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「アウルス・アティリウス・カラティヌス」の版間の差分

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紀元前254年には[[グナエウス・コルネリウス・スキピオ・アシナ]]と共に執政官に選ばれた。両者共に二度目の執政官就任であった。ローマ艦隊は前年にアフリカから引き上げる際に嵐に遭遇して壊滅してしまっていたため、二人の執政官は合計で220隻からなる艦隊を再建した。両者共にシケリアに向かい、パノルムス(現在の[[パレルモ]])を占領することに成功した。ローマ帰国後はスキピオ・アシナのみが凱旋式を実施している(おそらくは、カラティヌスは既に紀元前257年に凱旋式を行っていたためと考えられる)<ref>The triumph is not mentioned in Smith's entry on Calatinus. See ''Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology'', v. 1, page 560</ref>。
紀元前254年には[[グナエウス・コルネリウス・スキピオ・アシナ]]と共に執政官に選ばれた。両者共に二度目の執政官就任であった。ローマ艦隊は前年にアフリカから引き上げる際に嵐に遭遇して壊滅してしまっていたため、二人の執政官は合計で220隻からなる艦隊を再建した。両者共にシケリアに向かい、パノルムス(現在の[[パレルモ]])を占領することに成功した。ローマ帰国後はスキピオ・アシナのみが凱旋式を実施している(おそらくは、カラティヌスは既に紀元前257年に凱旋式を行っていたためと考えられる)<ref>The triumph is not mentioned in Smith's entry on Calatinus. See ''Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology'', v. 1, page 560</ref>。


紀元前249年、[[ドレパナ沖の海戦]]で[[プブリウス・クラウディウス・プルケル]]が敗北し、それに続いて[[ルキウス・ユニウス・プッルス]]の艦隊も嵐とカルタゴ軍の攻撃で壊滅した。プルケルは120,000[[アス (青銅貨)|アス]]の罰金を科され、プッルスは自殺した。軍の指揮を執る執政官がいなくなったため、プルケルはマルクス・クラウディウス・グリキアを独裁官に指名したが、グリキアはプルケルの元解放奴隷であり元老院議員でもなかったために直ちに解任された。代わってカラティヌスが独裁官に選出され、軍を率いてシケリアに向かった。これは独裁官がイタリア半島外に出征した最初の例であった。しかし、シケリアで特筆すべきような勝利は得られなかった。
紀元前249年、[[ドレパナ沖の海戦]]で[[プブリウス・クラウディウス・プルケル (紀元前249年の執政官)|プブリウス・クラウディウス・プルケル]]が敗北し、それに続いて[[ルキウス・ユニウス・プッルス]]の艦隊も嵐とカルタゴ軍の攻撃で壊滅した。プルケルは120,000[[アス (青銅貨)|アス]]の罰金を科され、プッルスは自殺した。軍の指揮を執る執政官がいなくなったため、プルケルはマルクス・クラウディウス・グリキアを独裁官に指名したが、グリキアはプルケルの元解放奴隷であり元老院議員でもなかったために直ちに解任された。代わってカラティヌスが独裁官に選出され、軍を率いてシケリアに向かった。これは独裁官がイタリア半島外に出征した最初の例であった。しかし、シケリアで特筆すべきような勝利は得られなかった。


紀元前247年にはケンソルに選出され、[[国勢調査|ケンスス]]の結果成年人口は241,212人であった。<!--ケンソルの再選は前265年に禁止されており、有名言行録にもケンソルとは書かれていない-->紀元前241年には[[アエガテス諸島沖の海戦]]の勝利に対する凱旋式を、[[プロコンスル]]の[[ガイウス・ルタティウス・カトゥルス]]とプロプラエトルの[[クィントゥス・ウァレリウス・ファルト]]のどちらが行うかを調停し、カラティヌスはカトゥルスを選んでいる<ref>[[:en:Valerius Maximus|Valerius Maximus]] ii. 8. § 2., as cited in [[:en:Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology|Smith]])</ref>。但し、ローマ市民は実際に艦隊を率いた(カトゥルスは怪我のため海戦には参加していない)ファルトの栄誉を讃えることも望んだため、結局はファルトも凱旋式を行った。
紀元前247年にはケンソルに選出され、[[国勢調査|ケンスス]]の結果成年人口は241,212人であった。<!--ケンソルの再選は前265年に禁止されており、有名言行録にもケンソルとは書かれていない-->紀元前241年には[[アエガテス諸島沖の海戦]]の勝利に対する凱旋式を、[[プロコンスル]]の[[ガイウス・ルタティウス・カトゥルス]]とプロプラエトルの[[クィントゥス・ウァレリウス・ファルト]]のどちらが行うかを調停し、カラティヌスはカトゥルスを選んでいる<ref>[[:en:Valerius Maximus|Valerius Maximus]] ii. 8. § 2., as cited in [[:en:Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology|Smith]])</ref>。但し、ローマ市民は実際に艦隊を率いた(カトゥルスは怪我のため海戦には参加していない)ファルトの栄誉を讃えることも望んだため、結局はファルトも凱旋式を行った。

2020年9月17日 (木) 08:07時点における版


アウルス・アティリウス・カラティヌス
A. Atilius A.f. C.n. Calatinus
出生 不明
死没 紀元前216年以前
出身階級 プレブス
氏族 アティリウス氏族
官職 執政官(紀元前258年、紀元前254年)
法務官(紀元前257年)
独裁官(紀元前249年)
監察官(紀元前247年)
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アウルス・アティリウス・カラティヌスラテン語: Aulus Atilius Calatinus (Caiatinusとも)紀元前216年以前に死亡)は共和政ローマ中期の政治家、将軍である。紀元前249年独裁官(ティクタトル)に選出されシケリア(シチリア)に派遣されたが、これは独裁官がイタリア半島外に出征した最初の例であった。カラティヌスは紀元前258年紀元前254年の二度執政官(コンスル)に選ばれており、紀元前257年には凱旋式を挙行する名誉を得、同年にはプラエトル(法務官)に就任している。紀元前247年にはケンソルに就任した。紀元前216年の時点で、紀元前241年のケンソルであったマルクス・ファビウス・ブテオが最高齢の元ケンソルと記述されていることから、彼より年長であったと思われるカラティヌスは、それより以前に死亡していたと思われる。

経歴

ガイウス・スルピキウス・パテルクルスと共に紀元前258年の執政官に選出され、カラティヌスはシケリア(シチリア)に派遣された[1]。この最初の執政官としての任期中には、いくつかのシケリア都市を奪取するという成功を収めたものの、カルタゴ軍の待ち伏せに合い、トリブヌス・ミリトゥム(高級将校)であるマルクス・カルプルニウス・フラマの活躍によって何とか脱出することができた。しかし、翌年にローマに帰還した際には凱旋式を挙行する名誉を得、さらに同年のプラエトルに就任している。

紀元前254年にはグナエウス・コルネリウス・スキピオ・アシナと共に執政官に選ばれた。両者共に二度目の執政官就任であった。ローマ艦隊は前年にアフリカから引き上げる際に嵐に遭遇して壊滅してしまっていたため、二人の執政官は合計で220隻からなる艦隊を再建した。両者共にシケリアに向かい、パノルムス(現在のパレルモ)を占領することに成功した。ローマ帰国後はスキピオ・アシナのみが凱旋式を実施している(おそらくは、カラティヌスは既に紀元前257年に凱旋式を行っていたためと考えられる)[2]

紀元前249年、ドレパナ沖の海戦プブリウス・クラウディウス・プルケルが敗北し、それに続いてルキウス・ユニウス・プッルスの艦隊も嵐とカルタゴ軍の攻撃で壊滅した。プルケルは120,000アスの罰金を科され、プッルスは自殺した。軍の指揮を執る執政官がいなくなったため、プルケルはマルクス・クラウディウス・グリキアを独裁官に指名したが、グリキアはプルケルの元解放奴隷であり元老院議員でもなかったために直ちに解任された。代わってカラティヌスが独裁官に選出され、軍を率いてシケリアに向かった。これは独裁官がイタリア半島外に出征した最初の例であった。しかし、シケリアで特筆すべきような勝利は得られなかった。

紀元前247年にはケンソルに選出され、ケンススの結果成年人口は241,212人であった。紀元前241年にはアエガテス諸島沖の海戦の勝利に対する凱旋式を、プロコンスルガイウス・ルタティウス・カトゥルスとプロプラエトルのクィントゥス・ウァレリウス・ファルトのどちらが行うかを調停し、カラティヌスはカトゥルスを選んでいる[3]。但し、ローマ市民は実際に艦隊を率いた(カトゥルスは怪我のため海戦には参加していない)ファルトの栄誉を讃えることも望んだため、結局はファルトも凱旋式を行った。

カラティヌスはフォルム・ホリトリウムのスペース神(若者の希望と安全を司る女神)の神殿とカピトリヌスの丘のフィデース神(信義・忠誠・誠実・信仰の女神)の神殿を献納したと言われている[4]

脚注

  1. ^ Polybius i. 24, as cited in Smith.
  2. ^ The triumph is not mentioned in Smith's entry on Calatinus. See Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology, v. 1, page 560
  3. ^ Valerius Maximus ii. 8. § 2., as cited in Smith)
  4. ^ Smith provides the bare facts: "Beyond the fact that he built a temple of Spes nothing further is known about him. (Cic. Ue Ley. ii. 11, De Nat. Deor., ii. 23; Tacit. Ann." Are the details from Munzer?

参考資料

  •  この記事には現在パブリックドメインである次の出版物からのテキストが含まれている: Smith, William, ed. (1870). "Calatinus, A. Atilius". Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology (英語). Vol. 1. p. 560.

関連項目

公職
先代
ルキウス・コルネリウス・スキピオ
ガイウス・アクィッリウス・フロルス
ローマ執政官(コンスル)
紀元前258年
同僚
ガイウス・スルピキウス・パテルクルス
次代
ガイウス・アティリウス・レグルス・セッラヌス
グナエウス・コルネリウス・ブラシオ
先代
マルクス・アエミリウス・パウッルス
セルウィウス・フルウィウス・パエティヌス・ノビリオル
ローマ執政官(コンスル)
紀元前254年
同僚
グナエウス・コルネリウス・スキピオ・アシナ
次代
グナエウス・セルウィリウス・カエピオ
ガイウス・センプロニウス・ブラエスス