「西平和大橋」の版間の差分
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|都市=[[広島県]][[広島市]]<br />左岸:[[中区 (広島市)|中区]][[中島町 (広島市)|中島町]] - 右岸:中区[[十日市町・土橋|土橋町]] |
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|建設=1873年 木橋、1922年 RC橋、1952年 鋼橋 |
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| 2=1930年ごろの広島市。本川最下流の橋から上流へ2つ目の橋が新大橋。 |
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'''西平和大橋'''(にしへいわおおはし)は、[[広島県]][[広島市]]の本川([[旧太田川]])にかかる[[橋|道路橋]]。 |
'''西平和大橋'''(にしへいわおおはし)は、[[広島県]][[広島市]]の本川([[旧太田川]])にかかる[[橋|道路橋]]。 |
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ここより東にある[[平和大橋 (広島市)|平和大橋]]とは対の関係にあ |
ここより東にある[[平和大橋 (広島市)|平和大橋]]とは対の関係にあり、[[戦後]]の歴史およびデザイン構想など詳細は平和大橋の項目を参照。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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[[平和大通り]]筋にかかる橋であり、[[広島平和記念公園]]の南西側に位置する。西側に[[緑大橋]]、上流側に[[本川橋]]、下流側に[[中島神崎橋]]がある。 |
[[平和大通り]]筋にかかる橋であり、[[広島平和記念公園]]の南西側に位置する。関連する碑などは平和大橋と対になる位置にあり、川のほとりに本川(旧太田川)の由来を記した碑が建てられている。西側に[[緑大橋]]、上流側に[[本川橋]]、下流側に[[中島神崎橋]]がある。西詰には[[中国新聞]]本社ビル、少し行くと[[広島電鉄江波線]]が通る寺町通りへと続く。最寄の駅は広電[[土橋停留場]]。 |
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元々この地に架けられていた「新大橋」が、1945年に[[広島市への原子爆弾投下|原爆被災]]およびその後の[[水害]]により落橋してしまったため、1952年に架け直されたものである。なお新大橋は、[[こうの史代]]の[[漫画]]作品「[[夕凪の街 桜の国|夕凪の街]]」に、ヒロインが「川にぎっしり浮いた死体」を目撃した場所として登場する橋である。 |
元々この地に架けられていた「新大橋」が、1945年に[[広島市への原子爆弾投下|原爆被災]]およびその後の[[水害]]により落橋してしまったため、1952年に架け直されたものである。なお新大橋は、[[こうの史代]]の[[漫画]]作品「[[夕凪の街 桜の国|夕凪の街]]」に、ヒロインが「川にぎっしり浮いた死体」を目撃した場所として登場する橋である。 |
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独特な形状をもつ欄干のデザインは、[[日系人|日系]][[アメリカ合衆国#国民|アメリカ人]][[彫刻家]]の[[イサム・ノグチ]]によるもの(詳細は[[平和大橋 (広島市) |
独特な形状をもつ欄干のデザインは、[[日系人|日系]][[アメリカ合衆国#国民|アメリカ人]][[彫刻家]]の[[イサム・ノグチ]]によるもの<ref name="yomiuri20211220">{{Cite web|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20211220-OYT1T50068/|title=イサム・ノグチ設計の欄干が破損…橋の上で10代男性3人が乗った車が事故|accessdate=2021-12-20|website=読売新聞}}</ref>(詳細は[[平和大橋 (広島市)]]参照)。 |
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2002年から「平和大通りリニューアル事業」を市が推進、その一環として架け換えが検討されているものの、1橋あたり50億円近くかかると試算されていることから、なかなか進まないでいる<ref name="chugoku2004-05-22">{{Cite web|date=2004-05-22|publisher=中国新聞|url=http:// |
2002年から「平和大通りリニューアル事業」を市が推進、その一環として架け換えが検討されているものの、1橋あたり50億円近くかかると試算されていることから、なかなか進まないでいる<ref name="chugoku2004-05-22">{{Cite web|和書|date=2004-05-22|publisher=中国新聞|url=http://www1.chugoku-np.co.jp/kikaku/toshin/040522.html|title=「公園」「車中心」 結論出ず|accessdate=2014-03-13}}</ref>。 |
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== 構造 == |
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=== 諸元 === |
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* 路線名:[[広島市道比治山庚午線]](平和大通り)<ref name="jsce">{{Cite web|publisher=土木学会|url=http://library.jsce.or.jp/jscelib/committee/2003/bridge/G9-007.htm|title=歴史的鋼橋 G9-007西平和大橋|accessdate= |
* 路線名:[[広島市道比治山庚午線]](平和大通り)<ref name="jsce">{{Cite web|和書|publisher=土木学会|url=http://library.jsce.or.jp/jscelib/committee/2003/bridge/G9-007.htm|title=歴史的鋼橋 G9-007西平和大橋|accessdate=2014-03-13}}</ref> |
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* 橋長:101.9m<ref name="jsce" /> |
* 橋長:101.9m<ref name="jsce" /> |
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* 幅員:15m <ref name="jsce" /> |
* 幅員:15m <ref name="jsce" /> |
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* 設計:[[建設省]]中国四国地方建設局 <ref name="jsce" /> |
* 設計:[[建設省]]中国四国地方建設局 <ref name="jsce" /> |
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* 備考:工事時の橋名は「新大橋」。工事は建設省、所有および維持管理は広島市。高欄デザインはイサム・ノグチ<ref name="jsce" />。 |
* 備考:工事時の橋名は「新大橋」。工事は建設省、所有および維持管理は広島市。高欄デザインはイサム・ノグチ<ref name="jsce" />。 |
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=== 特徴 === |
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この橋は戦後すぐにかけられたものであり、当時の鋼橋では一般的であったリベット溶接が採用されている<ref name="ph">{{Cite web|和書|publisher=広島県|url=https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki/97/west-peace-bridge.html|title=西平和大橋(にしへいわおおはし)|accessdate=2014-12-05}}</ref>。これに対し、平和大橋の方は戦後初となる全溶接鋼橋となった<ref>{{Cite web|和書|publisher=広島県|url=https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki/97/peace-bridge.html|title=平和大橋(へいわおおはし)|accessdate=2014-12-05}}</ref>。 |
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また、橋長は西平和大橋のほうが1径間分長くなっている<ref name="ph" />。 |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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=== 戦前 === |
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| image1 = [http://www.japanairraids.org/wp-content/uploads/2010/09/Hiroshima-aerial-A3392.jpg Hiroshima aerial A3392] 1945年9月 台風による落橋前に撮影。写真中央上の橋が新大橋。 |
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| image2 = [http://www.japanairraids.org/wp-content/uploads/2010/09/Hiroshima-ground-Matoyasu-and-Ota-Rivers-A3452.jpg Hiroshima ground Matoyasu-and-Ota-Rivers-A3452] 爆心地から南方向。1946年8月2日撮影、つまり被爆1年後の写真。写真中央が中島町であり右奥の橋が新大橋。橋が架かっているように見えるのは水道橋の方である。 |
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[[明治時代]]になり規制は解かれ、[[1873年]](明治6年)「新大橋」という名の[[木橋]]が、[[中島町 |
[[明治時代]]になり規制は解かれ、[[1873年]](明治6年)「新大橋」という名の[[木橋]]が、[[中島町 (広島市)#中島新町|中島新町]]から本川をはさんで対岸の西地方町に向かって新たに架けられた(現在の西平和大橋とほぼ同じ位置)<!-- この時期の周辺状況を考慮すると地元商人が架けたと思われるが、具体的なソースは無 -->。ただこの橋は[[1919年]](大正8年)7月[[洪水]]により部分破損してしまう<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cgr.mlit.go.jp/ootagawa/plan/pdf/plan.pdf |format=PDF |title=太田川水系の流域および河川の概要 |publisher=国土交通省河川局 |accessdate=2014-03-13}}</ref>。 |
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[[1922年]](大正11年)に[[鉄筋コンクリート]]桁橋として架け替えられた。西詰に消防団詰め所があった。 |
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[[1924年]](大正13年)、傍らに市の東西を結ぶ重要な[[水道橋]]が竣工した<ref name="hiroshimapeacemedia197310">{{Cite web|publisher=ヒロシマピースメディア|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20100714110317343_ja|title=ヒロシマの記録1973 10月|accessdate= |
[[1924年]](大正13年)、傍らに市の東西を結ぶ重要な[[水路橋|水道橋]]が竣工した<ref name="hiroshimapeacemedia197310">{{Cite web|和書|publisher=ヒロシマピースメディア|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20100714110317343_ja|title=ヒロシマの記録1973 10月|accessdate=2014-03-13}}</ref>。 |
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[[1945年]](昭和20年)3月末から4月頭までの間に、新大橋西詰から[[広島電鉄江波線|江波線電車]]道路まで、道路の南北両側に面した建物を強制疎開して、道路の幅員を拡大していた<ref>原爆戦災誌、482頁</ref>。同年8月6日、被爆(爆心地から620m)。両方の高欄が川に落下したものの、落橋には免れ通行はできた<ref>原爆戦災誌、252頁</ref>。数日後、この橋から西へ広がる建物疎開で広げられた道路に死体が並べられ、その多さからこの橋の上にも続いた<ref>原爆戦災誌、285頁</ref>。なお水道橋も被爆に耐えている<ref name="hiroshimapeacemedia197310" />。 |
[[1945年]](昭和20年)3月末から4月頭までの間に、新大橋西詰から[[広島電鉄江波線|江波線電車]]道路まで、道路の南北両側に面した建物を強制疎開して、道路の幅員を拡大していた<ref>原爆戦災誌、482頁</ref>。同年8月6日、被爆(爆心地から620m)。両方の高欄が川に落下したものの、落橋には免れ通行はできた<ref>原爆戦災誌、252頁</ref>。数日後、この橋から西へ広がる建物疎開で広げられた道路に死体が並べられ、その多さからこの橋の上にも続いた<ref>原爆戦災誌、285頁</ref>。なお水道橋も被爆に耐えている<ref name="hiroshimapeacemedia197310" />。 |
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1953年の完成から既に半世紀以上が経過し、欄干の低さのほか、前後の平和大通りに公園・緑地帯を兼ねた幅広の歩道があるのに対し、両大橋部分の歩道は幅が1.8メートルと極端に狭く危険で、車道部分の車線も2車線しかなく、1車線あたりの幅も狭くなっており渋滞が多発していたため改築も検討されたが、ひとまず歩道橋を先に架橋することになった。平和大橋から先行して進められ、この橋と西隣の緑大橋もそれに続く予定である。 |
1953年の完成から既に半世紀以上が経過し、欄干の低さのほか、前後の平和大通りに公園・緑地帯を兼ねた幅広の歩道があるのに対し、両大橋部分の歩道は幅が1.8メートルと極端に狭く危険で、車道部分の車線も2車線しかなく、1車線あたりの幅も狭くなっており渋滞が多発していたため改築も検討されたが、ひとまず歩道橋を先に架橋することになった。平和大橋から先行して進められ、この橋と西隣の緑大橋もそれに続く予定である。 |
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[[2011年]](平成23年)1月、[[物損事故]]により2本ある欄干のうち上部3.5メートルが壊れ、平和大橋・西平和大橋の2橋竣工以来初めてとなる欄干破損となった。同年6月に補修されている<ref>{{Cite web|publisher=中国新聞|date=2011-06-07|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20110606102936909_ja|title=「ノグチの欄干」修復 西平和大橋 復興の象徴 趣損ねず|accessdate= |
[[2011年]](平成23年)1月、[[物損事故]]により2本ある欄干のうち上部3.5メートルが壊れ、平和大橋・西平和大橋の2橋竣工以来初めてとなる欄干破損となった。同年6月に補修されている<ref>{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=2011-06-07|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20110606102936909_ja|title=「ノグチの欄干」修復 西平和大橋 復興の象徴 趣損ねず|accessdate=2014-03-13}}</ref>。[[2021年]](令和3年)12月にも物損事故が発生し欄干が破損している<ref name="yomiuri20211220" />。 |
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== ギャラリー == |
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東詰北側に平和記念公園が広がり、関連する碑などは平和大橋と対になる位置にあり、川のほとりに本川(旧太田川)の由来を記した碑が建てられている。 |
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ファイル:Hiroshima city map 1880.jpg|1880年の広島市。中央すぐ左下が本川と元安川の分岐であり、そこから3つ目の橋が新大橋。 |
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西詰には[[中国新聞]]本社ビル、少し行くと[[広島電鉄江波線]]が通る寺町通りへと続く。最寄の駅は広電[[土橋停留場]]。 |
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Image:Chugoku Shimbun Headquarters 2.jpg|中国新聞本社 |
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Image:Hiroden Dobashi Sta.JPG|広電土橋駅 |
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== 参考資料 == |
== 参考資料 == |
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* {{Cite book|和書|author = 広島市|title = 広島原爆戦災誌|origdate = 1971|url = http://a-bombdb.pcf.city.hiroshima.jp/pdbj/bookdownload/sensai0.pdf|format = PDF|edition = 改良版|date = 2005|accessdate = |
* {{Cite book|和書|author = 広島市|title = 広島原爆戦災誌|origdate = 1971|url = http://a-bombdb.pcf.city.hiroshima.jp/pdbj/bookdownload/sensai0.pdf|format = PDF|edition = 改良版|date = 2005|accessdate = 2014-03-13}} |
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* [http://masuda901.web.fc2.com/page2g1x06.html 広島ぶらり散歩 「西平和大橋」] |
* [http://masuda901.web.fc2.com/page2g1x06.html 広島ぶらり散歩 「西平和大橋」] |
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== 関連項目 == |
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* [[広島平和記念資料館]] |
* [[広島平和記念資料館]] |
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* 平和記念公園に入るときに渡る橋 - [[相生橋]]・[[元安橋]]・[[本川橋]]・[[平和大橋 (広島市)|平和大橋]] |
* 平和記念公園に入るときに渡る橋 - [[相生橋]]・[[元安橋]]・[[本川橋]]・[[平和大橋 (広島市)|平和大橋]] |
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== 外部リンク == |
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[[Category: |
[[Category:日本の鋼橋]] |
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[[Category:広島 |
[[Category:広島市中区の橋]] |
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[[Category:広島原爆]] |
[[Category:広島原爆]] |
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[[Category:旧太田川の橋]] |
2023年12月2日 (土) 06:55時点における最新版
西平和大橋 | |
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欄干 橋全体 | |
基本情報 | |
所在地 |
広島県広島市 左岸:中区中島町 - 右岸:中区土橋町 |
交差物件 | 太田川水系旧太田川 |
座標 | 北緯34度23分29秒 東経132度26分57秒 / 北緯34.39139度 東経132.44917度 |
関連項目 | |
橋の一覧 - 各国の橋 - 橋の形式 |
西平和大橋(にしへいわおおはし)は、広島県広島市の本川(旧太田川)にかかる道路橋。
ここより東にある平和大橋とは対の関係にあり、戦後の歴史およびデザイン構想など詳細は平和大橋の項目を参照。
概要
[編集]平和大通り筋にかかる橋であり、広島平和記念公園の南西側に位置する。関連する碑などは平和大橋と対になる位置にあり、川のほとりに本川(旧太田川)の由来を記した碑が建てられている。西側に緑大橋、上流側に本川橋、下流側に中島神崎橋がある。西詰には中国新聞本社ビル、少し行くと広島電鉄江波線が通る寺町通りへと続く。最寄の駅は広電土橋停留場。
元々この地に架けられていた「新大橋」が、1945年に原爆被災およびその後の水害により落橋してしまったため、1952年に架け直されたものである。なお新大橋は、こうの史代の漫画作品「夕凪の街」に、ヒロインが「川にぎっしり浮いた死体」を目撃した場所として登場する橋である。
独特な形状をもつ欄干のデザインは、日系アメリカ人彫刻家のイサム・ノグチによるもの[1](詳細は平和大橋 (広島市)参照)。
2002年から「平和大通りリニューアル事業」を市が推進、その一環として架け換えが検討されているものの、1橋あたり50億円近くかかると試算されていることから、なかなか進まないでいる[2]。
構造
[編集]諸元
[編集]- 路線名:広島市道比治山庚午線(平和大通り)[3]
- 橋長:101.9m[3]
- 幅員:15m [3]
- 上部工:5径間単純鋼鈑桁橋(リベット接合)[3]
- 下部工:RC橋台2基、RCラーメン橋脚4基 [3]
- 基礎工:橋台 - 杭基礎、橋脚 - 井筒基礎 [3]
- 設計:建設省中国四国地方建設局 [3]
- 備考:工事時の橋名は「新大橋」。工事は建設省、所有および維持管理は広島市。高欄デザインはイサム・ノグチ[3]。
特徴
[編集]この橋は戦後すぐにかけられたものであり、当時の鋼橋では一般的であったリベット溶接が採用されている[4]。これに対し、平和大橋の方は戦後初となる全溶接鋼橋となった[5]。
また、橋長は西平和大橋のほうが1径間分長くなっている[4]。
歴史
[編集]戦前
[編集]画像外部リンク | |
---|---|
アメリカ国立公文書記録管理局が所有する米軍撮影写真。 | |
Hiroshima aerial A3392 1945年9月 台風による落橋前に撮影。写真中央上の橋が新大橋。 | |
Hiroshima ground Matoyasu-and-Ota-Rivers-A3452 爆心地から南方向。1946年8月2日撮影、つまり被爆1年後の写真。写真中央が中島町であり右奥の橋が新大橋。橋が架かっているように見えるのは水道橋の方である。 |
藩政時代、防犯のため城下には架橋規制が引かれており[6]、西部や北部から広島城への道は、本川橋から元安橋を渡る西国街道ルートのみであった。
明治時代になり規制は解かれ、1873年(明治6年)「新大橋」という名の木橋が、中島新町から本川をはさんで対岸の西地方町に向かって新たに架けられた(現在の西平和大橋とほぼ同じ位置)。ただこの橋は1919年(大正8年)7月洪水により部分破損してしまう[7]。
1922年(大正11年)に鉄筋コンクリート桁橋として架け替えられた。西詰に消防団詰め所があった。 1924年(大正13年)、傍らに市の東西を結ぶ重要な水道橋が竣工した[8]。
1945年(昭和20年)3月末から4月頭までの間に、新大橋西詰から江波線電車道路まで、道路の南北両側に面した建物を強制疎開して、道路の幅員を拡大していた[9]。同年8月6日、被爆(爆心地から620m)。両方の高欄が川に落下したものの、落橋には免れ通行はできた[10]。数日後、この橋から西へ広がる建物疎開で広げられた道路に死体が並べられ、その多さからこの橋の上にも続いた[11]。なお水道橋も被爆に耐えている[8]。
同年9月に上陸した枕崎台風と同年10月の阿久根台風による水害により本川が相次いで増水、本川橋・住吉橋と共に落橋してしまった[12]。
戦後
[編集]戦後、丹下健三による計画に基づき、爆心地区の中島地区を平和公園とし、市街地の東西を貫く戦時中の建物疎開対象地域を平和大通りとして整備する構想の一部として、この2つの橋の架橋が計画された。新しい橋の名称は一般公募によって決められた。
1973年(昭和48年)10月、水道橋は撤去された[8]。
1953年の完成から既に半世紀以上が経過し、欄干の低さのほか、前後の平和大通りに公園・緑地帯を兼ねた幅広の歩道があるのに対し、両大橋部分の歩道は幅が1.8メートルと極端に狭く危険で、車道部分の車線も2車線しかなく、1車線あたりの幅も狭くなっており渋滞が多発していたため改築も検討されたが、ひとまず歩道橋を先に架橋することになった。平和大橋から先行して進められ、この橋と西隣の緑大橋もそれに続く予定である。
2011年(平成23年)1月、物損事故により2本ある欄干のうち上部3.5メートルが壊れ、平和大橋・西平和大橋の2橋竣工以来初めてとなる欄干破損となった。同年6月に補修されている[13]。2021年(令和3年)12月にも物損事故が発生し欄干が破損している[1]。
ギャラリー
[編集]-
1880年の広島市。中央すぐ左下が本川と元安川の分岐であり、そこから3つ目の橋が新大橋。
-
原爆投下前の市中央部。同心円の中心が爆心地でその左上が相生橋。そこから左側下流2つ目の橋が新大橋。
-
1988年の平和公園周辺[14]。
脚注
[編集]- ^ a b “イサム・ノグチ設計の欄干が破損…橋の上で10代男性3人が乗った車が事故”. 読売新聞. 2021年12月20日閲覧。
- ^ “「公園」「車中心」 結論出ず”. 中国新聞 (2004年5月22日). 2014年3月13日閲覧。
- ^ a b c d e f g h “歴史的鋼橋 G9-007西平和大橋”. 土木学会. 2014年3月13日閲覧。
- ^ a b “西平和大橋(にしへいわおおはし)”. 広島県. 2014年12月5日閲覧。
- ^ “平和大橋(へいわおおはし)”. 広島県. 2014年12月5日閲覧。
- ^ “しろうや!広島城 第20号” (PDF). 広島城公式. 2014年3月13日閲覧。
- ^ “太田川水系の流域および河川の概要” (PDF). 国土交通省河川局. 2014年3月13日閲覧。
- ^ a b c “ヒロシマの記録1973 10月”. ヒロシマピースメディア. 2014年3月13日閲覧。
- ^ 原爆戦災誌、482頁
- ^ 原爆戦災誌、252頁
- ^ 原爆戦災誌、285頁
- ^ 原爆戦災誌、488頁
- ^ “「ノグチの欄干」修復 西平和大橋 復興の象徴 趣損ねず”. 中国新聞 (2011年6月7日). 2014年3月13日閲覧。
- ^ 国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
参考資料
[編集]- 広島市『広島原爆戦災誌』(PDF)(改良版)、2005年(原著1971年) 。2014年3月13日閲覧。
- 広島平和記念都市建設法の関連施設 - 広島市
- 広島ぶらり散歩 「西平和大橋」