野澤北地
日本の陸軍軍人
野澤 北地(のざわ ほくち[* 1]、1884年(明治17年)1月19日 - 1972年(昭和47年)12月7日[1])は、日本の陸軍軍人。軍馬補充部本部長などを務めた陸軍少将である[2]。
野澤 北地 | |
---|---|
生誕 | 1884年1月19日 |
死没 | 1972年12月7日(88歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1906 - 1939 |
最終階級 | 陸軍少将 |
経歴
編集北海道札幌市出身[2]。祖父に会津藩藩士上崎且馬(100石)がおり、上崎辰次郎は伯父にあたる[3]。野澤は創設以来の稚松会会員であった[4]。仙台陸軍幼年学校(3期)を経て[5]、陸軍士官学校17期を卒業し騎兵少尉に任官する。
日露戦争における第三軍の残務整理に従事[6]したのち、騎兵第七連隊附[7]となり、騎兵実施学校学生、陸軍士官学校馬術教官[4]、陸軍騎兵学校教官[8]等を経て騎兵第九連隊、同第一連隊[9]、同第十五連隊の各連隊長を務める。
軍馬補充部員本部員を経て、1937年(昭和12年)に少将へ昇進[2]。騎兵第一旅団長に補され、一年間在任。1938年に軍馬補充部本部長となり[2]、翌1939年(昭和14年)8月に予備役編入となった。
脚注
編集注釈
編集- ^ 『大衆人事録』では「野澤文彦」の次に記載されており「きたち」ではなく「ほくち」とした。
出典
編集- ^ 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』
- ^ a b c d e 『日本人物情報大系: 満洲編』136頁
- ^ 会津史談会『会津史談』第84号 『上崎辰次郎のこと』
- ^ a b 『稚松会会員名簿』(明治45年3月調)
- ^ 松下芳男『山紫に水清き:仙台陸軍幼年学校史』
- ^ “Ref.C06041299000、「明治39年2月分 臨号書類綴 参謀本部副官管」(防衛省防衛研究所)」歩兵少佐末永賢以下6名残務整の為め残留の日追加の報告 元第3軍事司令官より”. アジア歴史資料センター. 2013年8月7日閲覧。
- ^ “Ref.C06084654900、明治41年坤「貳大日記10月」(防衛省防衛研究所) 騎兵実施学校馬術科終了学生在学せしたる件”. アジア歴史資料センター. 2013年8月7日閲覧。
- ^ 『職員録 (大正7年)』
- ^ 『稚松会会報第19号』「陸軍現役会員名簿」
- ^ 帝国秘密探偵社『大衆人事録 外地・満・支・海外編』(第14版)
参考文献
編集- 福川秀樹『日本陸海軍人名辞典』芙蓉書房出版
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版
- 帝国秘密探偵社『大衆人事録 東京編』(第13版)
- 帝国秘密探偵社『大衆人事録 外地・満・支・海外編』(第14版)
- 松下芳男『山紫に水清き:仙台陸軍幼年学校史』仙幼会
- 『日本人物情報大系:満洲編』皓星社、1999年
|
|
|