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| 画像 = Miyuki_Ishikawa_Kotobuki-Sanin_Incident.jpg
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| 脚注 = 早稲田警察署から護送される石川ミユキ
| 脚注 = 早稲田警察署から護送される石川ミユキ
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| 標的 = 嬰児
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| 死亡 = 諸説あり<br/>5人([[確定判決]])<br/>27人(検察の主張)<br/>84人(警察の調査)<ref name="kenshi" group=""/>{{#tag:ref|事件発覚当初、死亡者は169人<ref name="a1948-01-17"/>、または103人<ref name="a1948-01-18"/>の誤った情報が報道された。後年においても、この誤報に基づいて事件に言及され<ref name="gendainome-1978"/>。|group="†"}}
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'''寿産院事件'''(ことぶきさんいんじけん)とは、[[1948年]]([[昭和]]23年)1月12日に発覚した[[赤ちゃん|嬰児]]の[[貰い子殺人]]事件<ref>[https://www.sankei.com/article/20240408-WDUITKS4OBOBZP3UFA35Z3BDGY/ 戦後下で産院営む夫婦が「もらい子」を殺害 寿産院事件]</ref>

'''寿産院事件'''(ことぶきさんいんじけん)とは、[[1948年]]([[昭和]]23年)1月に発覚した[[赤ちゃん|嬰児]]の[[貰い子殺人]]事件。


== 概要 ==
== 概要 ==
[[戦後混乱期]]が続く1948年1月、[[東京都]][[新宿区]]の[[助産院]]「寿産院」(旧字体: 壽產院)において嬰児の[[大量殺人]]が発覚した。その[[正犯|主犯]]が[[出産]]に携わる[[助産師|助産婦]]{{#tag:ref|[[1899年]]発布の産婆規則以降は「産婆」という呼称だったが、[[1947年]]5月2日に施行された[[勅令]]第188号により「助産婦」と改められた<ref name="kampo1947-05-01"/>。後に、[[2002年]]3月1日に施行された「保健婦助産婦看護婦の一部を改正する法律」(改正[[保助看法]])により「助産師」と改称されている。|group="†"}}であり、加えて養育料の[[横領罪|横領]]や[[配給 (物資)|配給]]品の横流しによって大金を稼いでいた事が判明し、社会に衝撃を与えた。その後も同様の事件が次々に発覚したため、[[産児制限]]を重視する声が高まり、[[優生保護法]]が制定される契機となった。一方で、複数の[[職能団体]]の解散または分裂を引き起こした。
[[戦後混乱期]]の只中の1948年1月、[[東京都]][[新宿区]]の[[助産院]]「寿産院」(旧字体壽產院)において嬰児の[[大量殺人]]が発覚した。その[[正犯|主犯]]が[[出産]]に携わる[[助産師|助産婦]]{{#tag:ref|[[1899年]]発布の産婆規則以降は「産婆」という呼称だったが、[[1947年]]5月2日に施行された[[勅令]]第188号により「助産婦」と改められた{{R|kampo1947-05-01}}。後に、[[2002年]]3月1日に施行された「保健婦助産婦看護婦の一部を改正する法律」(改正[[保助看法]])により「助産師」と改称されている。|group="†"}}であり、加えて養育料の[[横領罪|横領]]や[[配給 (物資)|配給]]品の横流しによって大金を稼いでいた事が判明し、社会に衝撃を与えた。その後も同様の事件が次々に発覚したため、[[産児制限]]を重視する声が高まり、[[優生保護法]]が制定される契機となった。一方で、複数の[[職能団体]]の解散または分裂を引き起こした。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[File:Ishikawa miyuki portrait.png|thumb|left|<center>石川ミユキ</center>]]
[[File:Ishikawa miyuki portrait.png|thumb|left|{{center|石川ミユキ}}]]
事件の主犯格である石川ミユキ{{#tag:ref|事件を報道する新聞では「みゆき」という[[ひらがな]]表記も見られるが、官公庁からの刊行物においては全て「ミユキ」と[[カタカナ]]表記で統一されている<ref name="koho19480127"/><ref name="kampo1950-03-04"/><ref name="keishicho1978"/>。|group="†"}}(旧姓: 小丸<ref name="koho19191227"/><ref name="koho19250929"/>)は、[[1897年]]([[明治]]30年)2月5日生まれ<ref name="koho19480127"/>、[[宮崎県]][[東諸県郡]][[国富町|本庄村]]出身<ref name="a1948-01-18"/><ref name="w-asahi1948"/>。宮崎県立職業学校の卒業後に18歳で上京<ref name="w-asahi1948"/>。[[1919年]]9月30日に[[東京大学大学院医学系研究科・医学部|東京帝国大学医科大学]]附属医院産婆講習科を卒業し<ref name="koho19191227"/>、当時の女性としては非常に高い[[学歴]]を身に付けた。[[内務省 (日本)|内務省]]指定校である同院を卒業したため、無試験で産婆資格を取得し<ref name="yumoto2000"/>、同年11月12日に[[東京府]]の産婆名簿に登録された(登録番号: 5769)<ref name="koho19191227"/>。その後は[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]や[[牛込]]で30年余りにわたり産院を経営していた<ref name="a1948-01-18"/><ref name="w-asahi1948"/>{{#tag:ref|[[1922年]]1月23日に一旦廃業を届け出たものの<ref name="koho19220328"/>、[[1923年]]4月9日に再び産婆名簿へ登録し(登録番号: 7220)、[[日本橋区]][[蛎殻町]]で開業した<ref name="koho19230424"/>。[[関東大震災]]で罹災したため、翌1924年に被害の小さかった[[牛込区]]に転居している<ref name="j1948-01-18"/><ref name="koho19240612"/>。|group="†"}}。
事件の主犯格である石川ミユキ{{#tag:ref|事件を報道する新聞では「みゆき」という[[ひらがな]]表記も見られるが、官公庁からの刊行物においては全て「ミユキ」と[[カタカナ]]表記で統一されている{{R|koho1948-01-27|kampo1950-03-04|keishicho1978}}。|group="†"}}(旧姓小丸{{R|koho1919-12-27|koho1925-09-29}})は、[[1897年]]([[明治]]30年)2月5日生まれ{{R|koho1948-01-27}}、[[宮崎県]][[東諸県郡]][[国富町|本庄村]]出身{{R|a1948-01-18|w-asahi1948}}。宮崎県立職業学校の卒業後に18歳で上京{{R|w-asahi1948}}。[[1919年]]9月30日に[[東京大学大学院医学系研究科・医学部|東京帝国大学医科大学]]附属医院産婆講習科を卒業し{{R|koho1919-12-27}}、当時の女性としては非常に高い[[学歴]]を身に付けた。[[内務省 (日本)|内務省]]指定校である同院を卒業したため、無試験で産婆資格を取得し{{R|yumoto2000}}、同年11月12日に[[東京府]]の産婆名簿に登録された(登録番号:5769){{R|koho1919-12-27}}。その後は[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]や[[牛込]]で30年余りにわたり産院を経営していた{{R|a1948-01-18|w-asahi1948}}{{#tag:ref|[[1922年]]1月23日に一旦廃業を届け出たものの{{R|koho1922-03-28}}、[[1923年]]4月9日に再び産婆名簿へ登録し(登録番号:7220)、[[日本橋区]][[蛎殻町]]で開業した{{R|koho1923-04-24}}。[[関東大震災]]で罹災したため、翌1924年に被害の小さかった[[牛込区]]に転居している{{R|j1948-01-18|koho1924-06-12}}。|group="†"}}。


一方、夫の石川猛は3歳年長で<ref name="keishicho1978"/>、[[茨城県]][[東茨城郡]][[白河村]]出身、ミユキが23歳の時(1919年)に結婚した<ref name="a1948-01-18"/>{{#tag:ref|1919年の産婆名簿への登録時点では、ミユキは小丸姓のままで、2人は[[北豊島郡]][[板橋町]]にて同居していた<ref name="koho19191227"/>。[[1925年]]にミユキの改姓が産婆名簿に登録されている<ref name="koho19250929"/>。|group="†"}}。[[農学校]]を2年で中退し、現役の[[志願制度|志願兵]]として[[憲兵 (日本軍)|憲兵]]軍曹まで務めた。その後、1919年から[[1926年]]までは[[警視庁]]の[[巡査]]として奉職し、退官後は定職に就かずに妻の事業を手伝い、後述の預り子に関する一切の手続きを引き受けていた<ref name="w-asahi1948"/><ref name="j1948-01-27"/>
一方、夫の石川猛は3歳年長で{{R|keishicho1978}}、[[茨城県]][[東茨城郡]][[白河村]]出身、ミユキが23歳の時(1919年)に結婚した{{R|a1948-01-18}}{{#tag:ref|1919年の産婆名簿への登録時点では、ミユキは小丸姓のままで、2人は[[北豊島郡]][[板橋町]]にて同居していた{{R|koho1919-12-27}}。[[1925年]]にミユキの改姓が産婆名簿に登録されている{{R|koho1925-09-29}}。|group="†"}}。[[農学校]]を2年で中退し、現役の[[志願制度|志願兵]]として[[憲兵 (日本軍)|憲兵]]軍曹まで務めた。その後、1919年から[[1926年]]までは[[警視庁]]の[[巡査]]として奉職し、退官後は定職に就かずに妻の事業を手伝い、後述の預り子に関する一切の手続きを引き受けていた{{R|w-asahi1948|j1948-01-27}}。[[#裁判|後述]]の通り、詐欺事件を起こした事もあった


ミユキは[[子宮]]と[[卵巣]]を手術で切除したため、夫妻の間に実子は無かったが<ref name="jikei1948"/><ref name="keishicho1978"/>、猛と先妻の間の息子および[[養子]](男2人・女1人)と共に暮らしていた<ref name="w-asahi1948"/><ref name="y1948-01-20"/>。後述の逮捕までに、ミユキは[[日本看護協会|日本助産婦看護婦保健婦協会]]理事、東京都助産婦会牛込支部長および牛込助産婦会会長の肩書を持っており、[[1947年]]の婦人年鑑においては女性の第一人者の一人として紹介されていた<ref name="w-asahi1948"/><ref name="johotaikei08"/><ref name="fujin1947"/>。1947年4月、発足から間もない[[新宿区]]の区会議員選挙に無所属で立候補したが、落選している<ref name="shinjuku1947"/><ref name="w-asahi1948"/>
ミユキは[[子宮]]と[[卵巣]]を手術で切除したため、夫妻の間に実子は無かったが{{R|jikei1948|keishicho1978}}、猛と先妻の間の息子および[[養子]](男2人・女1人)と共に暮らしていた{{R|w-asahi1948|y1948-01-20}}。後述の逮捕までに、ミユキは[[日本看護協会|日本助産婦看護婦保健婦協会]]理事、東京都助産婦会牛込支部長および牛込助産婦会会長の肩書を持っており{{R|w-asahi1948}}、[[1947年]]の婦人年鑑においては女性の第一人者の一人として紹介されていた{{R|johotaikei08|fujin1947}}。1947年4月、発足から間もない[[新宿区]]の区会議員選挙に無所属で立候補したが、落選している{{#tag:ref|事件発覚直後に発売された[[週刊朝日]]には「[[日本自由党 (1945-1948)|自由党]]から出た」と書かれているが{{R|w-asahi1948}}、選挙の公式記録には無所属と記載されている{{R|shinjuku1947}}。|group="†"}}
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== 犯行 ==
== 犯行 ==
[[1943年]]から石川夫妻は、主に未婚の男女の間に生まれ、始末に困る[[私生児]]を預かって寿産院で養育し、子供を欲しがる者に斡旋する特殊産院{{#tag:ref|戦時中の人的資源増強政策として、私生児が[[子殺し|闇に葬られる]]のを防ぐため、それらの乳児を預かり、希望者に引き渡す事業を政府から認可された産院<ref name="j1948-01-19"/>。|group="†"}}の事業を始めた。当時は[[堕胎罪]]により[[人工妊娠中絶]]は厳しく制限されており、私生児を預ける母親は戦争[[寡婦|未亡人]]、[[ダンサー]]、[[ウェイター|女給]]、[[娼婦]]などであった<ref name="keishicho1978"/>。新聞に[[新聞広告#三行広告|三行広告]]を掲載し、養育料として2千円から1万円(時には広告料として1,500円追加<ref name="a1948-01-21"/>)を受け取った上で嬰児を引き取り、更に[[容貌|顔立ち]]の良さで金額を変えて、300円から500円で養親に売り払った<ref name="m1948-01-18"/><ref name="w-asahi1948"/><ref name="hokenjosan1950"/>。これらの養育料の横領に加え、配給された[[粉ミルク]]や[[砂糖]]、死亡した嬰児の[[葬儀|葬祭]]用の清酒2[[升]](3.6リットル)を[[闇市]]に横流しする事で、事件発覚までに100万円を稼だ<ref name="keishicho1978"/><ref name="w-asahi1948"/>{{#tag:ref|1947年の大卒銀行員の初任給は220円<ref name="shonen1947"/>、1948年は500円<ref name="shonen1948"/>。一方、[[2020年]]の[[消費者物価指数]](102.3)は、1947年(5.4)の約19倍、1948年(9.9)の約10倍<ref name="boj2020"/>。|group="†"}}。その収入で羽振りを良くし、当時はまだ高価かつ希少だった[[電話機]]を備えており<ref name="y1945-05-01"/><ref name="fujin1947"/>{{#tag:ref|1948年における、人口100人あたりの電話普及率は1.2%<ref name="tokei-02"/>。|group="†"}}、また東京都内や茨城県内の土地を購入し、更に発覚直前には(当時は非常に高価な)[[自家用自動車|自家用車]]を購入しようとしていた<ref name="m1948-01-21"/>
[[1943年]]から石川夫妻は、主に未婚の男女の間に生まれ、始末に困る[[私生児]]を預かって寿産院で養育し、子供を欲しがる者に斡旋する特殊産院{{#tag:ref|戦時中の人的資源増強政策として、私生児が[[子殺し|闇に葬られる]]のを防ぐため、それらの乳児を預かり、希望者に引き渡す事業を政府から認可された産院{{R|j1948-01-19}}。|group="†"}}の事業を始めた。当時は[[堕胎罪]]により[[人工妊娠中絶]]は厳しく制限されており、私生児を預ける母親は戦争[[寡婦|未亡人]]、[[ダンサー]]、[[ウェイター|女給]]、[[娼婦]]などであった{{R|keishicho1978}}。新聞に[[新聞広告#三行広告|三行広告]]を掲載し、養育料として2千円から1万円(時には広告料として1,500円追加{{R|a1948-01-21}})を受け取った上で嬰児を引き取り{{#tag:ref|現金の代わりに、当時は高価だったミシンなどの現物を受領する事もあった{{R|m1948-01-18}}。|group="†"}}、更に[[容貌|顔立ち]]の良さで金額を変えて、300円から500円で養親に売り払った{{R|m1948-01-18|w-asahi1948|hokenjosan1950}}。これらの養育料の横領に加え、配給された[[粉ミルク]]や[[砂糖]]、死亡した嬰児の[[葬儀|葬祭]]用の清酒2[[升]](3.6リットル)を[[闇市]]に横流しする事で、事件発覚までに90万円とも100万円ともわれる巨額の利益を手にした{{R|keishicho1978|m1948-01-17|w-asahi1948}}{{#tag:ref|1947年の大卒銀行員の初任給は220円{{R|shonen1947}}、1948年は500円{{R|shonen1948}}。一方、[[2020年]]の[[消費者物価指数]](102.3)は、1947年(5.4)の約19倍、1948年(9.9)の約10倍{{R|boj2020}}。|group="†"}}。その収入で羽振りを良くし、当時はまだ高価かつ希少だった[[電話機]]を備えており{{R|y1945-05-01|fujin1947}}{{#tag:ref|1948年における、人口100人あたりの電話普及率は1.2%{{R|tokei-02}}。|group="†"}}、また東京都内や茨城県内の土地を購入し、更に発覚直前には(当時は非常に高価な)[[自家用自動車|自家用車]]を購入しようとしていた{{R|m1948-01-21}}


[[File:Kotobuki san'in building front.png|thumb|<center>寿産院</center>]]
[[File:Kotobuki san'in building front.png|thumb|{{center|寿産院}}]]
預かる子供が増える一方で貰い手が少なくなると、預かった嬰児には平常の半分しかミルクを与えず、風呂にも入れず、おむつも替えず、医者には死ぬ間際しか診せないなどの劣悪な環境に置いた。このようにして、「売れ残り」の大部分は[[栄養失調]]症に陥らせて死亡させ、一部は冬期に保温せずに[[凍死]]させた。これに対し、開業以来雇われた十数名の助産婦は、増員やミルクの増量、保温処置を再三要求したが、ミユキは指示通りにすれば良いとはねつけた。後に逮捕された産婆助手Kも、ミユキの優れた助産技術を見習いたい一心から約1年間勤め続けたものの、耐えきれずに帰郷を申し入れていた<ref name="jikei1948"/><ref name="hokenjosan1950"/><ref name="keishicho1978"/>。入院した産婦の間でも、手当の仕方や、貰い子の保育の様子を見て「鬼産婆」と噂し合い、回復前に逃げ出した者もいた<ref name="a1948-01-21"/>
預かる子供が増える一方で貰い手が少なくなると、預かった嬰児には平常の半分しかミルクを与えず、風呂にも入れず、おむつも替えず、医者には死ぬ間際しか診せないなどの劣悪な環境に置いた。このようにして、「売れ残り」の大部分は[[栄養失調]]症に陥らせて死亡させ、一部は冬期に保温せずに[[凍死]]させた。これに対し、開業以来雇われた十数名の助産婦は、増員やミルクの増量、保温処置を再三要求したが、ミユキは指示通りにすれば良いとはねつけた。後に逮捕された産婆助手Kも、ミユキの優れた助産技術を見習いたい一心から約1年間勤め続けたものの、耐えきれずに帰郷を申し入れていた{{R|jikei1948|hokenjosan1950|keishicho1978}}。入院した産婦の間でも、手当の仕方や、貰い子の保育の様子を見て「鬼産婆」と噂し合い、回復前に逃げ出した者もいた{{R|a1948-01-21}}


寿産院の「預り子台帳」および[[埋葬]]許可証に記録された、各年の貰い子と死亡児の推移は、以下の表の通りである<ref name="a1948-01-22"/><ref name="keishicho1978"/>{{#tag:ref|埋葬許可証の数に、事件発覚後に死亡した2名(後述)は含まれない。|group="†"}}。
寿産院の「預り子台帳」および[[埋葬]]許可証に記録された、各年の貰い子と死亡児の推移は、以下の表の通りである{{R|a1948-01-22|keishicho1978}}{{#tag:ref|埋葬許可証の数に、事件発覚後に死亡した2名(後述)は含まれない。|group="†"}}。


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== 発覚 ==
== 発覚 ==
[[File:Ide isamu police tokyo 1957.png|thumb|149px|{{center|井出勇}}]]
[[File:Kotobuki san'in perpetrators.png|thumb|石川ミユキ(前列右)、葬儀屋(同中央)および石川猛(同左)]]
1948年1月12日夜、続発する[[凶悪犯罪]]に対応するため、警視庁は全管下に臨時警戒を実施した。早稲田警察署の2人の巡査も警戒にあたり、新宿区[[榎町 (新宿区)|榎町]]15番地で張り込みを行っていた最中、自転車の荷台に木箱を積んで運ぶ男に[[職務質問]]を行った。男は[[葬祭業|葬儀屋]](当時54歳)で、4つの木箱には乳児の[[死体]]が1体ずつ入っていた。巡査が問いただすと、寿産院から頼まれて5体の死体を運ぶ途中であり、明朝に残りの死体と共に埋葬許可証を受け取って[[火葬]]する予定で、これまでにも30体の死体の火葬を頼まれたと答えた。結局、男は3通の埋葬許可証を所持していたため、そのまま帰された。警戒終了後、巡査は前述の顛末を上司に報告し、直後に早稲田警察署署長の井出勇にも伝わった<ref name="jikei1948"/><ref name="keishicho1978"/>。
1948年1月12日夜、続発する[[凶悪犯罪]]に対応するため、警視庁は全管下に臨時警戒を実施した。早稲田警察署の2人の巡査も警戒にあたり、新宿区[[榎町 (新宿区)|榎町]]15番地で張り込みを行っていた最中、自転車の荷台に木箱を積んで運ぶ男に[[職務質問]]を行った。男は[[葬祭業|葬儀屋]](当時54歳)で、4つの木箱には乳児の[[死体]]が1体ずつ入っていた。巡査が問いただすと、寿産院から頼まれて5体の死体を運ぶ途中であり、明朝に残りの死体と共に埋葬許可証を受け取って[[火葬]]する予定で、これまでにも30体の死体の火葬を頼まれたと答えた。結局、男は3通の埋葬許可証を所持していたため、そのまま帰された。警戒終了後、巡査は前述の顛末を上司に報告し、直後に早稲田警察署署長の井出勇(当時41歳{{#tag:ref|


[[長野県]]出身。[[1929年]]に[[埼玉県警察]]の巡査として任官し、以来[[1944年]]まで県警の[[特別高等警察|特別高等係]]および[[警保局]]保安課に所属。1946年5月から1948年3月まで早稲田警察署署長を務める。その後は警視庁の要職や[[北海道警察旭川方面本部]]長を歴任。最終的な役職は[[富山県警察]][[本部長]]。退官後は[[国際情勢研究所|国際情勢研究会]]の事務局長等を務めた{{R|saikosai1953|jiho195706|jinjiroku1958|koshin1959}}。|group="†"}})にも伝わった{{R|jikei1948|keishicho1978}}。
1日に5体の乳児の死体が同じ産院から運び出され、しかも今までに30体以上の火葬を取り扱っているのは只事ではないと感じた井出は、翌朝に葬儀屋へ[[刑事部|捜査係]]を派遣し、[[死因]]を調査するために死体の処置を待つよう指示した。[[検察庁]]にも手配し、同日に[[国立東京第一病院]]にて[[司法解剖]]を行った結果、3体は[[餓死]]、2体は[[凍死]]と死因が判明した<ref name="m1948-01-16"/><ref name="j1948-01-18"/><ref name="jikei1948"/><ref name="kenshi" group=""/>。これにより貰い子の養育をしない、殺人の[[不作為犯]]に相違ないとして[[令状]]を請求し、15日早朝に石川ミユキ(当時52歳)、夫の石川猛(当時55歳)および葬儀屋を[[逮捕 (日本法)|逮捕]]した<ref name="keishicho1978"/>{{#tag:ref|当初は配給米をごまかした[[詐欺]]の疑いによる[[別件逮捕]]を試みたが、裁判官から真意を疑われたため、逮捕状の請求を一旦取り下げた<ref name="kokkai-16"/>。|group="†"}}。警察が夫妻の自宅でもある寿産院を捜索した結果、粉ミルク18[[ポンド (質量)|ポンド]](約8.2キログラム)、砂糖1[[貫]]500[[匁]](約5.6キログラム)、米1[[斗]]5升(約27リットル)が押収された<ref name="a1948-01-17"/>{{#tag:ref|[[メートル法]]換算の数値は出典にはなく、独自に記載。|group="†"}}。また、院内では7人の乳児の生存が確認されたが、内2人は14日夕および15日朝に死亡、2人は実母が連れて帰り、2人は養子として引き取られ、残り1人の[[行方不明|消息は不明]]である<ref name="m1948-01-16"/><ref name="shincho1969"/>{{#tag:ref|事件発覚の翌年1月、実母が引き取った乳児の内1名は死亡、もう1名も結局は養子に出され、計3名の生存者が養親の下で安定した生活を送っている事が報道されている<ref name="asahi-g1949"/>。|group="†"}}{{#tag:ref|[[1967年]]、消息不明の乳児(1947年8月19日生まれ)に対する「失踪に関する届出の催促」が[[官報]]に公告され<ref name="kampo1967-10-21"/>、[[1968年]]6月25日付で[[失踪宣告]]が確定した<ref name="kampo1968-07-05"/>。|group="†"}}。


1日に5体の乳児の死体が同じ産院から運び出され、しかも今までに30体以上の火葬を取り扱っているのは只事ではないと感じた井出は、翌朝に葬儀屋へ[[刑事部|捜査係]]を派遣し、[[死因]]を調査するために死体の処置を待つよう指示した。[[検察庁]]にも手配し、同日に[[国立東京第一病院]]にて[[司法解剖]]を行った結果、3体は[[餓死]]、2体は[[凍死]]と死因が判明した{{R|m1948-01-16|j1948-01-18|jikei1948}}{{R|kenshi|group=†}}。これにより貰い子の養育をしない、殺人の[[不作為犯]]に相違ないとして[[令状]]を請求し、15日早朝に石川ミユキ(当時52歳)、夫の石川猛(当時55歳)および葬儀屋を[[逮捕 (日本法)|逮捕]]した{{R|keishicho1978}}{{#tag:ref|逮捕直後より、飛石久太郎が石川夫妻の弁護人に就いた{{R|j1948-01-17}}。|group=""}}{{#tag:ref|当初は配給米をごまかした[[詐欺]]の疑いによる[[別件逮捕]]を試みたが、裁判官から真意を疑われたため、逮捕状の請求を一旦取り下げた{{R|kokkai-16}}。|group="†"}}。警察が夫妻の自宅でもある寿産院を捜索した結果、粉ミルク18[[ポンド (質量)|ポンド]](約8.2キログラム)、砂糖1[[貫]]500[[匁]](約5.6キログラム)、米1[[斗]]5升(約27リットル)が押収された{{R|a1948-01-17}}{{#tag:ref|[[メートル法]]換算の数値は出典にはなく、独自に記載。|group="†"}}。また、院内では7人の乳児の生存が確認されたが、内2人は14日夕および15日朝に死亡、2人は実母が連れて帰り、2人は養子として引き取られ、残り1人の[[行方不明|消息は不明]]である{{R|m1948-01-16|shincho1969}}{{#tag:ref|事件発覚の翌1949年1月、実母が引き取った乳児の内1名は死亡、もう1名も結局は養子に出され、計3名の生存者が養親の下で安定した生活を送っている事が報道されている{{R|asahi-g1949}}。|group="†"}}{{#tag:ref|[[1967年]]、消息不明の乳児(1947年8月19日生まれ)に対する「失踪に関する届出の催促」が[[官報]]に公告され{{R|kampo1967-10-21}}、[[1968年]]6月25日付で[[失踪宣告]]が確定した{{R|kampo1968-07-05}}。|group="†"}}。
逮捕された葬儀屋は、死体1体につき500円で処理していた<ref name="j1948-01-16"/>。葬儀屋の自宅から約40柱の遺骨が発見され、更に別の業者が1947年の前半に、30柱余りの遺骨を[[無縁仏|無縁塔]]に葬っていた<ref name="a1948-01-19"/>。18日には、前述の産婆助手K(当時25歳<ref name="kampo1950-03-04"/>)も[[共犯]]として逮捕された<ref name="y1948-01-19"/>。19日付で、助産婦規則第10条の規定に則り、[[東京都知事]]より助産婦としての業務禁止命令が出された<ref name="koho19480127"/>。21日、ミユキは[[読売新聞]]の取材に[[筆談]]で応じ「[[死刑]]にされても恨みません」と述べる一方で、子供に十分な食事を与えなかった理由を「後の補給の目当てが無いため」と答えている<ref name="y1948-01-22"/>。取調べにおいては「私は誠心誠意やってきた。母親は無理に預けていってしまう。死ぬのは当然」と主張した<ref name="w-asahi1948"/>


[[File:Kotobuki san'in perpetrators.png|thumb|石川ミユキ(前列右)、葬儀屋(同中央)および石川猛(同左)]]
主に医師の中山四郎(当時60歳)が、ほとんど診察もせずに、夫妻の求めるままに偽りの[[死亡診断書]]を60枚近く作成し<ref name="y1948-01-19"/><ref name="j1948-01-21"/><ref name="jikei1948"/><ref name="keishicho1978"/>、一部は別の医師も関与していた事が判明した<ref name="y1948-01-23"/>。また、貰い手の方は手続きが容易な[[無戸籍者|無籍]]児を希望し、一方で死亡届や埋葬許可は有籍児の方が通りやすかったため、無籍児としてある有籍児を差し出し、その有籍児の氏名を騙って別の乳児の死亡届を出した事例が少なくなかった<ref name="m1948-01-20"/><ref name="asahi-g1948"/>。一方、ミルク配給のある有籍児が死ぬと、配給の無い無籍児が死んだと虚偽申告を行い、配給を受け続けた事もあった<ref name="j1948-01-18"/>。加えて、預り子台帳・埋葬許可証・死亡診断書の数が食い違うなど、手続や記録が曖昧だったために、真相の究明に支障をきたした<ref name="a1948-01-22"/>。26日、石川夫妻と助手Kは[[殺人罪]]で起訴されたが、葬儀屋は正式な埋葬許可証の交付を受けていたため、[[証拠]]不十分で[[釈放]]された<ref name="a1948-01-27"/><ref name="m1948-01-27"/><ref name="jikei1948"/>{{#tag:ref|同日に[[帝銀事件]]が発生し、その翌日以降の新聞報道はこの事件に集中するようになり、反比例して寿産院事件の報道は激減した。|group="†"}}。
逮捕された葬儀屋は、死体1体につき500円で処理していた{{R|j1948-01-16}}。葬儀屋の自宅から約40柱の遺骨が発見され、更に別の業者が1947年の前半に、30柱余りの遺骨を[[無縁仏|無縁塔]]に葬っていた{{R|a1948-01-19}}。18日には、前述の産婆助手K(当時25歳{{R|kampo1950-03-04}})も[[共犯]]として逮捕された{{R|y1948-01-19}}。19日付で、助産婦規則第10条の規定に則り、[[東京都知事]]より助産婦としての業務禁止命令が出された{{R|koho1948-01-27}}。21日、ミユキは[[読売新聞]]の取材に[[筆談]]で応じ「[[死刑]]にされても恨みません」と述べる一方で、子供に十分な食事を与えなかった理由を「後の補給の目当てが無いため」と答えている{{R|y1948-01-22}}。取調べにおいては「私は誠心誠意やってきた。母親は無理に預けていってしまう。死ぬのは当然」と主張した{{R|w-asahi1948}}

主に医師の中山四郎(当時60歳)が、ほとんど診察もせずに、夫妻の求めるままに偽りの[[死亡診断書]]を60枚近く作成し{{R|y1948-01-19|j1948-01-21|jikei1948|keishicho1978}}、一部は別の医師も関与していた事が判明した{{R|y1948-01-23}}。また、貰い手の方は手続きが容易な[[無戸籍者|無籍]]児を希望し、一方で死亡届や埋葬許可は有籍児の方が通りやすかったため、無籍児としてある有籍児を差し出し、その有籍児の氏名を騙って別の乳児の死亡届を出した事例が少なくなかった{{R|m1948-01-20|asahi-g1948}}。一方、ミルク配給のある有籍児が死ぬと、配給の無い無籍児が死んだと虚偽申告を行い、配給を受け続けた事もあった{{R|j1948-01-18}}。加えて、預り子台帳・埋葬許可証・死亡診断書の数が食い違うなど、手続や記録が曖昧だったために、真相の究明に支障をきたした{{R|a1948-01-22}}。26日、石川夫妻と助手Kは[[殺人罪]]で起訴されたが、葬儀屋は正式な埋葬許可証の交付を受けていたため、[[証拠]]不十分で[[釈放]]された{{R|a1948-01-27|m1948-01-27|jikei1948}}{{#tag:ref|同日に[[帝銀事件]]が発生し、その翌日以降の新聞報道はこの事件に集中するようになり、反比例して寿産院事件の報道は激減した。|group="†"}}。


== 反響 ==
== 反響 ==
1月18日夜、早稲田警察署に抗議の群衆が殺到する出来事が起こった<ref name="m1948-01-19"/>。一方、食糧難の時勢に加え、死んだ乳児の大半が「不義の子」「日陰の子」であったため、[[漫談家]]・[[随筆家]]の[[徳川夢声]]が「産院に同情した」「大多数はモテ余して預ける」と語るなど<ref name="sakaguchi1999"/>、殺されても仕方がなかったという風潮も存在した。これに対し、[[評論家]]の[[宮本百合子]]は「正当な子供、正当でない子供というのは子供にとってどんな区別があることでしょう」「子供はすべて社会の子供として生命を保証される権利があります。そして私どもにはその義務があります」と異議を唱えている<ref name="miyamoto1948"/>。[[国会 (日本)|国会]]においても、[[衆議院]]議員の[[山崎道子]]が「不義という観念が、非常にこうした不幸な人間を生む」「生れた子供は当然保護さるべき」「(母親を)保護し、何とかそうした道に陥らないようにすることが大切」と訴えている<ref name="kokkai-2"/>
1月18日夜、石川夫妻に抗議する群衆が「鬼夫婦に飯をやるな」などと叫びながら、早稲田警察署に殺到する出来事が起こった{{R|m1948-01-19}}その一方、食糧難の時勢に加え、死んだ乳児の大半が「不義の子」「日陰の子」であったため、[[漫談家]]・[[随筆家]]の[[徳川夢声]]が「産院に同情した」「大多数はモテ余して預ける」と語るなど{{R|gy1948-12|sakaguchi1999}}、殺されても仕方がなかったという風潮も存在した。これに対し、[[評論家]]の[[宮本百合子]]は「正当な子供、正当でない子供というのは子供にとってどんな区別があることでしょう」「子供はすべて社会の子供として生命を保証される権利があります。そして私どもにはその義務があります」と異議を唱えている{{R|miyamoto1948}}。[[国会 (日本)|国会]]においても、[[衆議院]]議員の[[山崎道子]]が「不義という観念が、非常にこうした不幸な人間を生む」「生れた子供は当然保護さるべき」「(母親を)保護し、何とかそうした道に陥らないようにすることが大切」と訴えている{{R|kokkai-2}}


[[GHQ/SCAP]]の公衆衛生福祉局(PHW)や東京・神奈川軍政部もこの事件に注目し、調査官を現地に派遣した<ref name="phw1948-01-16"/><ref name="hokenjosan1949"/><ref name="obayashi1989"/>{{#tag:ref|[[アメリカ国立公文書館]]には、いくつかの本事件の写真資料が保管されている<ref name="takazawa-2020"/>。|group="†"}}。[[朝日新聞]]は事件発覚前から寿産院の周辺では只ならぬ噂が立っており、また尋常でない数の死亡届が出ていたにもかかわらず、警察や役所が動かなかったと批判した。これに対し、神楽坂警察署署長は「何の報告も無く、事件を知らなかった我々の責任ではない」と、新宿区長は「出鱈目な本籍が多いので、米の通帳でも持ってくるよう要求したが、権限が無い」「書類は揃っていた」と反論している<ref name="a1948-01-21"/>
[[GHQ/SCAP]]の公衆衛生福祉局(PHW)や東京・神奈川軍政部(TKMGD)もこの事件に注目し、調査官を現地に派遣した{{R|phw1948-01-16|hokenjosan1949-07|obayashi1989}}{{#tag:ref|[[アメリカ国立公文書館]]には、いくつかの本事件の写真資料が保管されている{{R|takazawa-2020}}。|group="†"}}。[[朝日新聞]]は事件発覚前から寿産院の周辺では只ならぬ噂が立っており、また尋常でない数の死亡届が出ていたにもかかわらず、警察や役所が動かなかったと批判した。これに対し、神楽坂警察署署長は「何の報告も無く、事件を知らなかった我々の責任ではない」と、新宿区長は「出鱈目な本籍が多いので、米の通帳でも持ってくるよう要求したが、権限が無い」「書類は揃っていた」と反論している{{R|a1948-01-21}}


[[File:Kotobuki san'in advertisement.tif|thumb|x400px|1946年の寿産院([[牛込区]])および淀橋産院([[淀橋区]])の新聞広告]]
[[File:Kotobuki san'in advertisement.tif|thumb|x400px|1946年の寿産院([[牛込区]])および淀橋産院([[淀橋区]])の新聞広告]]
戦後から「産院は良い商売」という風潮が存在し、都内においては1947年1月の567軒から、12月には768軒に急増していた<ref name="m1948-01-18"/>。2月10日、東京都衛生局は、事件を受けて都内632軒の私設産院を調査した<ref name="a1948-02-11"/>。同日、新宿区[[戸塚 (新宿区)|戸塚]]の淀橋産院より63人の死亡届が出ていて、13,000円で子供を預けた女性がいた事などが明らかとなった<ref name="y1948-02-11"/>。更に17日には[[文京区]][[春木町]]の長谷川産院<ref name="y1948-02-18"/>、23日には文京区[[本駒込|上富士町]]の駒込橋産院と<ref name="y1948-02-24"/>、同様の事件が次々に発覚し、東京地検が受理した数は年内に(寿産院を含め)12件に上った<ref name="obayashi1989"/>{{#tag:ref|この内、長谷川産院は寿産院事件の発覚後、名簿を焼却するなどして証拠隠滅を図った。だが、貰い子事業と並行して、医師と結託して十数件の堕胎を行っていた事が判明し(内1件の料金は1万円)、戦後初めて堕胎罪で起訴された<ref name="y1948-02-11"/>。その後、長谷川産院には8月10日に業務禁止命令が出された<ref name="koho19480812"/>。|group="†"}}。加えて、[[大阪市]]でも同様の事件が発覚した{{#tag:ref|犯人の女(当時37歳)は、16年前に貰い子(母親の大部分は水商売や未復員者の妻)の斡旋を始め、終戦以降は1人当たり2,500から8,000円で合計14名を預かり、総額9万円を得た。この内7名が栄養失調で死亡し、借りた産婆印で死産届を作成していた事により、死体遺棄および私文書偽造の容疑で同年9月8日に逮捕(後に起訴)された<ref name="mo1948-09-10"/><ref name="mo1948-09-11"/><ref name="mo1948-09-14"/><ref name="mo1948-10-12"/>。|group="†"}}。
戦後から「産院は良い商売」という風潮が存在し、都内においては1947年1月の567軒から、12月には768軒に急増していた{{R|m1948-01-18}}。2月10日、東京都衛生局は、事件を受けて都内632軒の私設産院を調査した{{R|a1948-02-11}}。同日、新宿区[[戸塚 (新宿区)|戸塚]]の淀橋産院より63人の死亡届が出ていて、13,000円で子供を預けた女性がいた事などが明らかとなった{{R|y1948-02-11}}。更に17日には[[文京区]][[春木町]]の長谷川産院{{R|y1948-02-18}}、23日には文京区[[本駒込|上富士町]]の駒込橋産院と{{R|y1948-02-24}}、同様の事件が次々に発覚し、東京地検が受理した数は年内に(寿産院を含め)12件に上った{{R|hokenjosan1949-02|obayashi1989}}{{#tag:ref|この内、長谷川産院は寿産院事件の発覚後、名簿を焼却するなどして証拠隠滅を図った。だが、貰い子事業と並行して、医師と結託して十数件の堕胎を行っていた事が判明し(内1件の料金は1万円)、戦後初めて堕胎罪で起訴された{{R|y1948-02-11}}。その後、長谷川産院には8月10日に業務禁止命令が出された{{R|koho1948-08-12}}。|group="†"}}。加えて、[[大阪市]]でも同様の事件が発覚した{{#tag:ref|犯人の女(当時37歳)は、16年前に貰い子(母親の大部分は水商売や未復員者の妻)の斡旋を始め、終戦以降は1人当たり2,500から8,000円で合計14名を預かり、総額9万円を得た。この内7名が栄養失調で死亡し、借りた産婆印で死産届を作成していた事により、死体遺棄および私文書偽造の容疑で同年9月8日に逮捕(後に起訴)された{{R|mo1948-09-10|mo1948-09-11|mo1948-09-14|mo1948-10-12}}。|group="†"}}。


医学博士の[[林髞]]は「問題を解決するには、堕胎を公認するしかない」と主張し、[[参議院]]議員の[[宮城タマヨ]]は「私立のいかがわしい産院ではよく行われている」とした上で「より強力な母子保護の法制化が必要」「性道徳の退廃が問題」と訴えた<ref name="w-asahi1948"/>。石川ミユキが所属した助産婦団体の役員は、以下の声明を出している(いずれも一部抜粋・要約)<ref name="hokenjosan1948"/>
事件の原因として、堕落した風紀や配給の不足、婚外子の保護施設の不存在を指摘する声が挙がった{{R|jj1948-01-26|fujin1948-04}}。医学博士の[[林髞]]は「問題を解決するには、堕胎を公認するしかない」と主張し、[[参議院]]議員の[[宮城タマヨ]]は「私立のいかがわしい産院ではよく行われている」とした上で「より強力な母子保護の法制化が必要」「性道徳の退廃が問題」と訴えた{{R|w-asahi1948}}。[[衆議院]]議員の[[加藤シヅエ]]は「体の良い捨子をした親の無責任な行動こそ、最悪の不道徳として責められるべき」と捉えつつ{{R|kato1950}}、産児調節の普及・中絶の合法化・養子縁組の斡旋施設の充実化を訴えた{{R|fujin1948-06}}。石川ミユキが所属した助産婦団体の役員は、以下の声明を出している(いずれも一部抜粋・要約){{R|hokenjosan1948-02}}


{{Quote|「聖なる助産の使命に一層精進致したい」 |[[日本助産師会|日本助産婦会]]会長 風見すゞ}}
{{Quote|「聖なる助産の使命に一層精進致したい」 |[[日本助産師会|日本助産婦会]]会長 風見すゞ}}
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{{Quote|「産院は他の場所で分娩した嬰児を取扱うべきものではない」「産院はよい商売になる、というような間違った観念を一掃すべきである」「助産婦会館の一部に乳児院を設置したい」 |東京都助産婦会副会長 原田靜江}}
{{Quote|「産院は他の場所で分娩した嬰児を取扱うべきものではない」「産院はよい商売になる、というような間違った観念を一掃すべきである」「助産婦会館の一部に乳児院を設置したい」 |東京都助産婦会副会長 原田靜江}}


{{Quote|「貰い子の多くは蔭の子であり、駆け付けた生みの親は数名しかおらず、それ以外の大部分の親に根本原因はある」「正しい性教育の普及、廃れた道義心の高揚が必要」「産院は、他の場所で生まれた子供を取り扱うべきものではない」「寿産院は、院主がこの仕事に興味を持ち出し、本格的に事業化したのが間違いの元」 |日本助産婦会顧問・医学博士 鈴木三藏}}
{{Quote|「貰い子の多くは蔭の子であり、駆け付けた生みの親は数名しかおらず、それ以外の大部分の親に根本原因はある」「正しい性教育の普及、廃れた道義心の高揚が必要」「産院は、他の場所で生まれた子供を取り扱うべきものではない」「寿産院は、院主がこの仕事に興味を持ち出し、本格的に事業化したのが間違いの元」 |日本助産婦会顧問・医学博士 鈴木三藏}}


結局、警察に出頭した貰い子の母親は30人程度だった<ref name="a1948-01-21"/>。2月24日、寿産院付近に立地する、葬儀屋で発見された遺骨35柱が埋葬された宗圓寺にて、事件の犠牲となった85柱の合同慰霊祭が行われた。新宿区長の岡田昇三、早稲田警察署署長の井出勇、石川夫妻の幼い養子など約50人が参した<ref name="m1948-02-25"/>
結局、警察に出頭した貰い子の母親は30人程度だった{{R|a1948-01-21}}。2月24日、寿産院付近に立地する、葬儀屋で発見された遺骨35柱が埋葬された宗圓寺にて、事件の犠牲となった85柱の合同慰霊祭が行われた。前述の井出勇、新宿区長の岡田昇三、石川夫妻の幼い養子など約50人が参した{{R|m1948-02-25}}


2月27日、東京都は対策として、乳児預り業を認可制とする「乳児委託取締条例」を制定した<ref name="a1948-02-28"/>。[[厚生省]]は3月19日付で「助産婦の業務に関する広告取締令」を出し、「事情ある方御相談に応ず」「乳児預かります、秘密厳守」などの広告を禁止した<ref name="kampo1948-03-19"/><ref name="yoshida2016"/>。更に、この事件を一因として7月に[[優生保護法]]が制定され、翌[[1949年]]の改正によって経済的理由による堕胎が認められるようになった<ref name="yoshida2013"/><ref name="yoshida2016"/>。一方、かねてより日本の医療の近代化および合理化を図り、助産婦・[[看護婦]]・[[保健婦]]の統合を推し進めていたPHWは、この事件の発覚以降に一層圧力を強めた。結果的に1948年5月27日、助産婦の抵抗も甲斐なく、日本助産婦会は解散へと追い込まれた<ref name="obayashi1989"/>{{#tag:ref|[[1955年]]、助産婦6万人が日本看護協会(旧: 日本助産婦看護婦保健婦協会)から脱会し、再び日本助産婦会を設立している。|group="†"}}。
2月27日、東京都は対策として、乳児預り業を認可制とする「乳児委託取締条例」を制定した{{R|a1948-02-28}}。[[厚生省]]は3月19日付で「助産婦の業務に関する広告取締令」を出し、「事情ある方御相談に応ず」「乳児預かります、秘密厳守」などの広告を禁止した{{R|kampo1948-03-19|shinhorei1949|yoshida2016}}。更に、この事件を一因として7月に[[優生保護法]]が制定され、翌[[1949年]]の改正によって経済的理由による堕胎が認められるようになった{{R|ishikai1990|yoshida2013|yoshida2016|houses-report-2023}}。一方、かねてより日本の医療の近代化および合理化を図り、助産婦・[[看護婦]]・[[保健婦]]の統合を推し進めていたPHWは、この事件の発覚以降に一層圧力を強めた。結果的に1948年5月27日、助産婦の抵抗も甲斐なく、日本助産婦会は解散へと追い込まれた{{R|obayashi1989}}{{#tag:ref|[[1955年]]、助産婦6万人が日本看護協会(旧日本助産婦看護婦保健婦協会)から脱会し、再び日本助産婦会を設立している。|group="†"}}。


== 裁判 ==
== 裁判 ==
6月2日、[[東京地裁]]にて刑事裁判(裁判長: [[江里口清雄]]<ref name="y1980-03-19"/>)の第1回公判が開かれた。被告人全員が殺意を否認し、石川ミユキは助手に任せきりだったと監督不十分のみ認めた<ref name="a1948-06-03"/>。4日の公判では助手Kが、勤務していたのは平均7、8名で、増員を申し出ても認められなかったと証言した<ref name="m1948-06-05"/>
6月2日、[[東京地裁]]にて刑事裁判(裁判長[[江里口清雄]]{{R|y1980-03-19}})の第1回公判が開かれた。被告人全員が殺意を否認し、石川ミユキは助手に任せきりだったと監督不十分のみ認めた{{R|a1948-06-03}}。4日の公判では助手Kが、勤務していたのは平均7、8名で、増員を申し出ても認められなかったと証言した{{R|m1948-06-05}}


7日の公判では、[[1944年]]に石川猛が[[大阪地裁]]にて株券偽造により[[詐欺罪]]の実刑判決を受けた後、刑の執行を引き延ばすために偽造診断書を提出した事件について審理された。猛は以下の通り陳述した<ref name="a1948-06-08"/><ref name="m1948-06-08"/><ref name="y1948-06-08"/><ref name="takamura1950"/>
7日の公判では、[[1944年]]に石川猛が[[大阪地裁]]にて株券偽造により[[詐欺罪]]の実刑判決を受けた後、刑の執行を引き延ばすために偽造診断書を提出した事件について審理された。猛は以下の通り陳述した{{R|a1948-06-08|m1948-06-08|y1948-06-08|takamura1950}}


#[[第一生命ホールディングス|第一生命保険]]の保険外交員である{{ruby|寒|さい}}{{ruby|河|がわ}}{{ruby|江|え}}{{ruby|義|よし}}{{ruby|門|かど}}{{#tag:ref|氏名の読みは、当時の英字新聞に依拠<ref name="nt1948-10-12"/>。57歳<ref name="a1948-06-08"/>(満56歳<ref name="nt1948-10-12"/>)、59歳<ref name="y1948-09-04"/>、54歳<ref name="m1948-10-12"/>と紙面ごとに年齢表記が異なり、正確な年齢は不明。|group="†"}}に、偽造診断書の入手を依頼した{{#tag:ref|7月7日、江里口裁判長は[[科学捜査研究所]]の写真課課長である高村巌に、偽造診断書の[[筆跡鑑定]]を行うよう命じた。その結果、寒河江は猛との共作と主張したものの、実際には猛の主張通り、診断書に記入された文字は全て寒河江の筆跡に一致すると断定された<ref name="takamura1950"/>。|group="†"}}
#[[第一生命ホールディングス|第一生命保険]]の保険外交員である{{ruby|寒|さい}}{{ruby|河|がわ}}{{ruby|江|え}}{{ruby|義|よし}}{{ruby|門|かど}}{{#tag:ref|氏名の読みは、当時の英字新聞に依拠{{R|nt1948-10-12}}。57歳{{R|a1948-06-08}}(満56歳{{R|nt1948-10-12}})、59歳{{R|y1948-09-04}}、54歳{{R|m1948-10-12}}と紙面ごとに年齢表記が異なり、正確な年齢は不明。|group="†"}}に、偽造診断書の入手を依頼した{{#tag:ref|7月7日、江里口裁判長は[[科学捜査研究所]]の写真課課長である高村巌に、偽造診断書の[[筆跡鑑定]]を行うよう命じた。その結果、寒河江は猛との共作と主張したものの、実際には猛の主張通り、診断書に記入された文字は全て寒河江の筆跡に一致すると断定された{{R|takamura1950}}。|group="†"}}
#寒河江を介して、弁護士の[[大滝亀代司]](公判当時は衆議院議員)に執行延期への協力を依頼した
#寒河江を介して、弁護士の[[大滝亀代司]](公判当時は衆議院議員)に執行延期への協力を依頼した
#大滝は「政治的に動くより道は無い」と答え、[[法務大臣|司法大臣]]や[[検事総長]]に対する運動費として5万円の請求を受け、猛は35,000円を渡した
#大滝は「政治的に動くより道は無い」と答え、[[法務大臣|司法大臣]]や[[検事総長]]に対する運動費として5万円の請求を受け、猛は35,000円を渡した


18日、猛は「預り証の無い乳児がいつも1、2名いて、どの子がいつ死んだか正確にはわからない」と杜撰な管理体制を認めた<ref name="m1948-06-19"/>。23日、実地検証<ref name="y1948-06-24"/>。7月9日、前述の大滝が出廷し「寒河江を介して依頼を受け、診断書を当時の検察官に示して、執行延期の許可を伝えたが、司法大臣や検事総長に会った事は無い」「35,000円の手数料は2回にわたり受け取った、日付は記憶が無い」と証言した<ref name="a1948-07-10"/>{{#tag:ref|その後、大滝の弁護士名簿からの取消請求と、同名簿への登録請求が、[[1949年]]8月29日付で同時に行われている<ref name="kampo1950-01-25"/>。また、大滝が所属する[[第一東京弁護士会]]は、大滝への懲戒処分の是非を巡って、複数の会派(派閥)へと分裂に至った<ref name="toyokeizai2015"/>。|group="†"}}。
18日、猛は「預り証の無い乳児がいつも1、2名いて、どの子がいつ死んだか正確にはわからない」と杜撰な管理体制を認めた{{R|m1948-06-19}}。23日、実地検証{{R|y1948-06-24}}。7月9日、前述の大滝が出廷し「寒河江を介して依頼を受け、診断書を当時の検察官に示して、執行延期の許可を伝えたが、司法大臣や検事総長に会った事は無い」「35,000円の手数料は2回にわたり受け取った、日付は記憶が無い」と証言した{{R|a1948-07-10}}{{#tag:ref|その後、大滝の弁護士名簿からの取消請求と、同名簿への登録請求が、[[1949年]]8月29日付で同時に行われている{{R|kampo1950-01-25}}。また、大滝が所属する[[第一東京弁護士会]]は、大滝への懲戒処分の是非を巡って、複数の会派(派閥)へと分裂に至った{{R|toyokeizai2015}}。|group="†"}}。


8月20日、石川夫妻と助手Kに保釈が認められた<ref name="y1948-08-21"/>。9月3日、論告求刑公判が開かれ、1946年4月から1948年1月まで84名が死亡、内27名は殺人の証拠が明確と検察は主張した<ref name="a1948-09-04"/><ref name="takamura1950"/>。その際の罪状と求刑、および10月11日に下された判決は、以下の表の通りである<ref name="a1948-10-12"/><ref name="m1948-10-12"/><ref name="keishicho1978"/>{{#tag:ref|当時新聞各紙は、中山の判決には言及していない。|group="†"}}。
8月20日、石川夫妻と助手Kに保釈が認められた{{R|y1948-08-21}}。9月3日、論告求刑公判が開かれ、1946年4月から1948年1月まで84名が死亡、内27名は殺人の証拠が明確と検察は主張した{{R|a1948-09-04|takamura1950}}。その際の罪状と求刑、および10月11日に下された判決は、以下の表の通りである{{R|a1948-10-12|m1948-10-12|keishicho1978}}{{#tag:ref|朝日・毎日・読売の各紙(東京版)は、中山の判決には言及していない。|group="†"}}。
[[File:Kotobuki san'in court 19480616.png|thumb|<center>公判の様子</center>]]
[[File:Kotobuki san'in court 19480616.png|thumb|{{center|公判の様子}}]]


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判決では、22名の殺害容疑は証拠不十分で無罪としつつ、5名(事件発覚後の死亡者を含む<ref name="hokenjosan1950"/>)については石川夫妻が共謀の上で、[[栄養失調]]に至らしめて殺害した不作為犯と認定した。一方で助手Kについては、度々ミルクの増量を訴えるなど最善を尽くし、犯意が無いので無罪とした<ref name="a1948-10-12"/><ref name="m1948-10-12"/><ref name="jikei1948"/>。石川夫妻は即日、[[東京高裁]]に控訴した<ref name="m1948-10-12"/>。16日、検察は夫妻のみを控訴し、他の被告人は判決が確定した<ref name="a1948-10-17"/>{{#tag:ref|助手Kは無罪が確定し、[[1950年]]1月1日に公布・施行された新[[刑事補償法]]が初めて適用され、同年2月15日付で54,750円の刑事補償(1日あたり250円)の交付が決定された<ref name="m1950-02-18"/><ref name="y1950-02-18"/><ref name="kampo1950-03-04"/>。|group="†"}}。
判決では、22名の殺害容疑は証拠不十分で無罪としつつ、5名(事件発覚後の死亡者を含む{{R|hokenjosan1950}})については石川夫妻が共謀の上で、[[栄養失調]]に至らしめて殺害した不作為犯と認定した。一方で助手Kについては、度々ミルクの増量を訴えるなど最善を尽くし、犯意が無いので無罪とした{{R|a1948-10-12|m1948-10-12|jikei1948}}。石川夫妻は即日、[[東京高裁]]に控訴した{{R|m1948-10-12}}。16日、検察は夫妻のみを控訴し、他の被告人は判決が確定した{{R|a1948-10-17}}{{#tag:ref|助手Kは無罪が確定し、[[1950年]]1月1日に公布・施行された新[[刑事補償法]]が適用され、同年2月15日付で54,750円の刑事補償(1日あたり250円)の交付が決定された{{R|m1950-02-18|y1950-02-18|kampo1950-03-04}}。なお、同法が初めて適用された事例と報道されたが{{R|m1950-02-18|y1950-02-18}}、実際には3番目以降である{{R|hosho1950}}。|group="†"}}。


[[1951年]]7月14日、東京高裁での控訴審において、検察は夫妻に対し一審と同じ求刑を行った<ref name="a1951-07-15"/>。[[1952年]]4月28日、一審判決は破棄され、ミユキに懲役4年、猛に懲役2年の判決が言い渡された<ref name="chiken1974"/>{{#tag:ref|有罪の地裁判決を受けて控訴中の被告人が、[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]発効による[[恩赦]]により、(発効日である)4月28日付で減刑された事例があった<ref name="m1952-04-28"/>。後述の週刊新潮の取材記事では、ミユキはこの時の恩赦によって出所したと記述されている<ref name="shincho1969"/>。|group="†"}}{{#tag:ref|28日は講和条約の発効日であ、翌日の新聞は独立(主権)回復の話題で一色となったため、この二審判決報道は皆無であった。|group="†"}}。[[1953年]]9月15日[[最高裁]]は上告を棄却、二審判決が確定した<ref name="saikosai1953"/><ref name="chiken1974"/>
[[1951年]]7月14日、東京高裁での控訴審において、検察は夫妻に対し一審と同じ求刑を行った{{R|a1951-07-15}}。[[1952年]]4月28日、一審判決は破棄され、ミユキに懲役4年、猛に懲役2年の判決が言い渡された{{R|chiken1974}}{{#tag:ref|有罪の地裁判決を受けて控訴中の被告人が、[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]発効による[[恩赦]]により、(発効日である)4月28日付で減刑された事例があった{{R|m1952-04-28}}なお、後述の週刊新潮の取材記事では、ミユキはこの時の恩赦によって出所したと記述されているが{{R|shincho1969}}、この時点では判決が確定していなかったため、明白な誤りである。|group="†"}}{{#tag:ref|28日は講和条約の発効日であったため、翌日の朝日・毎日・読売の各紙(東京版)は独立(主権)回復の話題で一色とな、この二審判決報道されなかった。|group="†"}}。夫妻は上告したものの、[[1953年]]9月15日[[最高裁]]によって棄却され、二審判決が確定した{{R|saikosai1953|enkaku1967|chiken1974}}


== 後日談 ==
== 後日談 ==
事件発覚から1年経った時点で、保釈中の石川ミユキは寿産院(閉鎖)の家屋に住み続け、中の三畳三間の3部屋を貸し出そうとしていた<ref name="asahi-g1949"/>。更に発覚から21年後、前述の[[訴訟の終了]]から約16年後の[[1969年]]、ミユキ(当時73歳、記事中では仮名「川野たか」)への取材記事が[[週刊新潮]]に掲載された。彼女は「首を絞めるなど手を下してはいない」「出来るだけ食事も与え、医師にも診せた」「ミルクが少なかった訳ではないが、夫がミルクを近所の大豆入りミルクと勝手に交換した」と涙ながらに[[冤罪]]を訴えた。出所後は「成功して無実の罪を着せられた復讐をしよう」と奮起して石鹸・クリーム・魚の[[行商]]を始め、この時点では東京都内で不動産業を営んでいた。かつての担当弁護士からの「今は億の金を作ったんじゃないですか」という証言も紹介された。また、夫の猛とは死別しており、2年前には自らの大きな墓を建てたと明かし、「川野たか、ここにありですよ」と豪語している<ref name="shincho1969"/>
事件発覚から1年経った時点で、保釈中の石川ミユキは寿産院(閉鎖)の家屋に住み続け、中の三畳三間の3部屋を貸し出そうとしていた{{R|asahi-g1949}}{{#tag:ref|1949年6月、かつて寿産院だったアパートの賃借人が、[[タイプライター]]の連続窃盗犯として逮捕される出来事が起きた{{R|jiho195004}}。|group="†"}}。更に発覚から21年後、前述の[[訴訟の終了]]から約16年後の[[1969年]]、ミユキ(当時73歳、記事中では仮名「川野たか」)への取材記事が[[週刊新潮]]に掲載された。彼女は「首を絞めるなど手を下してはいない」「出来るだけ食事も与え、医師にも診せた」「ミルクが少なかった訳ではないが、夫がミルクを近所の大豆入りミルクと勝手に交換した」と涙ながらに[[冤罪]]を訴えた。出所後は「成功して無実の罪を着せられた復讐をしよう」と奮起して石鹸・クリーム・魚の[[行商]]を始め、この時点では東京都内で不動産業を営んでいた。また、夫の猛とは死別しており、2年前には自らの大きな墓を建てたと明かし、「川野たか、ここにありですよ」と豪語している{{R|shincho1969}}。[[1987年]]5月30日死亡、享年91(満{{没年齢|1897|02|05|1987|05|30}}){{R|tvom-2021|shutterbulky-2022|247ws-2023}}


== 画像一覧 ==
== 画像一覧 ==
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File:Kotobuki san'in confiscation.jpg|押収された粉ミルクなどの物資
File:Kotobuki san'in confiscation.jpg|押収された粉ミルクなどの物資
File:Ashes at Kotobuki maternity hospital 2.JPG|犠牲者十数人分の遺骨
File:Ashes at Kotobuki maternity hospital 2.JPG|犠牲者十数人分の遺骨
File:Kotobuki san'in phw officer.png|PHW士官による視察
File:Kotobuki san'in phw officer.png|PHW・TKMGD士官による視察
File:List non-registered babies 1947 tokyo japan.pdf|各産院における無籍児の人数(英語)
File:Kotobuki san'in report 1948-01-16.pdf|PHW・TKMGDによる現地調査の報告書(英語)
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
いずれも私生児を寿産院に預け、事件発覚後に生き残った我が子を引き取った女性への取材記事{{#tag:ref|アサヒグラフは1949年1月の時点で、実母が育てている寿産院の乳児はいないと報道しており<ref name="asahi-g1949"/>、これらの手記の信憑性は不明。|group="†"}}。
いずれも私生児を寿産院に預け、事件発覚後に生き残った我が子を引き取った女性への取材記事{{#tag:ref|アサヒグラフは1949年1月の時点で、実母が育てている寿産院の乳児はいないと報道しており{{R|asahi-g1949}}、これらの手記の信憑性は不明。|group="†"}}。
* {{Cite journal|和書|author=瀨川芙紗子|year=1949|title=私はなぜ子を捨てねばならなかったか 『壽產院事件』の眞相を語る涙の手記|journal=婦女界|volume=37|issue=1|pages=72-76|publisher=婦女界社}}
* {{Cite journal|和書|author=瀨川芙紗子|year=1949|title=私はなぜ子を捨てねばならなかったか 『壽產院事件』の眞相を語る涙の手記|journal=婦女界|volume=37|issue=1|pages=72-76|publisher=婦女界社}}
* {{Cite journal|和書|editor=靑木圭子|year=1954|month=12|title=昭和廿三年 解放された性の末路 第一話 寿産院に哭く|journal=りべらる|volume=9|issue=13|pages=45-49|edition=12月号|publisher=太虛堂書房}}
* {{Cite journal|和書|editor=靑木圭子|year=1954|month=12|title=昭和廿三年 解放された性の末路 第一話 寿産院に哭く|journal=りべらる|volume=9|issue=13|pages=45-49|edition=12月号|publisher=太虛堂書房}}

== 備考 ==
* [[2023年]]公開の日韓合作ホラー映画「[[オクス駅お化け]]」は、本事件を題材の一つとしている{{R|oksu-2023}}。
* 前述の宮本百合子の写真が{{R|ymiyamoto-01|ymiyamoto-02|ymiyamoto-03}}、誤って石川ミユキとして掲載されているウェブサイトが多数存在する{{R|shutterbulky-2022|medium-2020|grunge-2023}}。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="†"|refs=
{{Reflist|group="†"|refs=
{{#tag:ref|実際には更に1名が含まれるが、[[奇形児]]であったために生育能力は無いとみなされ、被害者からは除外されている<ref name="m1948-01-27"/><ref name="j1948-01-27"/>。|name="kenshi"|group="†"}}
{{#tag:ref|実際には更に1名が含まれるが、[[奇形児]]であったために生育能力は無いとみなされ、被害者からは除外されている{{R|m1948-01-27|j1948-01-27}}。|name="kenshi"|group="†"}}
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<ref name="m1948-01-16">毎日新聞東京本社1948年1月16日朝刊2面</ref>
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<ref name="m1948-01-17">毎日新聞東京本社1948117日朝刊2面</ref>
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<ref name="m1948-01-19">毎日新聞東京本社1948年1月19日朝刊2面</ref>
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203行目: 212行目:
<ref name="y1948-08-21">読売新聞東京本社1948年8月21日朝刊2面</ref>
<ref name="y1948-08-21">読売新聞東京本社1948年8月21日朝刊2面</ref>
<ref name="y1948-09-04">読売新聞東京本社1948年9月4日朝刊2面</ref>
<ref name="y1948-09-04">読売新聞東京本社1948年9月4日朝刊2面</ref>
<ref name="y1950-02-18">読売新聞東京本社1950218日朝刊2面</ref>
<ref name="y1950-02-18">読売新聞東京本社1950年2月18日朝刊2面</ref>
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<ref name="y1980-03-19">読売新聞東京本社1980年3月19日朝刊5面</ref>
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<ref name="j1948-01-16">時事新報1948年1月16日朝刊2面</ref>
<ref name="j1948-01-16">時事新報1948年1月16日朝刊2面</ref>
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<ref name="j1948-01-19">時事新報1948年1月19日朝刊2面</ref>
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<ref name="nt1948-10-12">{{Cite news|title=Pair Sentenced for Infanticide|newspaper=Nippon Times|issue=17811|date=1948-10-12|publisher=The Nippon Times, Ltd.|page=1|language=en}}</ref>
<ref name="nt1948-10-12">{{Cite news|title=Pair Sentenced for Infanticide|newspaper=Nippon Times|issue=17811|date=1948-10-12|publisher=The Nippon Times, Ltd.|page=1|language=en}}</ref>


<ref name="kokkai-2">{{cite conference |url=https://kokkai.ndl.go.jp/txt/100205254X01319480202|date=1948-02-02|title=衆議院 本会議|volume=13|conference=第2回国会}}</ref>
<ref name="kokkai-2">{{cite conference|和書|url=https://kokkai.ndl.go.jp/txt/100205254X01319480202|date=1948-02-02|title=衆議院 本会議|volume=13|conference=第2回国会}}</ref>
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<ref name="kampo1947-05-01">{{Cite news|和書|newspaper=官報|issue=6086|date=1947-05-01|publisher=大蔵省印刷局|page=9}}{{NDLJP|2962600}}</ref>
<ref name="kampo1947-05-01">{{Cite news|和書|newspaper=官報|issue=6086|date=1947-05-01|publisher=大蔵省印刷局|page=9}}{{NDLJP|2962600}}</ref>
226行目: 235行目:
<ref name="kampo1968-07-05">{{Cite news|和書|newspaper=官報|issue=12466|date=1968-07-05|publisher=大蔵省印刷局|page=18}}</ref>
<ref name="kampo1968-07-05">{{Cite news|和書|newspaper=官報|issue=12466|date=1968-07-05|publisher=大蔵省印刷局|page=18}}</ref>


<ref name="koho19191227">{{Cite news|和書|newspaper=警視廳東京府公報|issue=1174|date=1919-12-27|publisher=東京府|page=2383}}</ref>
<ref name="koho1919-12-27">{{Cite news|和書|newspaper=警視廳東京府公報|issue=1174|date=1919-12-27|publisher=東京府|page=2383}}</ref>
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<ref name="koho1922-03-28">{{Cite news|和書|newspaper=警視廳東京府公報|issue=1583|date=1922-03-28|publisher=東京府|page=584}}</ref>
<ref name="koho19230424">{{Cite news|和書|newspaper=警視廳東京府公報|issue=1782|date=1923-04-24|publisher=東京府|page=802}}</ref>
<ref name="koho1923-04-24">{{Cite news|和書|newspaper=警視廳東京府公報|issue=1782|date=1923-04-24|publisher=東京府|page=802}}</ref>
<ref name="koho19240612">{{Cite news|和書|newspaper=警視廳東京府公報|issue=1959|date=1924-06-12|publisher=東京府|page=420}}</ref>
<ref name="koho1924-06-12">{{Cite news|和書|newspaper=警視廳東京府公報|issue=1959|date=1924-06-12|publisher=東京府|page=420}}</ref>
<ref name="koho19250929">{{Cite news|和書|newspaper=警視廳東京府公報|issue=2176|date=1925-09-29|publisher=東京府|page=738}}</ref>
<ref name="koho1925-09-29">{{Cite news|和書|newspaper=警視廳東京府公報|issue=2176|date=1925-09-29|publisher=東京府|page=738}}</ref>
<ref name="koho19480127">{{Cite news|和書|newspaper=東京都警視廳公報|issue=273|date=1948-01-27|publisher=東京都|page=34}}</ref>
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<ref name="koho19480812">{{Cite news|和書|newspaper=東京都警視廳公報|issue=356|date=1948-08-12|publisher=東京都|page=326}}</ref>
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<ref name="jj1948-01-26">{{Cite news |和書|title=『もらい子殺し事件』の示唆するもの|newspaper=時事通信 時事解説版|date=1948-01-26|author=大井長二|publisher=時事通信社|issue=660|pages=131-132}}</ref>


<ref name="w-asahi1948">{{Cite journal|和書|year=1948|title=地獄の貰い子殺し 壽產院事件|journal=週刊朝日 2月8日号|volume=52|issue=6|page=16-17|publisher=朝日新聞社}}</ref>
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<ref name="yumoto2000">{{Cite journal|和書|author=湯本敦子|year=2000|title=長野県における近代産婆の確立過程の研究|journal=arsvi.com|chapter=第1章 近代日本における産婆制度の成立|publisher=立命館大学生存学研究所|url=http://www.arsvi.com/2000/000300ya.htm}}</ref>
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<ref name="yoshida2013">{{Cite journal|和書|author=吉田一史美 |year=2013 |title=第二次大戦前後の日本における乳児の生命保護 : 産婆による乳児保護から児童福祉へ |journal=医学哲学 医学倫理 |ISSN=0289-6427 |publisher=日本医学哲学・倫理学会 |volume=31 |pages=11-21 |chapter=おわりに |naid=130006329257 |doi=10.24504/itetsu.31.0_11}}</ref>
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<ref name="grunge-2023">{{cite web |url=https://www.grunge.com/395489/details-you-should-know-about-serial-killer-miyuki-ishikawa/ |title=Details You Should Know About Serial Killer Miyuki Ishikawa |last=Harrington |first=Luke T. |date=2023-03-17 |website=Grunge |publisher=Static Media Inc. |language=en |accessdate=2023-10-01}}</ref>
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== 関連項目 ==
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* [[ジェニーン・ジョーンズ]] - テキサス州で、自身が担当する乳幼児を多数殺害していたとされる准看護師
* [[岡田更生館事件]]
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* {{仮リンク|アメリアダイアー|en|Amelia Dyer}} - 乳児の斡旋業を営み、大量「売れ残り」を殺害後に処刑されたイギリス人女性
* {{仮リンク|ミニーディ|en|Minnie Dean}} - 同様に乳児の斡旋業を営み、多くを殺害[[ニュージーランド]]史上唯一執行された女性死刑囚
* {{仮リンク|アメリアダイアー|en|Amelia Dyer}} - 乳児の斡旋業を営み、大量「売れ残り」を殺害、後に処刑されたイギリス人女性
* {{仮リンク|ミニーディ|en|Minnie Dean}} - 同様に乳児の斡旋業を営み、多くを殺害、ニュージーランド史上唯一執行された女性死刑囚

== 映像資料 ==
* {{cite video|和書|author=日本映画社|date=1948-01-27|title=日本ニュース 第107号|medium=画|publisher=日本映画社|issue=1569}}
* {{cite video|和書|author=日本映画社|date=1948-02-17|title=日本ニュース 第110号|medium=ウェブ動画|url=https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001310110_00000&chapter=002|publisher=日本映画社|work=NHKアーカイブス|issue=1572}}


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* {{cite video|author=日本映画社|date=1948-02-17|title=日本ニュース 戦後編110号|medium=ウェブ動|url=https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001310110_00000&seg_number=002|publisher=日本放送協会|issue=1572}}
* {{Wayback|url=http://showa.mainichi.jp/news/1948/01/post-c693.html|title=寿産院事件(昭和毎日)|date=20090501141101}}(毎日新聞社)
* {{Wayback|url=http://showa.mainichi.jp/news/1948/01/post-c693.html|title=寿産院事件(昭和毎日)|date=20090501141101}}(毎日新聞社)
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2024年9月18日 (水) 12:27時点における最新版

寿産院事件
早稲田警察署から護送される石川ミユキ
場所 日本の旗 日本東京都新宿区市谷柳町27番地[1][2]
座標 北緯35度41分53.4秒 東経139度43分33.6秒 / 北緯35.698167度 東経139.726000度 / 35.698167; 139.726000座標: 北緯35度41分53.4秒 東経139度43分33.6秒 / 北緯35.698167度 東経139.726000度 / 35.698167; 139.726000
標的 嬰児
日付 1946年4月 - 1948年1月15日
概要 嬰児の大量殺人事件
原因 凍死、餓死
死亡者 諸説あり
5人(確定判決
27人(検察の主張)
84人(警察の調査)[† 1][† 2]
負傷者 5人
犯人 3人 (有罪判決確定)
容疑 1人 (無罪判決確定)
動機 預かった嬰児への養育費や配給品等の詐取
関与者 1人 (釈放)
テンプレートを表示

寿産院事件(ことぶきさんいんじけん)とは、1948年昭和23年)1月12日に発覚した嬰児貰い子殺人事件[9]

概要

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戦後混乱期の只中の1948年1月、東京都新宿区助産院「寿産院」(旧字体:壽產院)において、嬰児の大量殺人が発覚した。その主犯出産に携わる助産婦[† 3]であり、加えて養育料の横領配給品の横流しによって大金を稼いでいた事が判明し、社会に衝撃を与えた。その後も同様の事件が次々に発覚したため、産児制限を重視する声が高まり、優生保護法が制定される契機となった。一方で、複数の職能団体の解散または分裂を引き起こした。

経歴

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石川ミユキ

事件の主犯格である石川ミユキ[† 4](旧姓:小丸[13][14])は、1897年明治30年)2月5日生まれ[11]宮崎県東諸県郡本庄村出身[4][15]。宮崎県立職業学校の卒業後に18歳で上京[15]1919年9月30日に東京帝国大学医科大学附属医院産婆講習科を卒業し[13]、当時の女性としては非常に高い学歴を身に付けた。内務省指定校である同院を卒業したため、無試験で産婆資格を取得し[16]、同年11月12日に東京府の産婆名簿に登録された(登録番号:5769)[13]。その後は日本橋牛込で30年余りにわたり産院を経営していた[4][15][† 5]

一方、夫の石川猛は3歳年長で[2]茨城県東茨城郡白河村出身、ミユキが23歳の時(1919年)に結婚した[4][† 6]農学校を2年で中退し、現役の志願兵として憲兵軍曹まで務めた。その後、1919年から1926年までは警視庁巡査として奉職し、退官後は定職に就かずに妻の事業を手伝い、後述の預り子に関する一切の手続きを引き受けていた[15][21]後述の通り、詐欺事件を起こした事もあった。

ミユキは子宮卵巣を手術で切除したため、夫妻の間に実子は無かったが[22][2]、猛と先妻の間の息子および養子(男2人・女1人)と共に暮らしていた[15][23]。後述の逮捕までに、ミユキは日本助産婦看護婦保健婦協会理事、東京都助産婦会牛込支部長および牛込助産婦会会長の肩書を持っており[15]1947年の婦人年鑑においては女性の第一人者の一人として紹介されていた[24][25]。1947年4月、発足から間もない新宿区の区会議員選挙に無所属で立候補したが、落選している[† 7]

犯行

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1943年から石川夫妻は、主に未婚の男女の間に生まれ、始末に困る私生児を預かって寿産院で養育し、子供を欲しがる者に斡旋する特殊産院[† 8]の事業を始めた。当時は堕胎罪により人工妊娠中絶は厳しく制限されており、私生児を預ける母親は戦争未亡人ダンサー女給娼婦などであった[2]。新聞に三行広告を掲載し、養育料として2千円から1万円(時には広告料として1,500円追加[28])を受け取った上で嬰児を引き取り[† 9]、更に顔立ちの良さで金額を変えて、300円から500円で養親に売り払った[29][15][30]。これらの養育料の横領に加え、配給された粉ミルク砂糖、死亡した嬰児の葬祭用の清酒2(3.6リットル)を闇市に横流しする事で、事件発覚までに90万円とも100万円ともいわれる巨額の利益を手にした[2][31][15][† 10]。その収入で羽振りを良くし、当時はまだ高価かつ希少だった電話機を備えており[35][25][† 11]、また東京都内や茨城県内の土地を購入し、更に発覚直前には(当時は非常に高価な)自家用車を購入しようとしていた[37]

寿産院

預かる子供が増える一方で貰い手が少なくなると、預かった嬰児には平常の半分しかミルクを与えず、風呂にも入れず、おむつも替えず、医者には死ぬ間際しか診せないなどの劣悪な環境に置いた。このようにして、「売れ残り」の大部分は栄養失調症に陥らせて死亡させ、一部は冬期に保温せずに凍死させた。これに対し、開業以来雇われた十数名の助産婦は、増員やミルクの増量、保温処置を再三要求したが、ミユキは指示通りにすれば良いとはねつけた。後に逮捕された産婆助手Kも、ミユキの優れた助産技術を見習いたい一心から約1年間勤め続けたものの、耐えきれずに帰郷を申し入れていた[22][30][2]。入院した産婦の間でも、手当の仕方や、貰い子の保育の様子を見て「鬼産婆」と噂し合い、回復前に逃げ出した者もいた[28]

寿産院の「預り子台帳」および埋葬許可証に記録された、各年の貰い子と死亡児の推移は、以下の表の通りである[38][2][† 12]

1943 1944 1945 1946 1947 1948 合計
預り子台帳 8 24 34 40 100 5 211
埋葬許可証 0 0 1 24 53 6 84

発覚

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井出勇

1948年1月12日夜、続発する凶悪犯罪に対応するため、警視庁は全管下に臨時警戒を実施した。早稲田警察署の2人の巡査も警戒にあたり、新宿区榎町15番地で張り込みを行っていた最中、自転車の荷台に木箱を積んで運ぶ男に職務質問を行った。男は葬儀屋(当時54歳)で、4つの木箱には乳児の死体が1体ずつ入っていた。巡査が問いただすと、寿産院から頼まれて5体の死体を運ぶ途中であり、明朝に残りの死体と共に埋葬許可証を受け取って火葬する予定で、これまでにも30体の死体の火葬を頼まれたと答えた。結局、男は3通の埋葬許可証を所持していたため、そのまま帰された。警戒終了後、巡査は前述の顛末を上司に報告し、直後に早稲田警察署署長の井出勇(当時41歳[† 13])にも伝わった[22][2]

1日に5体の乳児の死体が同じ産院から運び出され、しかも今までに30体以上の火葬を取り扱っているのは只事ではないと感じた井出は、翌朝に葬儀屋へ捜査係を派遣し、死因を調査するために死体の処置を待つよう指示した。検察庁にも手配し、同日に国立東京第一病院にて司法解剖を行った結果、3体は餓死、2体は凍死と死因が判明した[43][19][22][† 1]。これにより貰い子の養育をしない、殺人の不作為犯に相違ないとして令状を請求し、15日早朝に石川ミユキ(当時52歳)、夫の石川猛(当時55歳)および葬儀屋を逮捕した[2][† 14][† 15]。警察が夫妻の自宅でもある寿産院を捜索した結果、粉ミルク18ポンド(約8.2キログラム)、砂糖1500(約5.6キログラム)、米15升(約27リットル)が押収された[3][† 16]。また、院内では7人の乳児の生存が確認されたが、内2人は14日夕および15日朝に死亡、2人は実母が連れて帰り、2人は養子として引き取られ、残り1人の消息は不明である[43][46][† 17][† 18]

石川ミユキ(前列右)、葬儀屋(同中央)および石川猛(同左)

逮捕された葬儀屋は、死体1体につき500円で処理していた[50]。葬儀屋の自宅から約40柱の遺骨が発見され、更に別の業者が1947年の前半に、30柱余りの遺骨を無縁塔に葬っていた[51]。18日には、前述の産婆助手K(当時25歳[12])も共犯として逮捕された[52]。19日付で、助産婦規則第10条の規定に則り、東京都知事より助産婦としての業務禁止命令が出された[11]。21日、ミユキは読売新聞の取材に筆談で応じ「死刑にされても恨みません」と述べる一方で、子供に十分な食事を与えなかった理由を「後の補給の目当てが無いため」と答えている[53]。取調べにおいては「私は誠心誠意やってきた。母親は無理に預けていってしまう。死ぬのは当然」と主張した[15]

主に医師の中山四郎(当時60歳)が、ほとんど診察もせずに、夫妻の求めるままに偽りの死亡診断書を60枚近く作成し[52][54][22][2]、一部は別の医師も関与していた事が判明した[55]。また、貰い手の方は手続きが容易な無籍児を希望し、一方で死亡届や埋葬許可は有籍児の方が通りやすかったため、無籍児としてある有籍児を差し出し、その有籍児の氏名を騙って別の乳児の死亡届を出した事例が少なくなかった[56][57]。一方、ミルク配給のある有籍児が死ぬと、配給の無い無籍児が死んだと虚偽申告を行い、配給を受け続けた事もあった[19]。加えて、預り子台帳・埋葬許可証・死亡診断書の数が食い違うなど、手続や記録が曖昧だったために、真相の究明に支障をきたした[38]。26日、石川夫妻と助手Kは殺人罪で起訴されたが、葬儀屋は正式な埋葬許可証の交付を受けていたため、証拠不十分で釈放された[58][59][22][† 19]

反響

[編集]

1月18日夜、石川夫妻に抗議する群衆が「鬼夫婦に飯をやるな」などと叫びながら、早稲田警察署に殺到する出来事が起こった[60]。その一方で、食糧難の時勢に加え、死んだ乳児の大半が「不義の子」「日陰の子」であったため、漫談家随筆家徳川夢声が「産院に同情した」「大多数はモテ余して預ける」と語るなど[61][62]、殺されても仕方がなかったという風潮も存在した。これに対し、評論家宮本百合子は「正当な子供、正当でない子供というのは子供にとってどんな区別があることでしょう」「子供はすべて社会の子供として生命を保証される権利があります。そして私どもにはその義務があります」と異議を唱えている[63]国会においても、衆議院議員の山崎道子が「不義という観念が、非常にこうした不幸な人間を生む」「生れた子供は当然保護さるべき」「(母親を)保護し、何とかそうした道に陥らないようにすることが大切」と訴えている[64]

GHQ/SCAPの公衆衛生福祉局(PHW)や東京・神奈川軍政部(TKMGD)もこの事件に注目し、調査官を現地に派遣した[65][66][67][† 20]朝日新聞は「事件発覚前から寿産院の周辺では只ならぬ噂が立っており、また尋常でない数の死亡届が出ていたにもかかわらず、警察や役所が動かなかった」と批判した。これに対し、神楽坂警察署署長は「何の報告も無く、事件を知らなかった我々の責任ではない」と、新宿区長は「出鱈目な本籍が多いので、米の通帳でも持ってくるよう要求したが、権限が無い」「書類は揃っていた」と反論している[28]

1946年の寿産院(牛込区)および淀橋産院(淀橋区)の新聞広告

戦後から「産院は良い商売」という風潮が存在し、都内においては1947年1月の567軒から、12月には768軒に急増していた[29]。2月10日、東京都衛生局は、事件を受けて都内632軒の私設産院を調査した[69]。同日、新宿区戸塚の淀橋産院より63人の死亡届が出ていて、13,000円で子供を預けた女性がいた事などが明らかとなった[70]。更に17日には文京区春木町の長谷川産院[71]、23日には文京区上富士町の駒込橋産院と[72]、同様の事件が次々に発覚し、東京地検が受理した数は年内に(寿産院を含め)12件に上った[73][67][† 21]。加えて、大阪市でも同様の事件が発覚した[† 22]

事件の原因として、堕落した風紀や配給の不足、婚外子の保護施設の不存在を指摘する声が挙がった[79][80]。医学博士の林髞は「問題を解決するには、堕胎を公認するしかない」と主張し、参議院議員の宮城タマヨは「私立のいかがわしい産院ではよく行われている」とした上で「より強力な母子保護の法制化が必要」「性道徳の退廃が問題」と訴えた[15]衆議院議員の加藤シヅエは「体の良い捨子をした親の無責任な行動こそ、最悪の不道徳として責められるべき」と捉えつつ[81]、産児調節の普及・中絶の合法化・養子縁組の斡旋施設の充実化を訴えた[82]。石川ミユキが所属した助産婦団体の役員は、以下の声明を出している(いずれも一部抜粋・要約)[83]

「聖なる助産の使命に一層精進致したい」
日本助産婦会会長 風見すゞ
「世間に対し、又全国同業諸姉の名誉に対し何とも申しわけなき次第」「淀橋産院での同様の事件を聞き、遺憾に堪えない」
東京都助産婦会会長 市川いし
「産院は他の場所で分娩した嬰児を取扱うべきものではない」「産院はよい商売になる、というような間違った観念を一掃すべきである」「助産婦会館の一部に乳児院を設置したい」
東京都助産婦会副会長 原田靜江
「貰い子の多くは『蔭の子』であり、駆け付けた生みの親は数名しかおらず、それ以外の大部分の親に根本原因はある」「正しい性教育の普及、廃れた道義心の高揚が必要」「産院は、他の場所で生まれた子供を取り扱うべきものではない」「寿産院は、院主がこの仕事に興味を持ち出し、本格的に事業化したのが間違いの元」
日本助産婦会顧問・医学博士 鈴木三藏

結局、警察に出頭した貰い子の母親は30人程度だった[28]。2月24日、寿産院付近に立地する、葬儀屋で発見された遺骨35柱が埋葬された宗圓寺にて、事件の犠牲となった85柱の合同慰霊祭が行われた。前述の井出勇、新宿区長の岡田昇三、石川夫妻の幼い養子など約50人が参列した[84]

2月27日、東京都は対策として、乳児預り業を認可制とする「乳児委託取締条例」を制定した[85]厚生省は3月19日付で「助産婦の業務に関する広告取締令」を出し、「事情ある方御相談に応ず」「乳児預かります、秘密厳守」などの広告を禁止した[86][87][8]。更に、この事件を一因として7月に優生保護法が制定され、翌1949年の改正によって経済的理由による堕胎が認められるようになった[7][88][8][89]。一方、かねてより日本の医療の近代化および合理化を図り、助産婦・看護婦保健婦の統合を推し進めていたPHWは、この事件の発覚以降に一層圧力を強めた。結果的に1948年5月27日、助産婦の抵抗も甲斐なく、日本助産婦会は解散へと追い込まれた[67][† 23]

裁判

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6月2日、東京地裁にて刑事裁判(裁判長:江里口清雄[90])の第1回公判が開かれた。被告人全員が殺意を否認し、石川ミユキは助手に任せきりだったと監督不十分のみ認めた[91]。4日の公判では助手Kが、勤務していたのは平均7、8名で、増員を申し出ても認められなかったと証言した[92]

7日の公判では、1944年に石川猛が大阪地裁にて株券偽造により詐欺罪の実刑判決を受けた後、刑の執行を引き延ばすために偽造診断書を提出した事件について審理された。猛は以下の通り陳述した[93][94][95][96]

  1. 第一生命保険の保険外交員であるさいがわよしかど[† 24]に、偽造診断書の入手を依頼した[† 25]
  2. 寒河江を介して、弁護士の大滝亀代司(公判当時は衆議院議員)に執行延期への協力を依頼した
  3. 大滝は「政治的に動くより道は無い」と答え、司法大臣検事総長に対する運動費として5万円の請求を受け、猛は35,000円を渡した

18日、猛は「預り証の無い乳児がいつも1、2名いて、どの子がいつ死んだか正確にはわからない」と杜撰な管理体制を認めた[99]。23日、実地検証[100]。7月9日、前述の大滝が出廷し「寒河江を介して依頼を受け、診断書を当時の検察官に示して、執行延期の許可を伝えたが、司法大臣や検事総長に会った事は無い」「35,000円の手数料は2回にわたり受け取った、日付は記憶が無い」と証言した[101][† 26]

8月20日、石川夫妻と助手Kに保釈が認められた[104]。9月3日、論告求刑公判が開かれ、1946年4月から1948年1月まで84名が死亡、内27名は殺人の証拠が明確と検察は主張した[105][96]。その際の罪状と求刑、および10月11日に下された判決は、以下の表の通りである[106][1][2][† 27]

公判の様子
罪状 求刑 判決
石川ミユキ 殺人 懲役15年 懲役8年
石川猛 殺人・私文書偽造行使 懲役7年 懲役4年
寒河江義門 私文書偽造行使 懲役10月 懲役8月
中山四郎 医師法違反 (不明) 禁錮4月
産婆助手K 殺人 懲役3年 無罪

判決では、22名の殺害容疑は証拠不十分で無罪としつつ、5名(事件発覚後の死亡者を含む[30])については石川夫妻が共謀の上で、栄養失調に至らしめて殺害した不作為犯と認定した。一方で助手Kについては、度々ミルクの増量を訴えるなど最善を尽くし、犯意が無いので無罪とした[106][1][22]。石川夫妻は即日、東京高裁に控訴した[1]。16日、検察は夫妻のみを控訴し、他の被告人は判決が確定した[107][† 28]

1951年7月14日、東京高裁での控訴審において、検察は夫妻に対し一審と同じ求刑を行った[111]1952年4月28日、一審判決は破棄され、ミユキに懲役4年、猛に懲役2年の判決が言い渡された[112][† 29][† 30]。夫妻は上告したものの、1953年9月15日に最高裁によって棄却され、二審判決が確定した[39][114][112]

後日談

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事件発覚から1年経った時点で、保釈中の石川ミユキは寿産院(閉鎖)の家屋に住み続け、中の三畳三間の3部屋を貸し出そうとしていた[47][† 31]。更に発覚から21年後、前述の訴訟の終了から約16年後の1969年、ミユキ(当時73歳、記事中では仮名「川野たか」)への取材記事が週刊新潮に掲載された。彼女は「首を絞めるなど手を下してはいない」「出来るだけ食事も与え、医師にも診せた」「ミルクが少なかった訳ではないが、夫がミルクを近所の大豆入りミルクと勝手に交換した」と涙ながらに冤罪を訴えた。出所後は「成功して無実の罪を着せられた復讐をしよう」と奮起して石鹸・クリーム・魚の行商を始め、この時点では東京都内で不動産業を営んでいた。また、夫の猛とは死別しており、2年前には自らの大きな墓を建てたと明かし、「川野たか、ここにありですよ」と豪語している[46]1987年5月30日死亡、享年91(満90歳没)[116][117][118]

画像一覧

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参考文献

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いずれも私生児を寿産院に預け、事件発覚後に生き残った我が子を引き取った女性への取材記事[† 32]

  • 瀨川芙紗子「私はなぜ子を捨てねばならなかったか 『壽產院事件』の眞相を語る涙の手記」『婦女界』第37巻第1号、婦女界社、1949年、72-76頁。 
  • 靑木圭子(編)「昭和廿三年 解放された性の末路 第一話 寿産院に哭く」『りべらる』第9巻第13号、太虛堂書房、1954年12月、45-49頁。 

備考

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脚注

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注釈

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  1. ^ a b 実際には更に1名が含まれるが、奇形児であったために生育能力は無いとみなされ、被害者からは除外されている[59][21]
  2. ^ 事件発覚当初、死亡者は169人[3]または103人[4]と、事実に反する報道がなされた。後年の出版物や論文においても、度々この誤った人数が引用されている[5][6][7][8]
  3. ^ 1899年発布の産婆規則以降は「産婆」という呼称だったが、1947年5月2日に施行された勅令第188号により「助産婦」と改められた[10]。後に、2002年3月1日に施行された「保健婦助産婦看護婦の一部を改正する法律」(改正保助看法)により「助産師」と改称されている。
  4. ^ 事件を報道する新聞では「みゆき」というひらがな表記も見られるが、官公庁からの刊行物においては全て「ミユキ」とカタカナ表記で統一されている[11][12][2]
  5. ^ 1922年1月23日に一旦廃業を届け出たものの[17]1923年4月9日に再び産婆名簿へ登録し(登録番号:7220)、日本橋区蛎殻町で開業した[18]関東大震災で罹災したため、翌1924年に被害の小さかった牛込区に転居している[19][20]
  6. ^ 1919年の産婆名簿への登録時点では、ミユキは小丸姓のままで、2人は北豊島郡板橋町にて同居していた[13]1925年にミユキの改姓が産婆名簿に登録されている[14]
  7. ^ 事件発覚直後に発売された週刊朝日には「自由党から出た」と書かれているが[15]、選挙の公式記録には無所属と記載されている[26]
  8. ^ 戦時中の人的資源増強政策として、私生児が闇に葬られるのを防ぐため、それらの乳児を預かり、希望者に引き渡す事業を政府から認可された産院[27]
  9. ^ 現金の代わりに、当時は高価だったミシンなどの現物を受領する事もあった[29]
  10. ^ 1947年の大卒銀行員の初任給は220円[32]、1948年は500円[33]。一方、2020年消費者物価指数(102.3)は、1947年(5.4)の約19倍、1948年(9.9)の約10倍[34]
  11. ^ 1948年における、人口100人あたりの電話普及率は1.2%[36]
  12. ^ 埋葬許可証の数に、事件発覚後に死亡した2名(後述)は含まれない。
  13. ^ 長野県出身。1929年埼玉県警察の巡査として任官し、以来1944年まで県警の特別高等係および警保局保安課に所属。1946年5月から1948年3月まで早稲田警察署署長を務める。その後は警視庁の要職や北海道警察旭川方面本部長を歴任。最終的な役職は富山県警察本部長。退官後は国際情勢研究会の事務局長等を務めた[39][40][41][42]
  14. ^ 逮捕直後より、飛石久太郎が石川夫妻の弁護人に就いた[44]
  15. ^ 当初は配給米をごまかした詐欺の疑いによる別件逮捕を試みたが、裁判官から真意を疑われたため、逮捕状の請求を一旦取り下げた[45]
  16. ^ メートル法換算の数値は出典にはなく、独自に記載。
  17. ^ 事件発覚の翌1949年1月、実母が引き取った乳児の内1名は死亡、もう1名も結局は養子に出され、計3名の生存者が養親の下で安定した生活を送っている事が報道されている[47]
  18. ^ 1967年、消息不明の乳児(1947年8月19日生まれ)に対する「失踪に関する届出の催促」が官報に公告され[48]1968年6月25日付で失踪宣告が確定した[49]
  19. ^ 同日に帝銀事件が発生し、その翌日以降の新聞報道はこの事件に集中するようになり、反比例して寿産院事件の報道は激減した。
  20. ^ アメリカ国立公文書館には、いくつかの本事件の写真資料が保管されている[68]
  21. ^ この内、長谷川産院は寿産院事件の発覚後、名簿を焼却するなどして証拠隠滅を図った。だが、貰い子事業と並行して、医師と結託して十数件の堕胎を行っていた事が判明し(内1件の料金は1万円)、戦後初めて堕胎罪で起訴された[70]。その後、長谷川産院には8月10日に業務禁止命令が出された[74]
  22. ^ 犯人の女(当時37歳)は、16年前に貰い子(母親の大部分は水商売や未復員者の妻)の斡旋を始め、終戦以降は1人当たり2,500から8,000円で合計14名を預かり、総額9万円を得た。この内7名が栄養失調で死亡し、借りた産婆印で死産届を作成していた事により、死体遺棄および私文書偽造の容疑で同年9月8日に逮捕(後に起訴)された[75][76][77][78]
  23. ^ 1955年、助産婦6万人が日本看護協会(旧:日本助産婦看護婦保健婦協会)から脱会し、再び日本助産婦会を設立している。
  24. ^ 氏名の読みは、当時の英字新聞に依拠[97]。57歳[93](満56歳[97])、59歳[98]、54歳[1]と紙面ごとに年齢表記が異なり、正確な年齢は不明。
  25. ^ 7月7日、江里口裁判長は科学捜査研究所の写真課課長である高村巌に、偽造診断書の筆跡鑑定を行うよう命じた。その結果、寒河江は猛との共作と主張したものの、実際には猛の主張通り、診断書に記入された文字は全て寒河江の筆跡に一致すると断定された[96]
  26. ^ その後、大滝の弁護士名簿からの取消請求と、同名簿への登録請求が、1949年8月29日付で同時に行われている[102]。また、大滝が所属する第一東京弁護士会は、大滝への懲戒処分の是非を巡って、複数の会派(派閥)へと分裂に至った[103]
  27. ^ 朝日・毎日・読売の各紙(東京版)は、中山の判決には言及していない。
  28. ^ 助手Kは無罪が確定し、1950年1月1日に公布・施行された新刑事補償法が適用され、同年2月15日付で54,750円の刑事補償(1日あたり250円)の交付が決定された[108][109][12]。なお、同法が初めて適用された事例と報道されたが[108][109]、実際には3番目以降である[110]
  29. ^ 有罪の地裁判決を受けて控訴中の被告人が、サンフランシスコ講和条約発効による恩赦により、(発効日である)4月28日付で減刑された事例があった[113]。なお、後述の週刊新潮の取材記事では、ミユキはこの時の恩赦によって出所したと記述されているが[46]、この時点では判決が確定していなかったため、明白な誤りである。
  30. ^ 28日は講和条約の発効日であったため、翌日の朝日・毎日・読売の各紙(東京版)は独立(主権)回復の話題で一色となり、この二審判決は報道されなかった。
  31. ^ 1949年6月、かつて寿産院だったアパートの賃借人が、タイプライターの連続窃盗犯として逮捕される出来事が起きた[115]
  32. ^ アサヒグラフは1949年1月の時点で、実母が育てている寿産院の乳児はいないと報道しており[47]、これらの手記の信憑性は不明。

出典

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関連項目

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映像資料

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外部リンク

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