1936年ベルリンオリンピックの陸上競技・男子マラソン

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1936年ベルリンオリンピックの陸上競技・男子マラソン(1936ねんロサンゼルスオリンピックのりくじょうきょうぎ だんしマラソン)は、1936年8月9日に行われた。27の国から56人の選手が出場した[1]。各国の選手は最大3人に設定されていた。日本代表として出場した朝鮮人選手孫基禎が優勝した。孫は表彰式での国歌斉唱を拒否した[2]。孫はオリンピック金メダルを獲得した最初の朝鮮人選手となったが、オリンピックのマラソンにおける日本の初優勝となっている[1]

1936年夏季
男子マラソン

ベルリンオリンピックマラソンの孫基禎(左)と
アーネスト・ハーパー
会場2ベルリン・オリンピアシュタディオン(スタートとゴール)
開催日8月9日
参加選手数27か国 56人
スコア2:29:19.2
メダリスト
金メダル 
銀メダル 
銅メダル 
« 19321948 »

朝鮮のアスリート

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孫の日章旗を抹消した東亜日報の写真

大会当時、朝鮮は日本に併合されていたため、朝鮮の選手(孫基禎と南昇竜)は日本選手団の一員として日本式の漢字の読み方による名前(孫は「そん・きてい」、南は「なん・しょうりゅう」)を使用して出場した。孫と南の韓国名は、それぞれソン・ギジョンとナム・スンニョンである。孫は勝利後、表彰式で頭を下げ、独立した朝鮮ではなく占領国である日本のために戦うのは恥ずかしいと述べた[2]。朝鮮の新聞『東亜日報』は、レースから約2週間後の8月25日の夕刊に掲載した表彰式の写真で孫のユニフォームにある日の丸を消したため、多くの社員が逮捕された後、朝鮮総督府により発行停止処分(8月29日から翌年6月まで)を受けた[3][4]

レース前の状況

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オリンピックでマラソンが行われるのは10回目である。1932年の前大会も出場した選手には、前大会優勝者のアルゼンチンフアン・カルロス・サバラや10位のデンマークAnders Hartington Andersenがいた。孫基禎は1935年に世界記録を破り、1933年から出場した12個のマラソン大会のうち9個で優勝し、他3個でも3位以内に入っていた[1]

ブルガリア中華民国ペルーポーランドスイスがオリンピックのマラソンに初出場した。アメリカ合衆国は10回目の出場となり、ここまで行われたオリンピックのマラソンに全て出場した唯一の国となった。

大会時の記録

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ウェブサイト「World Marathon Ranking」による[5]

  • 世界記録 - 孫基禎、2時間26分42秒、東京、1935年11月3日
  • オリンピック記録 - フアン・カルロス・サバラ、2時間31分36秒、ロサンゼルス、1932年8月7日

孫基禎は本大会で2時間29分19秒2というタイムを出し、オリンピック記録を更新している。

コース

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マラソン(赤)と50km競歩(青)のコース

コースはメイン会場であるベルリン・オリンピアシュタディオンを発着点とする往復ルートで、ハーフェル川の途中にある湖畔を経由した後、自動車レース用サーキットであるアヴスに入り、その中に折り返し点が設けられた[6][7][注釈 1]。日本選手団関係者は事前の視察で、アップダウンが多く、アヴスでは遮る樹木もない環境の難コースという判断を下していた[6]

レース経過

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8月9日の15:02にオリンピアシュタディオンをスタートし、序盤はオリンピック連覇を狙うサバラが先頭に立った[7]。12 km 地点では2位以下に1分あまりの差を付けていた[7]。この時点で孫は4位だった[7]。15 km を過ぎて前に行こうとした孫に、併走していたイギリスアーネスト・ハーパーは「スロー、スロー」とペースを抑えるように手振りも交えて繰り返し話しかけ、当初は警戒した孫もしばらくそれに応じた[7]。18 km 地点ではサバラと2位のマヌエル・ディアス英語版ポルトガル)の差は2分2秒と広がり、4位の孫は「これではいけない」と判断してピッチを上げ、ハーパーもしばらくしてそれに追随した[7]。折り返し点(21 km)では孫とハーパーは2位に上がり、トップのサバラとは1分10秒差となった[7]。25 km 地点でもサバラと孫の差は1分32秒あったが、サバラはスピードが落ち、28 km 地点で差は33秒に縮まる[7]。アヴスを抜ける29 km 地点でついに孫はサバラを抜いて先頭に出た[7]。サバラは32 km 地点で4位に落ちた直後に立ち止まり、そのまま途中棄権となった[7]。31 km 地点で10位、32 km 地点では7位だった南は、32 km からのヴィルヘルム坂でスパートをかけて4人を抜き、37 km 地点までに3位に上がった[7]。先頭の孫はハーパーも大きく引き離し、そのままオリンピック記録となる2時間29分19秒2で優勝、以下ハーパー、南の順となった[7]。暑さのために途中棄権者が相次ぎ[7]、出走56人中14人がゴールできなかった[8]

結果

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順位 選手 タイム 備考
  孫基禎   日本 2:29:19.2 OR
  アーネスト・ハーパー   イギリス 2:31:23.2
  南昇竜   日本 2:31:42.0
4 エルッキ・タミラ英語版   フィンランド 2:32:45.0
5 ヴァイノ・ムイノネン英語版   フィンランド 2:33:46.0
6 ヨハンネス・コールマン英語版   南アフリカ 2:36:17.0
7 ドナルド・ロバートソン英語版   イギリス 2:37:06.2
8 ジャッキー・ギブソン英語版   南アフリカ 2:38:04.0
9 マウノ・タルキアイネン英語版   フィンランド 2:39:33.0
10 Thore Enochsson   スウェーデン 2:43:12.0
11 Stylianos Kyriakides   ギリシャ 2:43:20.0
12 ヌーバ・カリド英語版   フランス 2:45:34.0
13 ヘンリー・パルメ英語版   スウェーデン 2:46:08.4
14 Franz Tuschek   オーストリア 2:46:29.0
15 ジミー・バートレット英語版   カナダ 2:48:21.4
16 エミール・デュバル英語版   フランス 2:48:39.8
17 マヌエル・ディアス英語版   ポルトガル 2:49:00.0
18 ジョニー・ケリー英語版   アメリカ合衆国 2:49:32.4
19 Miloslav Luňák   チェコスロバキア 2:50:26.0
20 Felix Meskens   ベルギー 2:51:19.0
21 Ján Takáč   チェコスロバキア 2:51:20.0
22 Rudolf Wöber   オーストリア 2:51:28.0
23 Ludovic Gall   ルーマニア 2:55:02.0
24 Robert Nevens   ベルギー 2:55:51.0
25 Anders Hartington Andersen   デンマーク 2:56:31.0
26 ガブリエル・メンドーサ英語版   ペルー 2:57:17.8
27 トミー・ラランデ英語版   南アフリカ 2:57:20.0
28 Artūrs Motmillers   ラトビア 2:58:02.0
29 エドゥアルド・ブラセッケ英語版   ドイツ 2:59:33.4
30 パーシー・ワイアー英語版   カナダ 3:00:11.0
31 Fernand Le Heurteur   フランス 3:01:11.0
32 Wilhelm Rothmayer   オーストリア 3:02:32.0
33 Bronisław Gancarz   ポーランド 3:03:11.0
34 Max Beer   スイス 3:06:26.0
35 Guillermo Suárez   ペルー 3:08:18.0
36 Boris Kharalampiev   ブルガリア 3:08:53.8
37 Arul Swami   インド 3:10:44.0
38 Josef Šulc   チェコスロバキア 3:11:47.4
39 Franz Eha   スイス 3:18:17.0
40 王正林英語版   中華民国 3:25:36.4
41 Stane Šporn   ユーゴスラビア 3:30:47.0
42 José Farías   ペルー 3:33:24.0
Juan Acosta   チリ DNF
Franz Barsicke   ドイツ DNF
エリソン・ブラウン英語版   アメリカ合衆国 DNF
Giannino Bulzone   イタリア DNF
Paul de Bruyn   ドイツ DNF
Kazimierz Fiałka   ポーランド DNF
Aurelio Genghini   イタリア DNF
ビリー・マクマホン英語版   アメリカ合衆国 DNF
Jaime Mendes   ポルトガル DNF
バート・ノリス英語版   イギリス DNF
Luis Oliva   アルゼンチン DNF
塩飽玉男   日本 DNF
ハロルド・ウェブスター英語版   カナダ DNF
フアン・カルロス・サバラ   アルゼンチン DNF
Vincent Callard   カナダ DNS
Jean Chapelle   ベルギー DNS
Ernst Hirt   スイス DNS
Jorge Perry   コロンビア DNS

脚注

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注釈

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  1. ^ 鎌田忠良や当時の新聞記事には「ハーフェル湖畔(道路)」という表現が見られるが[6]、実際にはハーフェル川の水路の途中に複数の湖が存在しており、「ハーフェル湖」という湖があるわけではない(添付のコース図からは、ほぼヴァン湖沿いである)。またアヴスについては鎌田忠良や当時の新聞は「アボス」と表記している[6]

出典

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  1. ^ a b c Marathon, Men”. Olympedia. 27 August 2020閲覧。
  2. ^ a b Athletics at the 1936 Berlin Summer Games: Men's Marathon”. sports-reference.com. 17 April 2020時点のオリジナルよりアーカイブ。30 April 2017閲覧。
  3. ^ 鎌田忠良 1988, pp. 353–361.
  4. ^ 鎌田忠良 1988, pp. 373–375.
  5. ^ World Marathon Rankings for 1935”. ARRS. March 17, 2010閲覧。
  6. ^ a b c d 鎌田忠良 1988, pp. 248–249, 308.
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m 鎌田忠良 1988, pp. 322–339.
  8. ^ 鎌田忠良 1988, p. 350.

参考文献

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  • 鎌田忠良『日章旗とマラソン ベルリン・オリンピックの孫基禎』講談社講談社文庫〉、1988年8月15日。 

外部リンク

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