関宿城
関宿城(せきやどじょう)は、千葉県野田市関宿三軒家にあった日本の城。室町時代に簗田満助または簗田成助によって築かれたとされ、以降簗田氏嫡流の関宿簗田家の居城になったと伝わる。江戸時代には関宿藩の藩庁が置かれた。廃藩置県後は天皇家の物となった(大正宮内庁管轄)。
関宿城 (千葉県) | |
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関宿城模擬櫓 | |
城郭構造 | 平城 |
天守構造 | なし (模擬櫓、層塔型3重3階) |
築城主 | 簗田満助か |
築城年 | 室町時代 |
主な改修者 | 松平康元 |
主な城主 |
簗田氏、後北条氏、松平氏、 小笠原氏、牧野氏、久世氏、藤田氏 |
廃城年 | 明治4年(1871年) |
遺構 | 移築城門・御殿 |
指定文化財 | なし |
再建造物 | 模擬櫓(博物館) |
位置 | 北緯36度5分48.34秒 東経139度46分48.61秒 / 北緯36.0967611度 東経139.7801694度 |
地図 |
概要
編集江戸川をさえぎるような縄張りを持っていた。利根川水系等の要地であり、関東の水運を押さえる拠点であった。
戦国時代には関東の中心部における最重要拠点であった。関東の制圧を目論む北条氏康は「この地を抑えるという事は、一国を獲得する事と同じである」とまで評した。
戦国時代末期には、北条方と上杉方の間で激しい争奪戦が繰り広げられた(関宿合戦)。北条氏康・氏政・氏照父子が、上杉謙信・佐竹義重の援助を受けた簗田晴助の守る関宿城を、3度に渡り攻撃。最終的には北条氏がこれを制し、北関東進出の拠点とした。
建造物としては(譜代大名クラスの城によくある事例だが)「御三階櫓」と呼ばれる天守状の櫓が代用として建築され、『正保城絵図』には土塁上に茅葺き屋根の三重櫓が建ち、1671年に再建された際には江戸城の富士見櫓を模して再建されたという。現在千葉県立関宿城博物館に御三階櫓を模した模擬櫓があるが、この模擬櫓は1995年に建てられたもので、城跡とは無関係な場所に建てられている。藩政時代に御三階櫓が築かれた場所は河川改修により旧状をとどめていない。
河川改修および圃場整備のため遺構の保存状態は良くない。現在は本丸跡の一部と空堀跡が僅かに残るに過ぎない[1]。建造物に関しては、埋門と大手門と伝わる門が市内に、関宿城の城門と伝わる薬医門が逆井城に、それぞれ移築され現存する。
また、市内関宿台町にある元藩主久世家の菩提寺である実相寺の客殿は、文久2年(1862年)に坂下門外の変、また公武合体(または外交方針である航海遠略策)の失敗などの責任を問われ、失脚した前老中の久世広周が謹慎した関宿城本丸新御殿の一部を明治4年(1871年)に移築したものと伝わり、市の名所となっている。
年表
編集- 1457年 - 古河公方家臣・簗田成助が下総国関宿に築城?
- 1558年 - 古河公方・足利義氏が簗田晴助を古河城と交換する形で、入城する[2]
- 1565年 - 1574年 - 3度の関宿合戦(北条氏康・氏政・氏照vs城主簗田晴助(上杉方))
- 1590年 - 小田原征伐後、松平康元が入城、関宿藩興す
- 1671年 - 天守破損、御三階櫓を江戸城富士見櫓を模して建築
- 1742年(寛保2年) - 寛保二年江戸洪水により利根川上流部の舞木・赤岩・北河原及び新川通が破堤し、関宿城下に甚大な被害をもたらし、城郭も大破[3]。
- 1870年 - 外曲輪焼失
- 1872年 - 廃城決定
- 1875年 - 民間払い下げ、破却
- 1995年 - 千葉県立関宿城博物館として再建
歴代城主
編集関宿城に関連する作品
編集国枝史郎『大鵬のゆくえ』に次のように描かれている。
追っかけ追っかけその後から幾組かの諸侯方の同勢が、いずれも小人数の供を連れ、写山楼差してやって来た。
— 国枝史郎「大鵬のゆくえ」、初出『サンデー毎日』1925(大正14)年1月
五万八千石久世大和守。――常州関宿の城主である。喜連川の城主喜連川左馬頭――不思議のことにはこの人は無高だ。
交通アクセス
編集自動車
編集- 国道16号野田市中里陸橋から25分
- 首都圏中央連絡自動車道(圏央道)境古河インターチェンジから13分、五霞インターチェンジから15分
- 新4号国道幸手市菱沼交差点から10分
バス
編集脚注
編集- ^ “関宿城”. 野田市. 2024年5月17日閲覧。
- ^ 黒田基樹『戦国関東の覇権戦争』洋泉社、2011年、pp75-76
- ^ 千葉県立関宿城博物館 - 2023年12月29日閲覧。