保定府(ほていふ)は、中国にかつて存在した明代から民国初年にかけて、現在の河北省保定市一帯に設置された。

直隷省の保定府の位置(1820年)

概要

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1129年天会7年)、宗輔清苑県に順天軍が置かれた[1]

1239年モンゴル帝国により順天軍は順天路と改められた[2]1275年至元12年)、順天路は保定路と改称された。保定路は中書省に属し、録事司と清苑・満城慶都行唐曲陽新安博野の8県と易州に属する淶水定興の3県と祁州に属する蒲陰深沢束鹿の3県と雄州に属する帰信容城新城の3県と安州に属する葛城高陽の2県と遂州安粛州完州、合わせて1司8県7州州領11県を管轄した[3]

1368年洪武元年)、により保定路は保定府と改められた。保定府は北直隷に属し、直属の清苑・満城・安粛・定興・新城・・容城・唐・慶都・博野・の12県と祁州に属する深沢・束鹿の2県と安州に属する高陽・新安の2県と易州に属する淶水県、合わせて3州17県を管轄した[4]

のとき、保定府は直隷省に属し、清苑・満城・安粛・定興・新城・雄・容城・唐・望都・博野・蠡・完・束鹿・高陽・祁州・安州の2州14県を管轄した[5]

1913年中華民国により保定府は廃止された。

脚注

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  1. ^ 金史』太宗紀
  2. ^ 元史』太祖紀
  3. ^ 『元史』地理志一
  4. ^ 明史』地理志一
  5. ^ 清史稿』地理志一