高野村 (茨城県)
日本の茨城県北相馬郡にあった村
高野村(こうやむら)は、かつて茨城県北相馬郡に存在した村の一つ。現在の茨城県守谷市南西部に当たる地域。1889年(明治22年)4月1日の村制で誕生した。なお、その前身の1つである高野村(こうやむら)については、高野 (守谷市)を参照。
こうやむら 高野村 | |
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廃止日 | 1955年3月1日 |
廃止理由 |
新設合併 高野村、守谷町、大井沢村、大野村 → 守谷町 |
現在の自治体 | 守谷市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 関東地方 |
都道府県 | 茨城県 |
郡 | 北相馬郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
面積 | 6.29 km2. |
総人口 |
1,724人 (1954年7月) |
隣接自治体 | 北相馬郡守谷町、大野村、大井沢村、取手町、柏市 |
高野村役場 | |
所在地 | 茨城県北相馬郡高野村大字高野1295番地1 |
座標 | 北緯35度55分42秒 東経139度59分11秒 / 北緯35.92836度 東経139.98639度座標: 北緯35度55分42秒 東経139度59分11秒 / 北緯35.92836度 東経139.98639度 |
ウィキプロジェクト |
地理
編集茨城県北相馬郡西部にあった村。地域の南端を流れる利根川沿いを除いて常総台地上に位置した村である。
現在の地名では乙子、高野、鈴塚、美園の全域と、けやき台、松ケ丘の一部に相当する。
地域
編集- 大字高野
- (字)五十塚、瓜代、北今城、南今城、根切、仲原、向坪ほか
- 大字鈴塚
- (字)大目、久保ほか
- 大字乙子
- (字)柿ノ沢、向山ほか
歴史
編集地名の由来
編集高野村、鈴塚村、乙子村の中で最も大村である高野村の名前を採った。前身となる高野村は、天慶元年に平将門が興世王の分城(今城 (下総国) を参照)を築き今城村としたことに始まり、平将門が紀州高野山金剛峰寺にまねてここに海禅寺を創建したことから、慶長年間に高野村と改めたものである。
沿革・年表
編集地域の変遷
編集市町村域
編集慶長以前 | 慶長年間 - 明治11年7月21日 | 明治11年7月22日 - 明治22年3月31日 | 明治22年4月1日 - 昭和30年2月28日 |
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相馬郡今城村 | 相馬郡高野村 | 北相馬郡高野村 | 北相馬郡高野村 |
相馬郡乙子村 | 相馬郡乙子村 | 北相馬郡乙子村 | |
相馬郡鈴塚村 | 相馬郡鈴塚村 | 北相馬郡鈴塚村 |
昭和30年3月1日 - 平成14年2月2日 | 現在 |
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北相馬郡守谷町 | 守谷市 |
交通
編集高野村には鉄道駅は存在しなかったが、隣町の守谷町に常総鉄道(後の常総筑波鉄道、現在の関東鉄道常総線)が通り、守谷駅を利用することができた。また、1900年(明治33年)より、常総鉄道が開通する1913年(大正2年)までは鬼怒川、利根川、江戸川流域より東京市を結ぶ蒸気船「通運丸」を利用することができた。その他にも1873年(明治6年)から利根川に渡船場が存在したが、1935年(昭和10年)頃の大洪水の後に閉鎖された。