青い性
『青い性』(あおいせい)は、1975年6月21日に公開された映画。三東ルシア[1]・鹿間ケイ[2] W主演[3]。東映東京製作、東映配給[4]。 東映東京撮影所(以下、東映東京)で、13年間助監督を務めた小平裕の監督昇進第一作[5][6][7]。
青い性 | |
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監督 | 小平裕 |
脚本 | 小平裕 |
出演者 | |
音楽 | 八木正生 |
撮影 | 仲沢半次郎 |
編集 | 祖田富美夫 |
製作会社 | 東映東京 |
配給 | 東映 |
公開 | 1975年6月21日 |
上映時間 | 81分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
二人の高校生が連休に家出し、湘南海岸を舞台に恋と冒険、そして青春の死という現代版"太陽の季節"[8]。当時の東映の不良高校生映画というと池玲子や杉本美樹らのスケバン映画が定番だったが[8]、本作は普通の家族の16歳の性行動を描く[8]。『新幹線大爆破』の前番組である。
スタッフ
編集キャスト
編集製作
編集1974年[9]、岡田茂東映社長は「10代の映画ファンの興行への影響力が大きくなった」と判断し[10][11]、「19歳以下を取れ!」と[9]、1975年の東映製作方針として、ヤング向け映画に力を入れることを発表[9][12][13][14]。当時は1975年の正月映画で、16歳の山口百恵主演デビュー作『伊豆の踊子』(東宝)の予想外の大ヒットや[8][12][15]、自社タレントで、当時19歳の志穂美悦子の人気急上昇という背景もあり[12][16][17]、岡田社長の「女性映画を作りたい」という方針もあって[14]、1975年上半期は、テレビで活躍する若い人気歌手・タレントの起用し[10][18][19][注 1]、メイン作を従来の東映調、片番(併映作)をヤング向け番組「青春路線」とする編成を決めた[10][12][13][16][18][20]。1975年4月7日に東映本社で、本作にも出演する星正人主演第一作『青春讃歌 暴力学園大革命』の製作発表会見があり、この席で岡田が「この映画は東映の若い観客層拡大を狙い新路線だ。今後は、二本立てのうち一本は19歳以下の若い層むきの映画を作りたい」と発表した[10][12]。1975年5月、正式に「ヤングシリーズ」第一弾として[22]、本作の製作発表が行われ、当時の東映は「実録路線」がメインだったが、ユニークな新路線として注目された[22]。この時点では主役は、星正人、三東ルシア、鹿間ケイの3人と発表されていた[22]。小平裕監督は「若い人たちの意味のない行動の中に、青春の純粋さを描きたい。今の若い世代のセンスはサイクルが早い。これに遅れないようにするには、若い映画を作らねばならない」などと"ヤング東映"の番頭を期待されての意気込みを述べた[5][22]。
脚本
編集小平監督は東映調のハードな青春ものを考え、少女が海の中に入って行くと潜水艦がその下を通って爆発するというような脚本を岡田茂東映社長に提出したら、「なんや、これは!」とアタマだけ読んでゴミ箱に捨てられた[23]。小平はこのホンには連合赤軍批判のようなテーマ性を持っていたと話しているが[7]、クランクイン直前にハネられ、中止になりかけたが[7]、3日で全く別の話に書き換え無事クランクインした[7]。岡田茂は東映作品の脚本全てに目を通し[24][25]、「映画を製作するかどうかはボクが長い間の製作経験と感性でジャッジして、戸口でパッパッと決めちゃいます」などと話しているが[26]、脚本家の掛札昌裕は「東映の脚本家は、徹夜で書き上げた脚本を社長室で岡田さんの前で読み上げるんですよ。読むのはえらく面倒くさかったですけど、読むのがうまい人はOKになっちゃったりするんですよ(笑)」などと話していることから[25]。アタマだけ読んで捨てられたというのは最短記録かも知れない。
キャスティング
編集主演の三東ルシアは、1974年にグリコペロティチョコレートのCMに出演後[27]、1975年1月から放映された[28]大林宣彦演出による東陶機器(TOTO)ホーローバスの「お魚になったワ・タ・シ」のCMに[28]、高沢順子に続いて二代目CMキャラクターに選ばれ、ヌードを披露[6][27][29]、1975年3月にはコロムビアから、シングル「危険な春」で歌手としてもデビューし[28]、16歳ながらセクシーな肢体で、歌いかつ脱ぐアイドルとしてヤングの人気を高めていた[6][27][28]。
岡田東映社長は"生もの"が好きで[30]、「旬のもの、いま流行っているものをドラマにしろ、添え物(併映作品)は何をやってもいい」などと現場に指示を出しており[30]、三東ルシアと鹿間ケイが、森昌子、桜田淳子、山口百恵の花の高二トリオと同学の16歳だったことから[8]、『花の高2トリオ 初恋時代』(東宝)に対抗して、東映得意の"不良性感度"の強さで勝負するため[8]、三東と鹿間を初主演に招集した[1][8]。鹿間は「『エマニエル夫人』3回も見ちゃった。私は18歳で結婚してこども産むんだから」と話し[8]、三東は「山口百恵なんてカマトトでしょ。ゼーンゼン興味ない」などと花の高二トリオに対抗意識を燃やした[8]。寺脇研は「三東は心も体も不安定な女子高校生を演じ、"しらけの時代"と呼ばれる時代の少女を鮮やかに示した」と評価している[27]。
星正人は、東映の一押し新人男優として売り出されていた[21]。
撮影
編集1975年5月後半クランクイン[22]。 1975年5月31日、神奈川県三浦半島油壺のヨットハーバー・シーボニアから1時間の沖合のヨット上で撮影が行われた[8]。高校2年生役の鹿間ケイが、かっこいい大学生を誘うシーンで、小平監督が「オッパイを出せ」と指示したが、これを拒否し揉めた[8]。前日に海岸で暴行されるシーンでは「分かる」と承諾し、オッパイ丸出しで演技したばかりなのに、急な心変わりに天尾完次東映東京企画部長まで説得に当たり、現場を手こずらせた[8]。東映東京の組合活動家だった小平監督は「映画は観念性を持っていると思う。当然、組合でいろいろ闘ってた部分があるから、それは投影している」などと話している[7]。
宣伝
編集キャッチコピー
編集「夏の日―。16才の私を狂わせた真っ青な海」[6]。
作品の評価
編集興行成績
編集メイン作『資金源強奪』の主演・北大路欣也は「お客は入らなかった」と述べており[31]、『映画年鑑』にも「〈青春もの〉『青春讃歌 暴力学園大革命』『青い性』は失敗した」と書かれている[13]。
ソフト化状況
編集東映チャンネルではよく放送されるが[1]、東映は未成年の裸で何度もトラブルを起こしているため[6]、ソフト化は一度もされていないとされる[6]。
同時上映
編集『資金源強奪』
- 構成 - 井出昭 /
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c “青い性”. 三東ルシア・オフィシャルブログ. (2015年3月12日)“青い性”. 三東ルシア・オフィシャルブログ. (2017年7月25日)
- ^ 70年代の原宿が写真と音楽で蘇る!「70's 原風景 原宿」第2弾が開催
- ^ 1975–1976 青い性 文・堤昌司、p.166
- ^ “青い性”. 日本映画製作者連盟. 2021年4月28日閲覧。
- ^ a b 小平裕 文・松田政男、p.163
- ^ a b c d e f 「東映不良性感度映画の世界 追悼・岡田茂 東映不良性感度映画、レアなこの1本! 青い性 文・鈴木義昭」『映画秘宝』2011年8月号、洋泉社、66頁。
- ^ a b c d e 旗手たちの行方 小平裕インタビュー 『映画人生足を洗うつもりはさらさらない』 聞き手・鈴木義昭、pp.162–167
- ^ a b c d e f g h i j k l “百恵、淳子ってカマトトね 『私らも16歳"太陽の季節" ルシアとケイで『青い性』東映 脱ぐ脱がないで大衝突 奔放演技を競う”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 11. (1975年6月1日)
- ^ a b c 1975年8月 岡田社長自ら全作品プロデュース 社長陣頭指揮で秋から急浮上、pp.54–61
- ^ a b c d “太秦映画村製作方針などで東映岡田社長記者会見獅子吼”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 1. (1975年8月30日)
- ^ 「東映岡田社長、六月以降の制作企画作品発表」『映画時報』1975年2月号、映画時報社、19頁。
- ^ a b c d e ドラゴン対アイドル 女の闘い、pp.272–275
- ^ a b c 今村三四夫「映画界重要日誌/製作配給界(邦画)」『映画年鑑 1976(映画産業団体連合会協賛)』1975年12月1日発行、時事映画通信社、12、100、106頁。
- ^ a b 登石雋一(東映取締役・企画製作部長)・鈴木常承(東映営業部長兼洋画部長)・畑種治郎(東映・興行部長)・岡田敬三 (東映・宣伝部長代理)、司会・北浦馨「収益増大を計る東映'75作戦のすべて 企画・製作は新兵器の発見 営業・興行は直営120館獲得へ」『映画時報』1975年2月号、映画時報社、6–7頁。
- ^ 「映画界東西南北談議 映画復興の二年目は厳しい年 新しい映画作りを中心に各社を展望」『映画時報』1975年2月号、映画時報社、36–37頁。
- ^ a b “スマートに 華麗に 志穂美悦子 『東映を変える女』 藤純子以来…春季大攻勢かける…”. デイリースポーツ (デイリースポーツ社): p. 8. (1975年2月28日)
- ^ 「やった!アクション悦子」『近代映画』1975年6月号、近代映画社、38 - 39頁。【今だから明かす あの映画のウラ舞台】女優編(中) 海外でも評価が高かった志穂美悦子のアクション (1/2ページ)
- ^ a b “岡田東映社長新方針発表 四ジャンルで衣替え活劇”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 1. (1975年2月22日)
- ^ 「映画界東西南北談議 映画復興の二年目は厳しい年 新しい映画作りを中心に各社を展望」『映画時報』1975年2月号、映画時報社、33–35頁。「東映岡田社長、六月以降の制作企画作品発表」『映画時報』1975年2月号、映画時報社、19頁。藤木TDC「藤木TDCのヴィンテージ女優秘画帖(53)」『映画秘宝』2010年12月号、洋泉社、101頁。
- ^ a b 「Whos Who 青春映画を作ってもやはり東映は東映」『週刊文春』1975年4月19日号、文藝春秋、19頁。
- ^ a b “邦画短信”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 2. (1975年4月12日)
- ^ a b c d e “第一弾は『青い性』 東映の新しいヤングシリーズ 主役に星正人ら 監督も新人の小平裕で”. デイリースポーツ (デイリースポーツ社): p. 6. (1975年5月23日)
- ^ 梅林敏彦『シネマドランカー ―荒野を走る監督たち』北宋社、1980年、31-45頁。
- ^ “出会いに導かれた活動屋(7)映画プロデューサー坂上順氏(仕事人秘録)”. 日経産業新聞 (日本経済新聞社): p. 19. (2012年11月13日)
- ^ a b 桂千穂・掛札昌裕・宮川一郎・寺脇研「シンポジウム〔映像とシナリオのあいだ Part5〕 面白さの源流《新東宝映画》- 隠された日本映画史」『シナリオ』2006年8月号、日本シナリオ作家協会、64頁。
- ^ 1984年2月 ノーといえ、説得できり男が要る、pp.188–190
- ^ a b c d 三東ルシア 文・寺脇研、p.350
- ^ a b c d “巨額の宣伝マーチに送られ 目玉新人スタート 『春風に乗りた―い』 色っぽくヤングしびれさす 三東ルシア(コロンビア)”. デイリースポーツ (デイリースポーツ社): p. 8. (1975年2月17日)
- ^ “三東ルシアは別れた芸人にも濃厚に迫られた!/あの「色香女王」と感涙再会(2)”. アサ芸プラス. 徳間書店 (2021年4月27日). 2020年1月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月28日閲覧。
- ^ a b 杉作J太郎、植地毅『東映スピード・アクション浪漫アルバム 佐伯俊道インタビュー』徳間書店、2015年、170頁。ISBN 9784198637927。
- ^ 杉作J太郎、植地毅「北大路欣也インタビュー」『仁義なき戦い 浪漫アルバム』徳間書店、1998年、186頁。ISBN 9784198608460。
参考文献
編集- 『日本映画俳優全集 女優編』キネマ旬報社、1980年。
- 『日本映画テレビ監督全集』キネマ旬報社、1988年。
- 川崎宏『狂おしい夢 不良性感度の日本映画 東映三角マークになぜ惚れた!? 』青心社、2003年。ISBN 9784878922664。
- 高護(ウルトラ・ヴァイブ)『日本映画名作完全ガイド 昭和のアウトロー編ベスト400 1960‐1980』シンコーミュージック、2008年。ISBN 9784401751228。
- 文化通信社 編『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年。ISBN 9784636885194。
- 藤木TDC『アウトロー女優の挽歌 スケバン映画とその時代』洋泉社〈映画秘宝〉、2018年。ISBN 9784800315748。
外部リンク
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