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「興津弥五右衛門の遺書」の版間の差分

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『'''興津弥五右衛門の遺書'''』(おきつやごえもんのいしょ)は、[[森外]]の[[短編小説]]。[[1912年]]の[[乃木希典]]の[[殉死]]に衝撃を受けて乃木の死すぐ書かれたもの外が[[歴史小説]]を書く端緒となった作品と言われている。
『'''興津弥五右衛門の遺書'''』(おきつやごえもんのいしょ)は、[[森外]]の[[短編小説]]。[[江戸時代]]の随筆「[[翁草]]」中の「細川家の香木」を素材とし、[[1912年]]の[[乃木希典]]の[[殉死]]後に初稿が発表され、翌年改作された。外が[[歴史小説]]を書く端緒となった作品と言われている。


==経緯==
==経緯==
1912年9月13日に行なわれた[[明治天皇]]の[[大喪の礼]]に出席した帰りに乃木大将の殉死の報を受ける。新聞が乃木の殉死を否定的に報じる一方、乃木の遺書はなかなか公表されず、されたものは一部改竄されていた。そのような騒動の中、外は同作の執筆に取り掛かり、9月18日に[[青山斎場]]で行なわれた乃木の葬儀の帰りに[[中央公論]]に原稿を渡した<ref name=repo1>[http://ci.nii.ac.jp/els/110004645643.pdf?id=ART0007365546&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1377230199&cp= 鴎外・意地論考]山崎一穎、跡見学園女子大学紀要 7, 一-一四, 1974-03-15</ref>。翌10月に掲載されたが、史実に関する資料整理を行なったうえで、翌1913年(大正2年)春に改作した。
1912年9月13日に行なわれた[[明治天皇]]の[[大喪の礼]]に出席した帰りに乃木大将の殉死の報を受ける。一般国民多くは殉死を賛美する一方、報道機関や知識人の一部には否定的な論調があり、また乃木の遺書はなかなか公表されず、公表されたものは一部改竄されていた。そのような騒動の中、外は同作の執筆に取り掛かり、9月18日に[[青山斎場]]で行なわれた乃木の葬儀の帰りに[[中央公論]]に原稿を渡した<ref name=repo1>{{Cite journal |和書 |author=山崎一穎 |title=外・意地論考 |journal=跡見学園女子大学紀要 |issn=03899543 |publisher=跡見学園女子大学 |year=1974 |issue=7 |pages=1-14 |url=http://id.nii.ac.jp/1612/00000071/ |naid=110004645643}}</ref>。翌10月に掲載されたが、史実に関する資料整理を行なったうえで、翌1913年(大正2年春に改作した。


本作執筆後の半年の間に、同様の歴史小説『[[阿部一族]]』と『[[佐橋甚五郎]]』を執筆し、[[1913年]]6月に3作をまとめた歴史小説集『意地』を出版した<ref name="repo1"/>。
本作執筆後の半年の間に、同様の歴史小説『[[阿部一族]]』と『[[佐橋甚五郎]]』を執筆し、[[1913年]]6月に3作をまとめた歴史小説集『意地』を出版した<ref name="repo1"/>。


==内容==
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長い間死に処を求めていた弥五右衛門が先君の十回忌にその後を追って自殺した際の遺書として書かれている。
長い間死に処を求めていた弥五右衛門が先君の十回忌にその後を追って自殺した際の遺書として書かれている。


==脚注==
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==関連項目==
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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* {{青空文庫|000129|45209|新字新仮名|興津弥五右衛門の遺書}}
* {{青空文庫|000129|48209|新字新仮名|興津弥五右衛門の遺書(初稿)}}
*[http://www.geocities.jp/kyoketu/6890.html 現代語訳] 四国の山なみ
*{{国立国会図書館のデジタル化資料|947464|意地}}
*[http://ci.nii.ac.jp/els/110000192789.pdf?id=ART0000558962&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1377226858&cp= 森鴎外の士道 : 「興津弥五右衛門の遺書」]松井利彦、東海学園大学紀要 22, 94-104, 1987-07-20
* [https://web.archive.org/web/20121115000558/http://www.geocities.jp/kyoketu/6890.html 現代語訳] 四国の山なみ
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2022年4月5日 (火) 07:32時点における最新版

興津弥五右衛門の遺書』(おきつやごえもんのいしょ)は、森鷗外短編小説江戸時代の随筆「翁草」中の「細川家の香木」を素材とし、1912年乃木希典殉死直後に初稿が発表され、翌年改作された。鷗外が歴史小説を書く端緒となった作品と言われている。

経緯

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1912年9月13日に行なわれた明治天皇大喪の礼に出席した帰りに乃木大将の殉死の報を受ける。一般国民の多くは殉死を賛美する一方、報道機関や知識人の一部には否定的な論調があり、また乃木の遺書はなかなか公表されず、公表されたものは一部改竄されていた。そのような騒動の中、鷗外は同作の執筆に取り掛かり、9月18日に青山斎場で行なわれた乃木の葬儀の帰りに中央公論に原稿を渡した[1]。翌10月に掲載されたが、史実に関する資料整理を行なったうえで、翌1913年(大正2年)春に改作した。

本作執筆後の半年の間に、同様の歴史小説『阿部一族』と『佐橋甚五郎』を執筆し、1913年6月に3作をまとめた歴史小説集『意地』を出版した[1]

内容

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長い間死に処を求めていた弥五右衛門が先君の十三回忌にその後を追って自殺した際の遺書として書かれている。

脚注

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  1. ^ a b 山崎一穎「鷗外・「意地」論考」『跡見学園女子大学紀要』第7号、跡見学園女子大学、1974年、1-14頁、ISSN 03899543NAID 110004645643 

関連項目

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  • 高桐院 - 弥五右衛門の墓がある。

外部リンク

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