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'''ルーラント・サーフェリー'''('''Roelant Savery''' [[1576年|1576]]/[[1578年]]-[[1639年]][[2月25日]])は、[[オランダ]]の画家。


== 生涯 ==
コルトレイクの画家一族に生まれる。[[オランダ独立戦争|独立戦争]]の戦火を逃れて[[1585年]]にハールレムに移住し、やはり画家として活動していた兄・ヤーコ([[1565年|1565]]~[[1603年|1603]])の弟子となる。兄の死後、[[ルドルフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ2世]]に招かれて[[1604年]]にプラハに移り宮廷画家として仕え皇帝の死後は[[ミュンヘン]]、[[ザルツブル]]、[[ウィーン]]を転々としたのち[[ユトレヒト]]に落ち着き、そこで工房構えて余生を送った。
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1620年代にはユトレヒトでも最も成功した画家となっていたが、次第に生活上でトラブル([[アルコール使用障害]]と思われるが詳細は不明)を抱えるようになってしまう。1630年代後半まで弟子達を教えていたが、1638年に破産し、その半年後に亡くなった。
鳥獣画を得意とし、現在では絶滅した[[ドードー]]を描いたことでも知られている。また、風景画にも優れ、[[神聖ローマ帝国]]に仕えていた頃は、チロル地方へと風景描写に派遣されることもあった。


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== ギャラリー ==
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[[Category:オランダの画家|さふえりるらんと]]
ファイル:Roelant Savery - Landscape with Birds - WGA20885.jpg|『鳥のいる風景』(1628)<br>[[美術史美術館]]
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Image:Savery - Hof eines Bauernhauses.jpg|『農家の庭』 (1610年)<br>[[プーシキン美術館]]
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Image:Roelant Savery - Large flower piece with Kaiser's crown.jpg|『ブーケ』 (1624年)
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== 脚注 ==
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[[Category:16世紀オランダの画家]]
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2023年6月23日 (金) 11:33時点における最新版

ルーラント・サーフェリー
Roelant Savery
生誕 1576年
コルトレイク
死没 1639年2月25日
ユトレヒト
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ルーラント・サーフェリーRoelant Savery 15761578年1639年2月25日)は、オランダの画家。

生涯

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コルトレイクの画家一族に生まれる。八十年戦争の戦火を逃れて1585年ハールレムに移住し、やはり画家として活動していた兄・ヤーコブ・サーフェリー15651603)の弟子となる。兄の死後、ルドルフ2世に招かれて1604年にプラハに移り宮廷画家として仕える。皇帝の死後はミュンヘンザルツブルクウィーンを転々としたのち、1618年にユトレヒトに落ち着いた。1621年には大きな庭のある家を購入、サーフェリーの家はバルタザール・ファン・デル・アストアンブロジウス・ボスハールトなど多くの画家が集う場所となった。サーフェリーの弟子にはアラールト・ファン・エーフェルディンヘンがいる。

1620年代にはユトレヒトでも最も成功した画家となっていたが、次第に生活上でトラブル(アルコール使用障害と思われるが詳細は不明)を抱えるようになってしまう。1630年代後半まで弟子達を教えていたが、1638年に破産し、その半年後に亡くなった。

鳥獣画を得意とし、現在では絶滅したドードーを描いたことでも知られている[1]。また、風景画にも優れ、神聖ローマ帝国に仕えていた頃は、チロル地方へと風景描写に派遣されることもあった。

ギャラリー

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脚注

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  1. ^ 当時はドードーの絶滅前で、モーリシャス島で捕獲されたドードーが生きたままヨーロッパに持ち込まれていた。