酒泉郡
概要
編集紀元前121年(元狩2年)、漢軍が匈奴を撃破して河西回廊を占領すると、酒泉郡が置かれた。紀元前111年(元鼎6年)、敦煌郡と張掖郡が分離された。酒泉郡は涼州に属し、禄福・表氏・楽涫・天䧇・玉門・会水・池頭・綏弥・乾斉の9県を管轄した。王莽のとき、輔平郡と改称された[1]。
後漢が建てられると、酒泉郡の称にもどされた。酒泉郡は禄福・表氏・楽涫・玉門・会水・沙頭・安弥・乾斉・延寿の9県を管轄した[2]。
晋のとき、酒泉郡は禄福・会水・安弥・騂馬・楽涫・表氏・延寿・玉門・沙頭の9県を管轄した[3]。
北魏のとき、酒泉軍が置かれ、敦煌鎮に属した。526年(孝昌2年)、酒泉郡が再び設置された。
西魏のとき、西涼州が設置されると、酒泉郡は西涼州に属した。554年(廃帝3年)、西涼州が甘州と改称されると、酒泉郡は甘州に属した。
583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、酒泉郡は廃止されて、甘州に編入された。602年(仁寿2年)、酒泉郡の故地に粛州が置かれた。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、張掖郡に編入された[4]。
619年(武徳2年)、唐が李軌を平定すると、酒泉郡の故地に粛州を置いた。742年(天宝元年)、粛州は酒泉郡と改称された。758年(乾元元年)、酒泉郡は粛州と改称され、酒泉郡の呼称は姿を消した[5]。