長門国
長門国(ながとのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。
長門国 | |
---|---|
■-長門国 ■-山陽道 | |
別称 | 長州(ちょうしゅう) |
所属 | 山陽道 |
相当領域 | 山口県西半分 |
諸元 | |
国力 | 中国 |
距離 | 遠国 |
郡・郷数 | 5郡40郷 |
国内主要施設 | |
長門国府 | 山口県下関市 |
長門国分寺 | 山口県下関市 |
長門国分尼寺 | (推定)山口県下関市 |
一宮 | 住吉神社(山口県下関市) |
「長門」の名称と由来
編集長門は、古くは「穴門(あなと)」と呼ばれ、「穴戸」と書くこともあった。『日本書紀』によれば、大化6年(650年)穴戸の国司(草壁醜経)が白雉を献上した。天智4年(665年)には長門国が初見される。この間に改められた。 穴門とは海峡(関門海峡)を指しており、日本神話にも「穴戸神」の名が見える。古墳時代に成立した穴門国造の領域と阿武国造の領域をあわせて、7世紀に穴戸国が設置された。7世紀後半に長門国に改称した。
領域
編集明治維新の直前の領域は、下関市、萩市、長門市、美祢市、山陽小野田市、阿武郡および山口市の一部(旧阿東町)、宇部市の大部分(あすとぴあ・今村北・今村南・亀浦三丁目・亀浦四丁目・床波・西岐波・東岐波を除く)にあたる。
沿革
編集古代
編集海を隔てて朝鮮半島と向かい合う位置に在るので、古代には北部九州に準じて外交・防衛上重視された。
665年(天智天皇3年)には、筑紫国の大野城や基肄城と並んで、長門国に名称不明の城が築かれた[要出典]。675年(天武天皇4年)には、畿内と陸奥国と長門国を除いて、国司は大山[要曖昧さ回避]位以下を任じることが定められた[要出典]。陸奥国と長門国が特別扱いされたのは、辺境の要地にあるためで、同じく辺要の九州は、筑紫大宰を上に持っていた。こうして、一時は他国より格上とされた長門国ではあるが、後に周防総領が置かれるとその管轄下に入ったと考えられる[要出典]。
この時代の重要な遺跡としては次のようなものがある。
- 須恵器窯跡 (日置(へき)町峠山) - 古墳時代後期から奈良時代
- 嘉万中村遺跡 - 弥生時代の遺跡。鉄滓(てっさい)が発掘される
- 仙崎半島の糘(すくも)塚古墳群 - 馬具・武器・壺鐙(あぶみ)4個
- 西ノ木横穴墓
- 森ケ岨(もりがすわ)横穴墓
- 向津具(むかつく)半島の玉屋敷山林・油谷(ゆや) - 大陸伝来の有柄細型銅剣
- 本油谷古墳 - 壺鐙1個
- 湯免遺跡 - 弥生時代の高地性集落遺跡。1979年発掘調査
- 宮の馬場遺跡 (北長門) - 卑弥呼の時代の村落遺跡
- 西久田遺跡 - 鼓(つつみ)型器台2個
- 土井ヶ浜遺跡 (下関市豊北町) - 弥生人骨大量出土。「英雄」(石の鏃11本、鮫の歯の鏃2本が突き刺さっている)や「鵜を抱く女」など
- 綾羅木(あやらぎ)郷遺跡 - 綾羅木川周辺
- 仁馬山古墳 - 古墳時代前期
- 下関郊外の丘陵 - 箱式石棺、内行花文鏡(ないこうかもんきょう)、管玉(くだたま)、蓋弓帽(がいきゅうぼう)、1968年発掘
一説によると、下関市豊田湖湖畔に日女尊(ヒメコ・ヒミコ)の冬の居城があり、更に安徳天皇西市陵墓参考地が日女尊の墓とされる[要出典](安徳天皇の陵墓は下関市赤間神宮横にある。明治期に正式に認定されたが、安徳天皇が葬られた場所という伝承があるため陵墓参考地に指定されている土地は当該土地を含め10か所以上あるという)。
奈良時代の長門国は、銅を多量に産した。国司直営の銅山から採掘された銅は、都に送られて東大寺の大仏の原料になった[要出典]。
平安時代
編集また貨幣の原料としても重宝され、818年(弘仁9年)3月7日に国司が廃止されて鋳銭使と改められ、長門の行政・貨幣鋳造を司った[要出典]。その後836年(承和3年)4月に清峯門嗣に長門守任官の記録があり、その頃には国司が復活していたものとみられる。鋳銭所の所在地は下関市長府逢坂・安養寺に比定されている[要出典]。
源氏と平氏が権力争いを展開した時代の末期、平氏の知行国であった中で厚東氏、豊田氏の両氏が勢力を伸ばし、1185年(元暦2年)には壇ノ浦の戦いの舞台ともなった。
鎌倉時代
編集1276年(建治2年)、鎌倉幕府が元寇に対処するため長門探題が置かれた。
室町・戦国時代
編集周防国山口を本拠地とする大内氏が守護職となり守護代として鷲頭氏や内藤氏が務めた。この大内氏は九州のうち豊前国、筑前国までを勢力圏としていたが、後に安芸国の毛利氏に取って代わられる。
江戸時代
編集萩に藩庁を置いた長州藩の所領であった。寛永年間には馬関が北前船が寄港地として繁栄し、幕末には明治維新への拠点となった。
近世以降の沿革
編集国内の施設
編集国府
編集国府は豊浦郡にあった。現在の下関市長府宮ノ内町の忌宮神社の近辺と推定されるが、遺跡はまだ見つかっていない。
長府(長門国府)と呼ばれる前は、穴門の豊浦宮(古事記、日本書紀に記載)と呼ばれていた。
国分寺・国分尼寺
編集- 長門国分寺跡
- 下関市南部町。
神社
編集地域
編集郡
編集合計40郷(『和名抄』)
江戸時代の藩
編集人物
編集国司
編集この節の加筆が望まれています。 |
- 三輪高市麻呂:大宝2年(702年)任官
- 槻本奈弖麻呂:延暦18年(799年)任官
- 藤原豊彦:弘仁6年(815年)任官
- 清峯門継:承和3年(836年)任官
- 藤原宗善:承和4年(837年)任官
- 広宗王:承和8年(841年)任官
- 高橋清野:承和12年(845年)任官
- 紀真岡:嘉祥2年(849年)任官
- 真貞王:仁寿3年(853年)任官
- 善世豊水:天安3年(857年)任官
- 橘高成:天安3年(857年)任官
- 橘高成:天安3年(857年)任官
- 紀春常:貞観3年(861年)任官
- 藤原安嶺:貞観9年(867年)任官
- 紀真丘:貞観11年(869年)
- 宗岳木村:元慶3年(879年)離任
- 橘子善:元慶6年(882年)任官
- 菅原宗岳:仁和4年(888年)任官
- 藤原為経
守護
編集鎌倉幕府
編集- 1186年(文治2年)~? - 佐々木高綱[1]
- 1193年(建久4年)~? - 佐々木定綱[1]
- ?~1221年(承久3年) - 佐々木広綱[1]
- 1221年(承久3年)7月~1221年(承久3年)9月 - 小鹿島公業[1]
- 1222年(貞応元年)~? - 天野政景[1] (守護代 小田村光兼)
- 1242年(仁治3年)~? - 天野義景[1] (守護代 大塚康親)
- 1252年(建長4年)[注釈 1]~1276年(建治2年) - 二階堂行忠[1] (守護代 三井資平)
- 1276年(建治2年)~1279年(弘安2年) - 北条宗頼[1] (守護代 長井頼茂、岡田入道浄蓮)
- 1279年~1280年(弘安3年)[注釈 2] - 北条兼時[1]
- 1281年(弘安4年)~? - 北条師時[1] (守護代 駿河三郎、平内左衛門尉)
- 1282年(弘安5年)~? - 北条忠時[1]
- 1284年(弘安7年)~1296年(永仁4年) - 北条実政[1] (守護代 平岡為時)
- 1298年(永仁6年)~1299年(正安元年) - 北条時仲[1]
- 1300年(正安2年)~1305年(嘉元3年) - 北条時村[1]
- 1305年(嘉元3年)~? - 北条熙時[1]
- ?〜1307年(徳治2年)~1319年(元応元年)〜? - 北条時仲[1]
- ?〜1323年(元亨3年)~1333年(元弘3年) - 北条時直[1]
建武政権
編集室町幕府
編集- 1334年~1348年 - 厚東武実 (守護代 富永弥六入道)
- 1348年~1349年 - 厚東武村
- 1349年~1351年 - 長井高広
- 1351年~1353年 - 厚東武直
- 1354年~1358年 - 厚東義武
- 1358年~1374年 - 大内弘世 (守護代 森入道良恵、宮川入道良覚、杉又次郎入道智静、黒川貞信、陶弘綱)
- 1375年~1399年 - 大内義弘 (守護代 杉重貞/重直、儀安、範安、)
- 1400年~1401年 - 大内弘茂 (守護代 陶高長)
- 1401年~1431年 - 大内盛見 (守護代 陶弘長、盛長、盛政、内藤盛貞)
- 1431年~? - 大内持盛 (守護代 陶盛政)
- 1432年~1441年 - 大内持世 (守護代 鷲頭盛範)
- 1441年~1465年 - 大内教弘 (守護代 鷲頭盛範、内藤有貞、盛世)
- 1465年~1495年 - 大内政弘 (守護代 内藤盛世、武盛、弘矩)
- 1495年~1528年 - 大内義興 (守護代 内藤弘矩、弘春、興盛)
- 1528年~1551年 - 大内義隆 (守護代 内藤興盛)
- 1562年~1563年 - 毛利隆元
戦国大名
編集武家官位としての長門守
編集長門国の主な合戦
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 今井尭他『日本史総覧』 2(古代2/中世 1)、新人物往来社、1984年。ISBN 440401175X。 NCID BN00172373。全国書誌番号:84015835。
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典』 35 (山口県)、角川書店、1988年12月。ISBN 4040013506。 NCID BN00094881。全国書誌番号:89005550。
- “旧高旧領取調帳データベースの検索”. 大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国立歴史民俗博物館. 2017年1月28日閲覧。