藤原黒麻呂
奈良時代末期から平安時代初期の貴族。藤原巨勢麻呂の次男。従四位下・因幡守
藤原 黒麻呂(ふじわら の くろまろ)は、奈良時代末期から平安時代初期にかけての貴族。藤原南家、参議・藤原巨勢麻呂の次男。官位は従四位下・因幡守。
時代 | 奈良時代末期-平安時代初期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 大同5年6月20日(810年7月24日) |
官位 | 従四位下、因幡守 |
主君 | 光仁天皇→桓武天皇→平城天皇 |
氏族 | 藤原南家巨勢麻呂流 |
父母 | 父:藤原巨勢麻呂、母:山背王の娘 |
兄弟 | 黒麻呂、長川、真作、今河、河主、弓主、貞嗣、川合、真書、伊勢人、瀧麿、主後、広河 |
妻 | 田辺清足の娘、縣犬養氏 |
子 | 虎王、春継、虎取、諸勝 |
経歴
編集近江国に生まれる。宝亀5年(774年)正月に正六位下から二階昇叙され従五位下に叙爵し、上総介に任ぜられ現地に赴任。近辺の原野を開墾して牧野とし藻原荘として成立させた[1]。この藻原荘が現在の千葉県茂原市の起源とされる。宝亀8年(777年)上総守に昇進する。宝亀9年(778年)従五位上に叙せられると、宝亀11年(780年)治部大輔に任ぜられる。
桓武朝に入ると、延暦元年(782年)右中弁に任ぜられるが、延暦3年(784年)には遠江守として地方官に転ずる。延暦8年(789年)刑部大輔次いで治部大輔と再び京官に復すが、翌延暦9年(790年)駿河守に転じた。またこの頃、皇太后・高野新笠および皇后・藤原乙牟漏が崩御した際に御葬司を務めている。
のち、桓武朝末に正五位下、平城朝末には従四位下にまで昇進するとともに、周防守・因幡守と地方官を歴任している。大同5年(810年)6月20日卒去。
官歴
編集注記のないものは『六国史』による。
- 時期不詳:正六位下
- 宝亀5年(774年) 正月7日:従五位下。3月5日:上総介
- 宝亀8年(777年) 正月25日:上総守
- 宝亀9年(778年) 正月16日:従五位上
- 宝亀11年(780年) 4月20日:治部大輔
- 延暦元年(782年) 9月9日:右中弁
- 延暦3年(784年) 3月14日:遠江守
- 延暦8年(789年) 3月16日:刑部大輔。9月12日:治部大輔。12月29日:御葬司(皇太后・高野新笠崩御)
- 延暦9年(790年) 正月26日:御齋会司。3月10日:駿河守。閏3月11日:御葬司(皇后・藤原乙牟漏崩御)
- 時期不詳:正五位下
- 延暦25年(806年) 3月18日:山作司
- 時期不詳:従四位下。周防守[2]。因幡守[2]
- 大同5年(810年) 6月20日:卒去(従四位下)
系譜
編集『尊卑分脈』による。