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「足助陣屋」の版間の差分

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'''足助陣屋'''(あすけじんや)は[[三河国]][[加茂郡]][[愛知県]][[豊田市]]足助町
'''足助陣屋'''(あすけじんや)は[[三河国]][[加茂郡 (三河国)|加茂郡]]足助(現[[愛知県]][[豊田市]][[足助町 (豊田市)|足助町]])にあった[[旗本]][[本多氏]]の陣屋である。
にあった[[足助藩]]の藩庁である。


== 概要 ==
== 概要 ==
[[近江国]][[膳所藩]]主(ぜぜはんゅ)[[本多忠義]]の5男[[本多忠周]](ただちか)[[天和]]元年([[1681年]])[[陸奥国]][[白河]]から三河国加茂郡に5千石分知され[[陣屋]]を構えた事から始まる。時代は5代将軍[[徳川綱吉]]の世であり、その後[[丹波国]]で2千石加増をされ、[[寺社奉行]]に任ぜられ3千石加増を受けると諸侯に列し足助藩を立藩した。
[[慶安]]2年([[1649年]])に[[越後国]][[村上藩]]から12万石で[[陸奥国]][[白河藩]]に加増入封[[本多忠義]]の5男[[本多忠周]](ただちか)が、[[天和 (日本)|天和]]元年([[1681年]])三河国加茂郡に5千石分知され[[陣屋]]を構えた事から始まる。5代将軍[[徳川綱吉]]のの下、その後忠周は[[丹波国]]で2千石加増をされ、さらに[[天和 (日本)|天和]]3年([[1683年]])に[[寺社奉行]]に任ぜられ3千石加増を受けた結果、石高1万石で諸侯に列し[[足助藩]]を立藩した。しかし、[[貞享]]4年([[1687年]])に同じく寺社奉行であった[[相模国]][[深見藩]]主[[坂本重治]]と共に将軍綱吉から職務怠慢を理由に奉行職を免ぜられ、[[元禄]]2年([[1689年]])6月には加増分3千石が没収されたために再び7千石の[[交代寄合]][[旗本]]として[[明治維新]]を迎えた。

[[貞享]]4年([[1687年]])に同じく[[相模国]][[深見藩]]主[[坂本重治]]と共に将軍綱吉から
勤務怠慢により、寺社奉行を免ぜられると[[元禄]]2年([[1689年]])6月には加増分3千石が没収されると再び7千石の[[交代寄合]][[旗本]]として[[明治維新]]を迎えた。


陣屋は表門を入ると、左手に地方、右手に役所、その先に居館があった。また、左奥に稲荷社があった。
陣屋は表門を入ると、左手に地方、右手に役所、その先に居館があった。また、左奥に稲荷社があった。
[[明治]]2年([[1869年]])から同4年([[1871年]])まで陣屋の建物は[[伊那郡]][[足助庁]]として使用され、同16年([[1883年]])には東加茂郡役所が新築された。
[[明治]]2年([[1869年]])から同4年([[1871年]])まで陣屋の建物は[[伊那郡]][[足助庁]]として使用され、同16年([[1883年]])には東加茂郡役所が新築された。後に愛知県足助農林振興センターとなったがそれも取り壊され、2023年(令和5年)現在、陣屋跡は更地となり遺構はない。敷地入口に陣屋の説明と見取図の看板が立てられているのみである

現在、陣屋跡は愛知県足助事務所となっていて、遺構はない。ただ、事務所入口に陣屋の説明と見取図の看板が立てられているのみである。
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[[Category:現存しない陣屋]]
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2023年4月10日 (月) 06:30時点における最新版

陣屋跡
(2023年(令和5年)2月)

足助陣屋(あすけじんや)は三河国加茂郡足助(現愛知県豊田市足助町)にあった旗本本多氏の陣屋である。

概要

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慶安2年(1649年)に越後国村上藩から12万石で陸奥国白河藩に加増入封した本多忠義の5男本多忠周(ただちか)が、天和元年(1681年)三河国加茂郡に5千石分知されて陣屋を構えた事から始まる。5代将軍徳川綱吉の治世の下、その後忠周は丹波国で2千石加増をされ、さらに天和3年(1683年)に寺社奉行に任ぜられて3千石加増を受けた結果、石高1万石で諸侯に列し足助藩を立藩した。しかし、貞享4年(1687年)に同じく寺社奉行であった相模国深見藩坂本重治と共に将軍綱吉から職務怠慢を理由に奉行職を免ぜられ、元禄2年(1689年)6月には加増分3千石が没収されたために再び7千石の交代寄合旗本として明治維新を迎えた。

陣屋は表門を入ると、左手に地方、右手に役所、その先に居館があった。また、左奥に稲荷社があった。 明治2年(1869年)から同4年(1871年)まで陣屋の建物は伊那郡足助庁として使用され、同16年(1883年)には東加茂郡役所が新築された。後に愛知県足助農林振興センターとなったがそれも取り壊され、2023年(令和5年)現在、陣屋跡は更地となり遺構はない。敷地入口に陣屋の説明と見取図の看板が立てられているのみである。