「中学校社会 歴史/社会の変化と江戸幕府」の版間の差分
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では、収入を増やすには、どうすればよいでしょうか。米の収穫量の石高(こくだか)をふやせばいいわけです。年貢の米が、収入のもとなのだから、だったら米の石高を増やせばいいので、吉宗は新田(しんでん)の開発をすすめました。 |
では、収入を増やすには、どうすればよいでしょうか。米の収穫量の石高(こくだか)をふやせばいいわけです。年貢の米が、収入のもとなのだから、だったら米の石高を増やせばいいので、吉宗は新田(しんでん)の開発をすすめました。 |
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年貢も、ふやしました。 |
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関係して、米相場の安定のため、大阪にあった堂島(どうじま)の米市場(こめいちば)を公認しました(堂島米市場)。(※資料集の範囲) |
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また、年貢米を増やすため、年貢を、毎年役人が決める「検見法」(けみほう)から、一定の年数のあいだ固定の年貢の'''定免法'''(じょうめんほう)に変えました。もしかしたら、役人の不正を防止したいという思惑もあったかもしれません。 |
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:※ ただし欠点として、臨機応変の対応ができなくなる。定免法は良さそうに聞こえますが、凶作の時代も毎年同じように一定の年貢を納めますので(受験研究社)、考え方によっては悪法です。 |
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:※ 定免法も、おそらく米価の安定のための政策の一つでしょう。収穫量が安定すれば米価も安定する、という発想でしょう。 |
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しかし、実際には、米価を上げることは、容易ではなかった(旺文社)。 |
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商品作物の開発も、すすめて、菜種・さつまいも、さとうきび、朝鮮人参(ちょうせんにんじん)、・・・などの開発をさせました。 |
商品作物の開発も、すすめて、菜種・さつまいも、さとうきび、朝鮮人参(ちょうせんにんじん)、・・・などの開発をさせました。 |
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* 目安箱(めやすばこ) |
* 目安箱(めやすばこ)と火消し、小石川養生所 |
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江戸に<big>目安箱</big>(めやすばこ)を作って、庶民や町民でも、アイデアを書いて投書(とうしょ)で幕府に意見をとどける仕組み |
江戸に<big>目安箱</big>(めやすばこ)を作って、庶民や町民でも、アイデアを書いて投書(とうしょ)で幕府に意見をとどける仕組みが出来た。 |
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* 火消し(ひけし) |
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:※ なお、この江戸の火消しの行政を整備していった奉行の'''大岡越前'''(おおおか えちぜん)も、吉宗の改革である「'''足高の制'''」(たしだかのせい)によって家柄に関係なく採用された人物である。当時、役職の給料が家柄で決まっていたので、家柄ではなく仕事内容で在職中の給料が決まるという、今では当たり前の制度が取られた。登用された、家柄の低い人物に、収入の石高を足すので、「足高の制」という。 |
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ほかにも、目安箱からの意見により、江戸に無料の病院の「小石川養生所」(こいしかわ ようじょうじょ)ができて、庶民も治療した。 |
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また、オランダ語を青木昆陽(あおき こんよう)や野呂元丈(のろ げんじょう)たちに学ばせました。 |
また、オランダ語を青木昆陽(あおき こんよう)や野呂元丈(のろ げんじょう)たちに学ばせました。 |
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さつまいもの栽培の研究を命じられた青木昆陽(あおきこんよう)も、オランダ語を学んでいます。 |
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こうして、西洋の理科などの知識が日本に輸入する、蘭学(らんがく)が広まっていきました。「蘭」(らん)とは、この文脈ではオランダの事です。 |
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改革により一時的に財政が立ち直ったが、農民にとっては年貢がきびしくなったこともあり、さらに飢饉(ききん)や凶作(きょうさく)も重なって、百姓一揆(ひゃくしょう いっき) や '''打ちこわし'''(うちこわし) が起こった。 |
改革により一時的に財政が立ち直ったが、農民にとっては年貢がきびしくなったこともあり、さらに飢饉(ききん)や凶作(きょうさく)も重なって、百姓一揆(ひゃくしょう いっき) や '''打ちこわし'''(うちこわし) が起こった。 |
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吉宗の改革で、年貢の率を、豊作・凶作にかかわらず一定の率にする定免法(じょうめんほう)で、米の値段を安定させようとしていたので、不作のときは農民が苦しくなりました。 |
吉宗の改革で、年貢の率を、豊作・凶作にかかわらず一定の率にする'''定免法'''(じょうめんほう)で、米の値段を安定させようとしていたので、不作のときは農民が苦しくなりました。 |
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米の値段(ねだん)の調整(ちょうせい)につとめた吉宗は「米将軍」(こめしょうぐん)と人々から呼ばれたり、「米公方」(こめくぼう)と人々から呼ばれたりしました。 |
米の値段(ねだん)の調整(ちょうせい)につとめた吉宗は「米将軍」(こめしょうぐん)と人々から呼ばれたり、「米公方」(こめくぼう)と人々から呼ばれたりしました。 |
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改革とは違いますが、吉宗のころの時代になると、工場制手工業が発達してきました。 |
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この頃、商人や大地主が、生産に必要な設備を買い入れ、職場に多くの人をあつめて働かせるという、今でいう工場のような生産方式が出始め、これを工場制手工業(こうじょうせい しゅこうぎょう)という。 |
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[[中学校社会_歴史/江戸幕府の始まり]] |
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== 田沼意次(たぬま おきつぐ)の改革 == |
== 田沼意次(たぬま おきつぐ)の改革 == |
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天保の改革は失敗に終わり、たったの2年あまりで終わり、水野忠邦は失脚し、幕府そのものも人々からの信用が下がっていった。 |
天保の改革は失敗に終わり、たったの2年あまりで終わり、水野忠邦は失脚し、幕府そのものも人々からの信用が下がっていった。 |
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2024年9月24日 (火) 05:50時点における版
将軍・吉宗の政治«享保の改革»
8代将軍の徳川吉宗(とくがわ よしむね)のころになっても、幕府の財政は、よくありません。吉宗の理想は家康のころの政治で、吉宗は質素倹約(しっそけんやく)をすすめました。 吉宗の行った一連の改革を享保の改革(きょうほう の かいかく)と言います。
吉宗自身も倹約につとめました。
財政の悪い理由は、収入が少なく、支出が多いわけです。だったら、財政(ざいせい)改革では、何らかの方法で収入をふやして、支出をへらせばいいわけです。
質素倹約には、支出をへらす狙い(ねらい)も、あります。倹約令の対象者は、武士が中心です。(武士の給料は幕府から出ていたので、幕府の支出を減らすには、武士に倹約をしてもらう必要があります。)
では、収入を増やすには、どうすればよいでしょうか。米の収穫量の石高(こくだか)をふやせばいいわけです。年貢の米が、収入のもとなのだから、だったら米の石高を増やせばいいので、吉宗は新田(しんでん)の開発をすすめました。
関係して、米相場の安定のため、大阪にあった堂島(どうじま)の米市場(こめいちば)を公認しました(堂島米市場)。(※資料集の範囲)
また、年貢米を増やすため、年貢を、毎年役人が決める「検見法」(けみほう)から、一定の年数のあいだ固定の年貢の定免法(じょうめんほう)に変えました。もしかしたら、役人の不正を防止したいという思惑もあったかもしれません。
- ※ ただし欠点として、臨機応変の対応ができなくなる。定免法は良さそうに聞こえますが、凶作の時代も毎年同じように一定の年貢を納めますので(受験研究社)、考え方によっては悪法です。
- ※ 定免法も、おそらく米価の安定のための政策の一つでしょう。収穫量が安定すれば米価も安定する、という発想でしょう。
しかし、実際には、米価を上げることは、容易ではなかった(旺文社)。
商品作物の開発も、すすめて、菜種・さつまいも、さとうきび、朝鮮人参(ちょうせんにんじん)、・・・などの開発をさせました。
飢饉(ききん)にそなえ、さつまいもの栽培の研究を、青木昆陽(あおきこんよう)に命じます。
- 目安箱(めやすばこ)と火消し、小石川養生所
江戸に目安箱(めやすばこ)を作って、庶民や町民でも、アイデアを書いて投書(とうしょ)で幕府に意見をとどける仕組みが出来た。
目安箱の意見も参考にして、江戸の消防(しょうぼう)である町火消し(まちひけし)の制度を、整備していった。
- ※ なお、この江戸の火消しの行政を整備していった奉行の大岡越前(おおおか えちぜん)も、吉宗の改革である「足高の制」(たしだかのせい)によって家柄に関係なく採用された人物である。当時、役職の給料が家柄で決まっていたので、家柄ではなく仕事内容で在職中の給料が決まるという、今では当たり前の制度が取られた。登用された、家柄の低い人物に、収入の石高を足すので、「足高の制」という。
ほかにも、目安箱からの意見により、江戸に無料の病院の「小石川養生所」(こいしかわ ようじょうじょ)ができて、庶民も治療した。
- 実学の許可(きょか)
キリスト教をのぞく、産業や医学や天文学(てんもんがく)などの実学(じつがく)の洋書(ようしょ)の輸入を許可します。当時の輸入された洋書は、ヨーロッパの洋書が中国語に訳された漢訳洋書(かんやくようしょ)です。
また、オランダ語を青木昆陽(あおき こんよう)や野呂元丈(のろ げんじょう)たちに学ばせました。
さつまいもの栽培の研究を命じられた青木昆陽(あおきこんよう)も、オランダ語を学んでいます。
こうして、西洋の理科などの知識が日本に輸入する、蘭学(らんがく)が広まっていきました。「蘭」(らん)とは、この文脈ではオランダの事です。
- 上米の制(あげまいのせい)
大名の参勤交代をゆるくするかわりに、大名は石高1万石につき100石の割合で米をさしだす上米の制(あげまいのせい)が作られました。上米の制により、参勤交代での江戸の滞在期間は半年になった。それまでは1年の江戸滞在だった。
- 裁判の改革
公正な政治や裁判をおこなうため、これまでの法令を整理した公事方御定書(くじがた おさだめがき)を出して、政治や裁判の基準を定めた。
このような,吉宗の行った一連の改革を享保の改革(きょうほうのかいかく)と言います。
- 公事方御定書
- 一. 人を殺し、盗みを働いた者 ・・・ 引き回しの上、獄門(ごくもん)
- 一. 追剥ぎした者 ・・・ 獄門
(以下略)
- 改革の結果
改革により一時的に財政が立ち直ったが、農民にとっては年貢がきびしくなったこともあり、さらに飢饉(ききん)や凶作(きょうさく)も重なって、百姓一揆(ひゃくしょう いっき) や 打ちこわし(うちこわし) が起こった。
吉宗の改革で、年貢の率を、豊作・凶作にかかわらず一定の率にする定免法(じょうめんほう)で、米の値段を安定させようとしていたので、不作のときは農民が苦しくなりました。
米の値段(ねだん)の調整(ちょうせい)につとめた吉宗は「米将軍」(こめしょうぐん)と人々から呼ばれたり、「米公方」(こめくぼう)と人々から呼ばれたりしました。
- サツマイモの栽培
吉宗は、青木昆陽(あおき こんよう)にオランダ語の学習を命じて、蘭学者にしました。この青木昆陽が、日本でのサツマイモの栽培方法を研究し、(青木の助言もあってか)吉宗たちは飢饉(ききん)にそなえる食品としてサツマイモを日本で普及させました。(※ 東京書籍、帝国書院、教育出版、清水書院、日本文教出版などの教科書で紹介。)
改革とは違いますが、吉宗のころの時代になると、工場制手工業が発達してきました。
この頃、商人や大地主が、生産に必要な設備を買い入れ、職場に多くの人をあつめて働かせるという、今でいう工場のような生産方式が出始め、これを工場制手工業(こうじょうせい しゅこうぎょう)という。
田沼意次(たぬま おきつぐ)の改革
10代将軍の家治(いえはる)のころ、幕府の財政が、また悪化していきます。 8代吉宗の改革で年貢は増えたのですが、そのあと、米の値段そのものが下落していったのです。こうして、10代将軍のころ、また財政が悪化したのです。
老中の田沼意次(たぬま おきつぐ)は、農産物を中心とした年貢(ねんぐ)だけでは限界があると考え、商業を重んじた政策を取ります。
- 株仲間(かぶなかま)の許可
商工業者に事業独占の株仲間(かぶなかま)の結成を積極的に認めるかわりに、株仲間から税(ぜい)を取り、収入をふやしました。
- 長崎貿易
田沼は、長崎貿易もすすめ、日本からの輸出品(ゆしゅつひん)には海産物(かいさんぶつ)や銅(どう)を輸出(ゆしゅつ)することで、日本に金銀を流入させようとします。また、銅山の開発も行いました。
輸出品には銅のほかにも、海産物が俵物(たわらもの)として輸出された。
田沼の政治は、貨幣経済の進む世の中でも安定的に税収をとる工夫をしている、という財政的には合理的な政策であったが、幕府の役人のあいだに賄賂(わいろ)が横行するようになったりして、批判(ひはん)もあった。
また、天明のききんが1782年(天明2年)から1788年(天明8年)に東北地方を中心におこり、百姓一揆や打ちこわしがおこり、田沼の政治は行きづまり、田沼は失脚(しっきゃく)して老中をやめさせられた。その原因は、東北地方での冷害が原因だと言われています。また、同じ時期に浅間山の噴火も発生しています。
(※ 発展: ) 田沼のこういった経済政策の効果があったのか、江戸の文化はこのころ発展して、日本の文化の中心も、それまでの大阪(上方(かみがた))を中心としていた文化だったのが、しだいに江戸を文化の中心とする文化になっていった。(※ ソースは某教科書会社の副教材ワークシート。)あるいは、文化の発展にあわせて、経済政策を田沼が改革したのか。 田沼の活躍した時代の(大阪ではなく)江戸中心とした文化はおおむね、「化政文化」(かせいぶんか)と言われる時代に含まれる。
- ※ ウィキペディアによると、従来説では江戸時代の文化の時代区分は2分類だったが、新説で文化の時代区分を3分類しようという学説も提唱されており、田沼のこの時代が、3つ目の時代区分だったり、あるいは時代の境界線だったりする。だが、まだ中学の教育現場では、そこまで新説を採用しておらず、今のところ中学教育は従来説の立場である。
寛政の改革
(かんせいの かいかく)
天明のききんが1782年(天明2年)から1788年(天明8年)に東北地方を中心におきた。天明のききんのつづくなか、老中だった田沼意次(たぬま おきつぐ)が失脚し、新しい老中として松平定信(まつだいら さだのぶ)が1787年に老中になる。
定信は奥州白河(おうしゅうしらかわ、福島県)の藩主で、天明のききんのときに、素早い対策を取り、すばやく商人から米や食料を買いあげて、農民に食料をくばるという方法で、領内で飢饉(ききん)による死者を一人も出さなかったと言われる。
この功績が評価され、定信は老中になった。
このとき、将軍は徳川家斉(とくがわ いえなり)。
定信は、さまざまな改革をおこなう。松平定信の行った改革を 寛政の改革(かんせいの かいかく) といいます。
飢饉(ききん)により、まず、食料生産をふやさないと国が危険な時代になってるので、定信は、食料生産を増やす(ふやす)政策を取る。
江戸に出稼ぎで来ていた農民を農村にかえらせるため帰農令(きのうれい)を出し、農民を農業に専念させます。また、商品作物の制限をし、なるべく米をつくらせます。
凶作でも飢饉(ききん)にならないように、米を蔵(くら)に蓄え(たくわえ)させるという囲い米(かこいまい)の制度を作ります。
ききんで米が不足しているということは年貢による収入も少ないということであり、幕府の財政も少なくなっています。なので、帰農令や囲い米には、財政を安定化させる役割もあります。
定信は倹約をすすめました。ききんで、余計な金をつかっている余裕がないし、そもそも年貢不足による財政難(ざいせいなん)なので、ぜいたくも出来ません。
松平定信(まつだいら さだのぶ)のこれらの改革を 寛政の改革(かんせいの かいかく) といいます。
寛政の改革には、食料の増産(ぞうさん)のほかにも、以下のような政策もあります。
- 人足寄場(にんそくよせば)
職業訓練です。 ききんにより、農村が荒廃して江戸に人が流入したりして、江戸の町に浮浪者がふえたので、無宿舎を対象に職業訓練を行った。
- 棄捐令(きえんれい)
借金の負担がおもくなった武士をすくうための、借金帳消しの政策。つまり徳政令(とくせいれい)。当然のごとく、商人は次からは金をかさなくなるので、武士の経済問題が先送りされただけであった。
- 積み金(つみきん)
- 江戸では、緊急時のために、金(かね)を貯金していく積み立て(つみたて)をした。
- 寛政異学の禁(かんせいいがく の きん)
- 幕府の儒学を教える学校では、儒学の一派である朱子学(しゅしがく)のほかは教えられなくなった。
儒学の派(は)には、朱子学の他にも陽明学(ようめいがく)などがある。 朱子学が正式な儒学である正学(せいがく)とされ、陽明学などのほかの派の儒学は異学(いがく)とされた。
しかし、この改革では倹約を強制し、さらに学問の統制、思想の統制などを行ったり、借金帳消しをさせたため、産業や文化が停滞(ていたい)し、人々の反発がつよまり、定信は6年ほどで失脚(しっきゃく)した。
狂歌には、「白河(しらかわ)の 清き(きよき)に魚(さかな)の 住(す)みかねて もとの濁り(にごり)の 田沼(たぬま)こいしき」とも、うたわれました。 「世の中に 蚊ほど うるさき ものは(わ)なし ぶんぶ(文武)といふて 夜もねむれず」とも、うたわれました。
(※ 社会科の範囲外: )よく「狂歌」と「川柳」(せんりゅう)とが間違えられる。「狂歌」は五・七・五・七・七の合計31音。「川柳」は五・七・五の合計17音。
外国船の出没(しゅつぼつ)
寛政の改革のころの18世紀後半に、ヨーロッパやアメリカなど欧米では政治改革や産業の近代化がおこり、そのため欧米の国力が強まって、アジアへ進出してきました。このため日本の近くの海にも、欧米の船が出没しはじめます。
ロシアは、1792年に日本に貿易の通商(つうしょう)を求めるため日本に人を送り、1792年に根室(ねむろ、北海道)にロシアから使節として ラクスマン が来ました。ラクスマンは、ロシアに漂流した大黒屋光太夫(だいこくや こうだゆう)を日本に送り返しに来るついでに、通商を求めました。
しかし、そもそも外交交渉は日本では長崎で行なうことになっているので、根室での通商の要求は、日本に断られました。日本側は、つぎの交渉では長崎で交渉するようにロシアに伝えます。
さて、1804年にロシア人の外交官(がいこうかん)のレザノフが日本の長崎に来て通商の要求をしますが、幕府は、通商をことわります。
- (※ 範囲外: レザノフの来日の1804年よりも前に、すでに1796年にイギリスも日本に来ている。)
幕府は、北方の海岸の警備(けいび)に力をいれます。また、間宮林蔵(まみや りんぞう)などに千島や樺太の探検を命じます。 また、伊能忠敬(いのう ただたか)に、蝦夷地(えぞち、北海道)を測量させた。
1808年にはイギリスの軍艦(ぐんかん)のフェートン号が対立しているオランダ船をとらえるために長崎に侵入し、オランダ商館員を人質(ひとじち)にする事件があった。イギリス側は、薪水(しんすい、「たきぎ」と水のこと)と食料を要求し、これを得たのち、日本から退去(たいきょ)した。これを フェートン号事件(フェートンごう じけん) と言います。
1825年に異国船打払令(いこくせん うちはらいれい)を出した。
天保(てんぽう)の飢饉(ききん)
将軍・家斉(いえなり)のとき。
全国的なききん。ききんで死者の大きい地域は東北や北陸だけでなく、関東や、大阪などの西日本をふくむ。 大阪は、この時代の商業の中心地である。その大阪で被害が出てるのだから、すごい飢饉(ききん)なわけである。
幕府や藩には、まずしい人を救うだけの財政的なゆとりがなかった。関東も、ききんの被害が大きく、幕府には、財政的な余裕(よゆう)がない。
幕府が、江戸での打ち壊しをふせぐため、江戸に米をあつめるため、大阪町奉行などに米を買い占めさせた。
このようなことから、幕府に対して反乱が起きる。
大阪の町奉行所の元・役人の大塩平八郎(おおしお へいはちろう)が、町奉行に貧民の救済を申し出たが、町奉行に聞き入れられず、その上、大阪で買い占めた米を江戸に送っているという有様(ありさま)だった。
1837年 大塩平八郎の乱(おおしおへいはちろう の らん)
ついに1837年に反乱を起こしたのが、大塩平八郎だ。商人の家を大砲でおそったりした。
乱は一日ほどで、しずめられた。
しかし、大塩の乱が世間の人々の心に与えた影響は大きい。
これから、各地で、一揆や打ち壊しが、ふえてきた。
水野忠邦の政治(天保の改革)
1841年に、老中に水野忠邦(みずの ただくに)がつき、対策をとった。水野忠邦の政策を天保の改革という。手本は、松平定信の寛政の改革が、水野の手本であった。
水野の政策では、財政を立て直すため倹約令(けんやくれい)を出した。
物の値段が上がった原因を、水野は株仲間による独占が原因だろうと考え、株仲間(かぶなかま)を解散させた。
だが、物価の上がった本当の理由は、その時代に貨幣の質を下げられて発行されていたのが原因であり、このため、物価の引下げの効果は、ほとんどなく、株仲間の解散は失敗に終わった。
- ※ 『天宝の改革』の成否は、歴史学の有力説では、「失敗である」という評価である[1]。なお、江戸時代の「〇〇の改革」という用語は、将軍みずからが改革を宣言した政策に用いられる。天保の改革の政策を指揮したのは水野忠邦であるが、しかし将軍みずからが改革を宣言したので、「天保の改革」という[2]。
- 発展的事項: 政策の分析
- 物価の上昇について、似たような貨幣の質の下がったことによる物価の上昇は、すでに5代将軍の綱吉の時代にもあった。
- 貨幣の質を下げても、すぐには物価が上がらないから、一時的には財政が豊かになったように見える。
- 天保の改革は、「改革」というと、なんとなく新しい政策をイメージしがちだが、やっていることは、すでにある吉宗の享保の改革や、松平定信の寛政の改革などに似ていて、水野の政策に目新しいことは少ない。株仲間の解散を命じたぐらいが目新しい改革である。
(発展的事項、「政策の分析」、おわり。)
天保の改革は、他にも、以下の内容がある。
・ 農村から人が流出し、江戸に人が出てきたので、農村にかえすための人返しの令(ひとがえしのれい)を出した。
・ 江戸と大阪を幕府の領地にしようとして上地令(あげちれい)を出したが、多くの大名などに反対され失敗した。
天保の改革は失敗に終わり、たったの2年あまりで終わり、水野忠邦は失脚し、幕府そのものも人々からの信用が下がっていった。