コンテンツにスキップ

「フリードリヒ2世 (ブランデンブルク選帝侯)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
m編集の要約なし
 
(17人の利用者による、間の29版が非表示)
1行目: 1行目:
{{基礎情報 君主
'''フリードリヒ2世'''(Friedrich II, [[1413年]][[11月19日]] - [[1471年]][[2月10日]])は[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク選帝侯]](在位:[[1440年]] - 1471年)。選帝侯[[フリードリヒ1世 (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ1世]]と[[バイエルン大公|下バイエルン=ランツフート公]]フリードリヒの娘エリーザベトの次男。鉄歯侯と呼ばれる。
| 人名 = フリードリヒ2世
| 各国語表記 = Friedrich II.
| 君主号 = [[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク選帝侯]]
| 画像 = 1440 friedrich II.jpg
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 在位 = [[1440年]] - [[1470年]]
| 戴冠日 =
| 就任式 =
| 祝祷式 =
| 即位式 =
| 別号 =
| 配偶号 =
| 在位2 =
| 戴冠日2 =
| 配偶別号 =
| 全名 =
| 出生日 = {{生年月日と年齢|1413|11|19|no}}
| 生地 = {{HRR}}<br>[[File:Flag of Brandenburg (1340-1657).svg|border|25px]] [[ブランデンブルク辺境伯領]]、タンガーミュンデ
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1413|11|19|1471|2|10}}
| 没地 = {{HRR}}<br>[[File:Flag of Brandenburg (1340-1657).svg|border|25px]] [[ブランデンブルク辺境伯領]]、ノイシュタット・アン・デア・アイシュ
| 埋葬日 =
| 埋葬地 = {{HRR}}<br>[[File:Flag of Brandenburg (1340-1657).svg|border|25px]] [[ブランデンブルク辺境伯領]]、[[ハイルスブロン]]修道院
| 継承者 =
| 継承形式 =
| 配偶者1 = [[カタリーナ・フォン・ザクセン (1421-1476)|カタリーナ・フォン・ザクセン]]
| 子女 = [[ドロテア・フォン・ブランデンブルク (1446-1519)|ドロテア]]<br>[[マルガレーテ・フォン・ブランデンブルク (1450-1489)|マルガレーテ]]<br>ヨハン<br>エラスムス
| 王家 = [[ホーエンツォレルン家]]
| 王朝 =
| 王室歌 =
| 父親 = [[フリードリヒ1世 (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ1世]]
| 母親 = [[エリーザベト・フォン・バイエルン (1383-1442)|エリーザベト・フォン・バイエルン]]
| 宗教 =
| サイン =
}}
[[ファイル:Friedrich II_300f.jpg|thumb|フリードリヒ2世]]
'''フリードリヒ2世'''(Friedrich II., [[1413年]][[11月19日]] - [[1471年]][[2月10日]])は[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク]][[ブランデンブルク統治者の一覧|選帝侯]](在位:[[1440年]] - 1470年)。[[フリードリヒ1世 (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ1世]]と[[バイエルン大公|下バイエルン=ランツフート公]][[フリードリヒ (バイエルン公)|フリードリヒ]]の娘[[エリーザベト・フォン・バイエルン (1383-1442)|エリーザベト]]の次男。[[ヨハン (ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯)|ヨハン錬金術伯]]の弟、[[アルブレヒト・アヒレス (ブランデンブルク選帝侯)|アルブレヒト・アヒレス]]の兄。自領の統治に専念し、[[ベルリン]]の抵抗を排除し手に入れたその強い意志から、鉄歯侯と呼ばれる<ref>岡地、付録p. 56</ref>


== 生涯 ==
1441年、[[ザクセン君主一覧|ザクセン選帝侯]][[フリードリヒ1世 (ザクセン選帝侯)|フリードリヒ1世]]の娘カタリーナと結婚した。2男2女が生まれたが、息子はいずれも成人に達せず早世したため、弟[[アルブレヒト・アヒレス]]が相続人となった。
1440年に父が死去した際、兄ヨハンが[[錬金術]]に熱中し政治的に無能であったため、次男であったが選帝侯位を継承した<ref>岡地、付録p. 64</ref>。[[1443年]]、[[ベルリン]]に[[ベルリン王宮|新宮殿]]を建設したが、これに反対する住民の反乱を鎮圧、[[1451年]]にこの宮殿に入った。背景には、中央集権を進めるフリードリヒ2世と特権の剥奪を恐れた市民の対立もあったとされる。[[1470年]]に退位、弟のアルブレヒト・アヒレスに選帝侯位を譲り、1年後に死去した。


[[1421年]]、[[ポーランド国王|ポーランド王]][[ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ2世]]の娘[[ヤドヴィガ・ヤギェロンカ (1408-1431)|ヤドヴィガ]]と婚約したが、[[1431年]]にヤドヴィガが死去したため話は立ち消えとなった。[[1441年]]、[[ザクセン君主一覧|ザクセン選帝侯]][[フリードリヒ1世 (ザクセン選帝侯)|フリードリヒ1世]]の娘[[カタリーナ・フォン・ザクセン (1421-1476)|カタリーナ]]と結婚した。2男2女が生まれたが、息子はいずれも成人に達せず早世したため、弟アルブレヒト・アヒレスが相続人となった。
* [[ドロテア・フォン・ブランデンブルク (1446-1519)|ドロテア]](1446年 - 1519年) - 1464年にザクセン=ラウエンブルク公[[ヨハン5世 (ザクセン=ラウエンブルク公)|ヨハン5世]]と結婚。
* [[マルガレーテ・フォン・ブランデンブルク (1450-1489)|マルガレーテ]](1450年 - 1489年) - 1477年に[[ポメラニア公国|ポンメルン]]公[[ボギスラフ10世 (ポメラニア公)|ボギスラフ10世]]と結婚。
* ヨハン(1452年 - 1454年)
* エラスムス(1453年 - 1465年)


== 脚注 ==
{{先代次代|[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク選帝侯]]|1440 - 1471|[[フリードリヒ1世 (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ1世]]|[[アルブレヒト・アヒレス]]}}
{{Reflist}}

== 参考文献 ==
* 岡地稔 『あだ名で読む中世史』 八坂書房、2018年

{{先代次代|[[ブランデンブルク統治者の一覧|ブランデンブルク選帝侯]]|1440 - 1470年|[[フリードリヒ1世 (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ1世]]|[[アルブレヒト・アヒレス (ブランデンブルク選帝侯)|アルブレヒト・アヒレス]]}}


{{History-stub}}
{{History-stub}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ふりとりひ2}}
{{DEFAULTSORT:ふりとりひ2}}
[[Category:ブランデンブルク選帝侯]]
[[Category:ブランデンブルク選帝侯]]
[[Category:ホーエンツォレルン家|ふりとりひ1413]]
[[Category:ホーエンツォレルン家ブランデンブルク系]]
[[Category:1413年生]]
[[Category:1413年生]]
[[Category:1471年没]]
[[Category:1471年没]]

[[de:Friedrich II. (Brandenburg)]]
[[en:Frederick II, Elector of Brandenburg]]
[[fr:Frédéric II de Brandebourg]]
[[it:Federico II di Brandeburgo]]
[[nl:Frederik II van Brandenburg]]
[[pl:Fryderyk II Żelazny]]

2023年10月29日 (日) 06:06時点における最新版

フリードリヒ2世
Friedrich II.
ブランデンブルク選帝侯
在位 1440年 - 1470年

出生 (1413-11-19) 1413年11月19日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ブランデンブルク辺境伯領、タンガーミュンデ
死去 (1471-02-10) 1471年2月10日(57歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ブランデンブルク辺境伯領、ノイシュタット・アン・デア・アイシュ
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ブランデンブルク辺境伯領ハイルスブロン修道院
配偶者 カタリーナ・フォン・ザクセン
子女 ドロテア
マルガレーテ
ヨハン
エラスムス
家名 ホーエンツォレルン家
父親 フリードリヒ1世
母親 エリーザベト・フォン・バイエルン
テンプレートを表示
フリードリヒ2世

フリードリヒ2世(Friedrich II., 1413年11月19日 - 1471年2月10日)は、ブランデンブルク選帝侯(在位:1440年 - 1470年)。フリードリヒ1世下バイエルン=ランツフート公フリードリヒの娘エリーザベトの次男。ヨハン錬金術伯の弟、アルブレヒト・アヒレスの兄。自領の統治に専念し、ベルリンの抵抗を排除し手に入れたその強い意志から、鉄歯侯と呼ばれる[1]

生涯

[編集]

1440年に父が死去した際、兄ヨハンが錬金術に熱中し政治的に無能であったため、次男であったが選帝侯位を継承した[2]1443年ベルリン新宮殿を建設したが、これに反対する住民の反乱を鎮圧、1451年にこの宮殿に入った。背景には、中央集権を進めるフリードリヒ2世と特権の剥奪を恐れた市民の対立もあったとされる。1470年に退位、弟のアルブレヒト・アヒレスに選帝侯位を譲り、1年後に死去した。

1421年ポーランド王ヴワディスワフ2世の娘ヤドヴィガと婚約したが、1431年にヤドヴィガが死去したため話は立ち消えとなった。1441年ザクセン選帝侯フリードリヒ1世の娘カタリーナと結婚した。2男2女が生まれたが、息子はいずれも成人に達せず早世したため、弟アルブレヒト・アヒレスが相続人となった。

脚注

[編集]
  1. ^ 岡地、付録p. 56
  2. ^ 岡地、付録p. 64

参考文献

[編集]
  • 岡地稔 『あだ名で読む中世史』 八坂書房、2018年
先代
フリードリヒ1世
ブランデンブルク選帝侯
1440年 - 1470年
次代
アルブレヒト・アヒレス