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== 生涯 == |
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父のカイシャンが即位すると、皇太子に立てられた叔父の[[アユルバルワダ]]の次代のカアンに定められたが、[[至大]]4年([[1311年]])のカイシャン急死後、祖母の[[ダギ]]と中書右丞相[[テムデル]]らダギの実家[[コンギラト]]部族に連なる派閥が政権を掌握し、コンギラト部族の女性を母としないコシラにかわってアユルバルワダの子の[[シデバラ]]が[[皇太子]]に立てられた。周王に封ぜられたコシラは辺境の[[雲南省|雲南]]に送り出されたが、配地に向かう途中[[陝西省|陝西]]で謀殺されかけたため、[[中央アジア]]の[[チャガタイ・ウルス]]に逃亡した([[トガチの乱]])。 |
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[[致和]]元年([[1328年]])[[7月 (旧暦)|旧暦7月]]にイェスン・テムルが崩御すると、[[上都]]でイェスン・テムルの遺児の[[アリギバ]]を擁立した左丞相[[ダウラト・シャー]]を中心とするイェスン・テムル政権派と、[[大都]]でコシラの弟の[[トク・テムル]]を擁立した[[キプチャク]]軍閥の[[エル・テムル]]、[[アスト部|アスト]]軍閥の[[バヤン (メルキト部)|バヤン]]らを中心とする旧カイシャン政権派による内乱が起こり、[[ゴビ砂漠]]以南の諸王・貴族・軍閥の支持を集めた大都側が勝利した。一方、内乱開始の報を受けたコシラは、中央アジアの諸王の後援を受けてアルタイ山脈を越え、[[モンゴル高原]]に入った。モンゴル高原の諸王族、有力者たちはコシラを正統なカアン位の継承者と認めて旧都の[[カラコルム]]に迎え入れ、コシラは高原の[[モンゴル]]遊牧騎馬軍団の圧倒的な軍事力を背景に、既にカアンに即位していた弟のトク・テムルに圧力をかけた。 |
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大都のトク・テムル政権は名目上はより有力なコシラと戦うことを諦め、コシラに |
大都のトク・テムル政権は名目上はより有力なコシラと戦うことを諦め、コシラにカアン位を譲ることを宣言した。年があけて[[天暦 (元)|天暦]]2年([[1329年]])春、まずトク・テムルのもとで政府首班の中書右丞相となっていたエル・テムルが皇帝の[[玉璽]]を携えてモンゴル高原に赴き、大都側がコシラを歓迎して迎え入れる意を明らかにした。トク・テムルは改めて皇太子を名乗り、カアンを称したコシラは上都に向かった。 |
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[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]、コシラは上都近郊のオングチャド(王忽察都)に至って行営を張り、翌日より皇太子トク・テムル以下王族・大臣を集めて宴会を行ったが、[[8月5日 (旧暦)|8月5日]]になって突如営中没した。コシラの側近に集ったチャガタイ一門やモンゴル高原の王族・有力者によって権勢を奪われることを怖れたエル・テムルが先手を打って毒殺したとみられる。 |
[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]、コシラは上都近郊のオングチャド(王忽察都)に至って行営を張り、翌日より皇太子トク・テムル以下王族・大臣を集めて宴会を行ったが、[[8月5日 (旧暦)|8月5日]]になって突如営中没した。コシラの側近に集ったチャガタイ一門やモンゴル高原の王族・有力者によって権勢を奪われることを怖れたエル・テムルが先手を打って毒殺したとみられる。 |
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== 后妃・皇子女 == |
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*皇后:バブシャ(八不沙) |
*皇后:バブシャ(八不沙) |
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**子:寧宗[[イリンジバル]] |
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*妃:貞裕徽聖皇后 マイラダク(邁来迪) |
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**子:恵宗[[トゴン・テムル]] |
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== 注 |
== 脚注 == |
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== 参考文献 == |
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* 赤坂恒明「ホシラの西行とバイダル裔チャガタイ家」『東洋史研究』67号、2009年 |
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* {{Cite journal|和書|author=赤坂恒明 |date=2009-03 |url=https://doi.org/10.14989/155614 |title=ホシラの西行とバイダル裔チャガタイ家 |journal=東洋史研究 |ISSN=0386-9059 |publisher=東洋史研究会 |volume=67 |issue=4 |pages=612-645 |doi=10.14989/155614 |hdl=2433/155614 |CRID=1390572174787868672 |ref=harv}} |
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* [[杉山正明]]「大元ウルスの三大王国 : カイシャンの奪権とその前後(上)」『京都大学文学部研究紀要』34号、1995年 |
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* {{Cite journal|和書|author=[[杉山正明]] |date=1995-03 |url=https://hdl.handle.net/2433/73071 |title=大元ウルスの三大王国 : カイシャンの奪権とその前後(上) |journal=京都大學文學部研究紀要 |ISSN=0452-9774 |publisher=京都大學文學部 |volume=34 |pages=92-150 |hdl=2433/73071 |CRID=1050282677039186304 |ref={{harvid|杉山|1995}}}} |
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* 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』(講談社現代新書, [[講談社]], 1996年6月) |
* 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』(講談社現代新書, [[講談社]], 1996年6月) |
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* 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年 |
* 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年 |
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2024年6月10日 (月) 15:08時点における最新版
コシラ ᠬᠦᠰᠡᠯᠡᠨ | |
---|---|
モンゴル帝国第13代皇帝(カアン) | |
| |
在位 |
天暦2年1月28日 - 8月6日 (1329年2月27日 - 8月30日) |
別号 |
ᠬᠤᠲᠤᠭᠲᠤ ᠬᠠᠭᠠᠨ Qutuqtu Qa'an 護都篤皇帝 クトクト・カアン(中期音) ホトクト・ハーン(近現代音) |
出生 |
大徳4年11月11日 (1300年12月22日) |
死去 |
天暦2年8月6日 (1329年8月30日) オングチャド |
埋葬 | 起輦谷/クレルグ山(モンゴル高原) |
配偶者 | バブシャ |
子女 | トゴン・テムル、イリンジバル |
家名 | クビライ家 |
父親 | カイシャン |
母親 | イキレス氏(仁献章聖皇后) |
明宗 奇渥温和世㻋 | |
---|---|
元 | |
第9代皇帝 | |
王朝 | 元 |
都城 | カラコルム |
諡号 |
翼献景孝皇帝 順天立道睿文智武大聖孝皇帝(尊号) |
廟号 | 明宗 |
陵墓 | 起輦谷 |
年号 | 天暦 : 1329年 |
コシラ(モンゴル語:ᠬᠦᠰᠡᠯᠡᠨ、Qošila、漢字:和世㻋[1]、 1300年12月22日 - 1329年8月30日)は、モンゴル帝国の第13代カアン(元としては第9代皇帝)。第7代カアンの武宗カイシャンの長男。
生涯
[編集]父のカイシャンが即位すると、皇太子に立てられた叔父のアユルバルワダの次代のカアンに定められたが、至大4年(1311年)のカイシャン急死後、祖母のダギと中書右丞相テムデルらダギの実家コンギラト部族に連なる派閥が政権を掌握し、コンギラト部族の女性を母としないコシラにかわってアユルバルワダの子のシデバラが皇太子に立てられた。周王に封ぜられたコシラは辺境の雲南に送り出されたが、配地に向かう途中陝西で謀殺されかけたため、中央アジアのチャガタイ・ウルスに逃亡した(トガチの乱)。
カアンに即位した英宗シデバラが暗殺され、暗殺者も次のカアンとなった泰定帝イェスン・テムルによって一掃されたことによってコシラを排斥したテムデルの一党は政権から排除されていたが、コシラはそのまま中央アジアに留まり、かつて父のカイシャンが懐寧王だった時代に駐留していたアルタイ山脈西麓方面で自立勢力を固めていた。
致和元年(1328年)旧暦7月にイェスン・テムルが崩御すると、上都でイェスン・テムルの遺児のアリギバを擁立した左丞相ダウラト・シャーを中心とするイェスン・テムル政権派と、大都でコシラの弟のトク・テムルを擁立したキプチャク軍閥のエル・テムル、アスト軍閥のバヤンらを中心とする旧カイシャン政権派による内乱が起こり、ゴビ砂漠以南の諸王・貴族・軍閥の支持を集めた大都側が勝利した。一方、内乱開始の報を受けたコシラは、中央アジアの諸王の後援を受けてアルタイ山脈を越え、モンゴル高原に入った。モンゴル高原の諸王族、有力者たちはコシラを正統なカアン位の継承者と認めて旧都のカラコルムに迎え入れ、コシラは高原のモンゴル遊牧騎馬軍団の圧倒的な軍事力を背景に、既にカアンに即位していた弟のトク・テムルに圧力をかけた。
大都のトク・テムル政権は名目上はより有力なコシラと戦うことを諦め、コシラにカアン位を譲ることを宣言した。年があけて天暦2年(1329年)春、まずトク・テムルのもとで政府首班の中書右丞相となっていたエル・テムルが皇帝の玉璽を携えてモンゴル高原に赴き、大都側がコシラを歓迎して迎え入れる意を明らかにした。トク・テムルは改めて皇太子を名乗り、カアンを称したコシラは上都に向かった。
8月1日、コシラは上都近郊のオングチャド(王忽察都)に至って行営を張り、翌日より皇太子トク・テムル以下王族・大臣を集めて宴会を行ったが、8月5日になって突如営中没した。コシラの側近に集ったチャガタイ一門やモンゴル高原の王族・有力者によって権勢を奪われることを怖れたエル・テムルが先手を打って毒殺したとみられる。
イェスン・テムルの死からコシラの死、トク・テムルの復位までの1年間の一連の騒乱をトク・テムルの元号をとって「天暦の内乱」という。天暦の内乱の後はキプチャク軍閥のエル・テムル、その死後にはアスト軍閥のバヤンが独裁権を握り、元末の軍閥政権時代が幕を開けることになる。
后妃・皇子女
[編集]脚注
[編集]- ^ 王偏に束。
参考文献
[編集]- 赤坂恒明「ホシラの西行とバイダル裔チャガタイ家」『東洋史研究』第67巻第4号、東洋史研究会、2009年3月、612-645頁、CRID 1390572174787868672、doi:10.14989/155614、hdl:2433/155614、ISSN 0386-9059。
- 杉山正明「大元ウルスの三大王国 : カイシャンの奪権とその前後(上)」『京都大學文學部研究紀要』第34巻、京都大學文學部、1995年3月、92-150頁、CRID 1050282677039186304、hdl:2433/73071、ISSN 0452-9774。
- 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』(講談社現代新書, 講談社, 1996年6月)
- 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
- C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』3巻(佐口透訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1971年6月)