684-0043[2] |
市外局番 | 0859[3] |
ナンバープレート | 鳥取 |
地理
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歴史
編集足立備中守信則の子孫及びその一門により開拓される。
資料
編集渋山家演舌書
編集- 奉願上覚
- 私先祖善右衛門儀素大職冠鎌足公拾三代の後胤小野田三郎兼広之二男民部之丞遠兼拾三代備中国英賀郡草間川寄之城主足立備中守信則之嫡子雲州葛籠尾之城主足立右馬之丞久信、其子弥太郎之嫡子二御座候而同国太守尼子経久并二嫡男晴久之旗下ニ御座候、然処永禄九年尼子家落城、葛籠尾之居城ヲ離散仕同国森山村ニ隠住仕候、其後天正之頃尼子残党父弥太郎共悉戦死仕候ニ付而は、武辺之志をはなれ民間に下り、御当国浜之目儀は土地広く人家少き場所柄ニ御座候処、其後文禄之頃則当村江移転仕田畑開立専相働御百性二元付申上候、其頃当村近辺は境村傍示ニ而村号等無御座、人家も漸々拾軒計り御座候由申伝候、然処寛永元年子之御改御図帳表御高百四拾石余、人家も拾七八軒ニ相成候処、当時ニ而は分家筋之もの凡百七拾軒計り御座候而、一村開発同様之者二御座候、右善右衛門より四代目与次右衛門と申者、実子并二養子共都合拾弐人御座候内、三男七郎兵衛と申者元禄六酉年分宅仕、是則私家之元祖二御座候、是又専御百性出情仕候、(下略)
帯刀御免状
編集- ロ会見郡竹内村
- 医師 渋山 玄寿
其方儀兼々医術心懸宜治療専致出精候ニ付先達而一代限苗字被成御免置候処、弥医道相励内外共治療盛ニ致出精候趣相聞ヘ候ニ付、格別ニ其身一代限帯刀被成御免
渋山氏系譜
- 渋山家(足立家四代与治右ェ門より分家)
- 初代 七良兵衛 月海宗晧居士 1747年没
- 二代 与次右衛門 大円哲明居士 1774年没
- 三代 弥一右衛門 伝明玄燈居士 1784年没
- 四代 七郎兵衛 了心庵顕功恵徳居士 1818年没
- 五代 弥一右衛門 大興院義観亮忠居士 1810年没
- 六代 弥一右衛門 円融院大聖高徳居士 1866年没
- 七代 弥八郎 泰岳院興山道隆居士 1889年没
- (灘)渋山家(渋山家三代弥一右衛門より分家)
- 初代 長寿(医師) 大円長寿居士 1807年没
- 二代 長寿(医師) 盛巌宗栄居士 1841年没
- 三代 長寿(医師) 育仁院傑山俊英居士 1823年没
- 四代 長寿(医師) 俊正院大済医徳居士 1861年没
- 五代 玄寿(医師) 高照院大医徳 居士 1868年没
- 小渋家(渋山家四代七郎兵衛より分家)
- 初代 七良左衛門 瑞松院紹嶽永隆居士 1862年没
- 二代 清右衛門 廓然大悟居士 1866年没
- 荒河家(渋山家初代七良兵衛より分家)
- 初代 安左衛門 白岩宗雲信士 1758年没
- 二代 兵左衛門 廓山恵月信士 1804年没
- 三代 林蔵 大雄勇道信士 1817年没
出身人物
編集世帯数と人口
編集2022年(令和4年)7月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
町丁 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
竹内町 | 996世帯 | 2,113人 |
小・中学校の学区
編集市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[4]。
番地 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|
全域 | 境港市立余子小学校 | 境港市立第二中学校 |
交通
編集鉄道
編集バス
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道路
編集- 国道
- 都道府県道
施設
編集- 鳥取県立境港総合技術高等学校
- 境港市立第二中学校
- 境港市立余子小学校
- 境港市 学校給食センター
- 境港竹内郵便局
- 余子公民館
脚注
編集- ^ a b “令和4年度月別住民基本台帳登録数”. 境港市 (2021年7月31日). 2022年8月15日閲覧。
- ^ “郵便番号”. 日本郵便. 2022年8月15日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2022年8月15日閲覧。
- ^ “境港市立小中学校児童、生徒の学校指定に関する規則”. 境港市. 2022年8月15日閲覧。
参考文献
編集- 『境港市史』