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[[File:USA-R198-63 Central Iida, Nagano 1947-09-22.jpg|thumb|大火から5か月後の飯田市中心市街地<br />{{国土航空写真}}(1947年9月22日撮影)]]
|title = 飯田大火
'''飯田大火'''(いいだたいか)とは、[[1947年]](昭和22年)[[4月20日]]に[[長野県]][[飯田市]]で発生した[[火災|大火]]を指す。この火災で飯田市内中心部の[[商店街]]、約60万[[平方メートル|m<sup>2</sup>]]が焼失した
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[[File:USA-R198-63 Central Iida, Nagano 1947-09-22.jpg|thumb|350px|飯田大火から5か月後の飯田市中心市街地<br><small>写真の下部を左右に流れる川が[[松川]]で、写真の右先の方に[[松川 (飯田市)|松川]]が天竜川へと合流する地点がある。</small><small>{{国土航空写真}}(1947年9月22日撮影)</small>]]

'''飯田大火'''(いいだたいか)とは、1947年(昭和22年)4月20日に[[長野県]][[飯田市]]で発生した[[火災|大火]]。

焼損棟数は3,742棟、焼損面積は48万1985[[平方メートル|m<sup>2</sup>]]。焼損面積の観点では戦後日本最大の市街地大火である<ref>[https://www.bousaihaku.com/ffhistory/11353/ 昭和20年代の消防] 消防防災博物館</ref>。

== 経過 ==
=== 大火の背景 ===
[[城下町]]として発展してきた飯田市は、[[京都]]の町割に倣って作られ、細い格子状に[[長屋|長屋作り]]の建物が整然と配列されていた。しかし、その路幅は狭く、また[[ (築)|木造建築]]が非常に密集しており、[[文政の大火]]など過去に何度も火災の被害にってきた<ref name="Esita">江下以知子、高澤紀恵、吉田伸之、フランソワ=ジョゼフ・ルッジウ、ギョーム・カレ(編)『伝統都市を比較する:飯田とシャルルヴィル』 <別冊都市史研究> 山川出版社 2011年 ISBN 9784634527140 pp.81-82,86-87.</ref>。なお、飯田大火の前年の1946年(昭和21年)にも負傷者4人、焼損棟数198、焼損面積3万3500&nbsp;m<sup>2</sup>の被害を出した火災が起きていた。

=== 出火と延焼 ===
1947年(昭和22年)4月20日午前11時48分頃に[[出火]]した火元は扇町付近の[[八十二銀行]]裏手の民家であり、折りからの乾燥状態と風速4 mの風によって[[延焼]]していった。[[パニック]]に陥った市民はそれと同時に、火災現場から遠い近いに関わらず一斉に[[消火栓]]を開いたため、水圧が低下し、[[警防団]](消防団)による初期消火の失敗につながった。午後になると風速が15 m達し、延焼範囲は拡大していった。もはや、このには消防も手をられず、結局約10時間延焼しけた。


== 被害 ==
== 被害 ==
焼損面積は48万1985&nbsp;m<sup>2</sup>に達し、中心市街地の約7割が焼失した。死者・行方不明者3名を出し、罹災戸数は4,010戸、罹災人員は17,778人に及んだ。
[[城下町]]として発展してきた飯田市は、[[京都]]の町割に倣って作られ、細い格子状長屋作りの建物が整然と配列されていた。しかし、その路幅は狭く、また木造建物が非常に密集しており、何度も火災の被害にってきた。なお、飯田大火の前年にも負傷者4人、焼損棟数198、焼損面積3万3500m<sup>2</sup>の被害を生じる火災が起きていた。


被害拡大要因として、気候条件の悪化、木造建物の密集、[[消防設備]]の不備、初期消火の失敗、[[土蔵]]の手入れ不備で分な延焼遮断効果を発揮できなかったこと、市民の防火意識の欠如、太平洋戦争後初の参議院選挙日で留守宅が多かった事などが挙げられた<ref name="Esita"/>。防災研究者の[[亀井幸次郎]]は、八十二銀行のコンクリート製建造物がバリケードになって、火の手が東西に二分したことを延焼拡大の要因として挙げている
飯田大火は1947年4月20日午前11時48分頃に発生。折りからの乾燥状態と風速4mの風によって延焼していった。パニックに陥った市民はそれと同時に、火災現場から遠い近いに関わらず一斉に[[消火栓]]を開いたため、水圧が低下し、[[警防団]](消防団)による初期消火の失敗につながった。午後になると風速が15mもなりますます火災は延焼していった。このころには消防も手をることができず、結局約10時間ほど延焼しつづた。市の中心部を含め3742棟が焼失し、焼損面積48万1985m<sup>2</sup>。死者行方不明者3名。罹災戸数4010戸、罹災人員17,778人に及び、飯田中心街約7割が焼失した。


一方で、辛うじて焼失を免れた仲ノ町区域には、2017年現在も大火前の建物が残されている。
被害発生要因として、気候条件の悪化、木造建物の密集、消防設備の不備、初期消火の失敗、[[土蔵]]の手入れ不備で分な延焼遮断効果を発揮できなかったこと、市民の防火思想の欠如などが挙げられた。


=== 戦後の日本における主要な大火 ===
辛うじて焼失を免れた仲ノ町区域(この町内には[[菱田春草]]の生誕地もある)には[[2014]]現在も大火前の建物が残されている。
<table>
<tr><td alirn=center>1947年{{0}}4月20日 '''飯田大火'''(長野県飯田市)
</td><td>[[画像:r100.png]][[画像:r100.png]][[画像:r100.png]][[画像:r100.png]][[画像:r50.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r01.png]][[画像:r01.png]] 48.2万m<sup>2</sup></tr>

<tr><td alirn=center>1952年{{0}}4月17日 [[鳥取大火]](鳥取県鳥取市)
</td><td>[[画像:r100.png]][[画像:r100.png]][[画像:r100.png]][[画像:r100.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r05.png]][[画像:r01.png]][[画像:r01.png]][[画像:r01.png]][[画像:r01.png]] 44.9万m<sup>2</sup></tr>

<tr><td alirn=center>1954年{{0}}9月26日 [[岩内大火]](北海道岩内町)
</td><td>[[画像:r100.png]][[画像:r100.png]][[画像:r100.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r01.png]] 32.1万m<sup>2</sup></tr>

<tr><td alirn=center>1955年10月{{0}}1日 [[新潟大火]](新潟県新潟市)
</td><td>[[画像:r100.png]][[画像:r100.png]][[画像:r10.png]][[画像:r01.png]][[画像:r01.png]][[画像:r01.png]][[画像:r01.png]] 21.4万m<sup>2</sup></td></tr>

<tr><td alirn=center>1949年{{0}}2月20日 [[能代大火]](秋田県能代市)
</td><td>[[画像:r100.png]][[画像:r100.png]][[画像:r10.png]] 21.0万m<sup>2</sup></td></tr>

<tr><td alirn=center>1956年{{0}}9月10日 [[魚津大火]](富山県魚津市)
</td><td>[[画像:r100.png]][[画像:r50.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r05.png]][[画像:r01.png]] 17.6万m<sup>2</sup></td></tr>

<tr><td alirn=center>1956年{{0}}8月18日 [[大館大火]](秋田県大館市)
</td><td>[[画像:r100.png]][[画像:r50.png]][[画像:r05.png]][[画像:r01.png]][[画像:r01.png]] 15.7万m<sup>2</sup></td></tr>

<tr><td alirn=center>1976年10月29日 [[酒田大火]](山形県酒田市)
</td><td>[[画像:r100.png]][[画像:r50.png]][[画像:r01.png]][[画像:r01.png]] 15.2万m<sup>2</sup></td></tr>

<tr><td alirn=center>1950年{{0}}4月13日 [[熱海大火]](静岡県熱海市)
</td><td>[[画像:r100.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r01.png]][[画像:r01.png]] 14.2万m<sup>2</sup></td></tr>

<tr><td alirn=center>1946年{{0}}5月{{0}}8日 [[村松大火]](新潟県村松町)
</td><td>[[画像:r100.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r05.png]] 13.5万m<sup>2</sup></td></tr>
</table>


== 復興 ==
== 復興 ==
[[ファイル:Apple Trees Street, Iida.jpg|thumb|りんご並木]]
[[File:Iida city Rikaisen ac (3).jpg|thumb|路地である[[裏界線]]]]
[[File:Iida Ringo Namiki road ac (1).jpg|thumb|復興の象徴である[[りんご並木 (飯田市)|飯田りんご並木]]]]
[[1948年]]より火災復興が始まり、町全体の区画は完了した、大火の際[[避難路]]及び消防活動の通路が無く、非常に苦労した等の反省が残った。そこで、各戸の裏側に避難用等の通路を設置することになり、市民の協力により幅員2メートルの路「'''裏界線'''」がつくられた。

=== 裏界線 ===
飯田大火の年の1948年(昭和23年)より、本格的な火災からの復興が始まった。町全体の区画は完了したものの、大火の際[[避難路]]及び消防活動の通路が無く、非常に苦労した等の反省が残った。そこで、各戸の裏側に避難用等の通路を設置することが決まり、市民の協力により幅員2メートルの路[[裏界線]]」がられた。

=== 飯田りんご並木 ===
さらに、市中心街に2本の[[防火帯]]の役割を果たす幅員の充分な道路街の中心で交差させ、町4分割るように整備した。こにより、万が一の大火災時には火災発生元の4分の1の町の焼失でい止め、それ以上の延焼を防げるようにした。1953年(昭和28年)から、この防火帯道路の緑地帯には地元中学生によってりんごの木植樹が開始され[[りんご並木 (飯田市)|飯田りんご並木]]として復興のシンボルとなった。1992年(平成4年)に飯田市の中心駅である[[飯田駅]]が改装された際、駅舎のデザインにもりんごが活かされた<ref>伊藤 博康 『えきたの 駅を楽しむ(アート編)』創元社、2017年、pp.50-51 ISBN 978-4-422-24076-3</ref>

=== 区画整理事業 ===
一方で、区画整理事業によって荒町が中央通りに改名されたなど、旧城下町地域の地名の多くが公的に消滅し、松尾町のように地名が残った地区も空間区分が変更された<ref name="Esita"/>。


== 脚注 ==
市中心街に本の[[防火帯]]道路街の中心で交差、町4分割になるように整備れ、万が一の大火災時には火災発生元の分のの町の焼失でい止め、それ以上の延焼を防げるようにした。この防火帯道路の緑地帯には地元中学生により、りんごの木植樹され飯田[[りんご並木 (飯田市)|りんご並木]]として復興のシンボルとなった。
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* [http://www.city.iida.lg.jp/namiki/home.html 飯田りんご並木]
* [http://www.city.iida.lg.jp/namiki/home.html 飯田りんご並木] 飯田市
* [http://www.city.iida.lg.jp/rikaisen/index.html 飯田市裏界線ホームページ]
* [http://www.city.iida.lg.jp/rikaisen/index.html 裏界線] 飯田市
* [http://alpsforum.com/research/0101.htm 飯田大火とその後の町並み]
* [http://alpsforum.com/research/0101.htm 飯田大火とその後の町並み]
* [http://www.bousaihaku.com/cgi-bin/hp/index.cgi?ac1=R101&ac2=R10102&ac3=1120&Page=hpd_view 消防防災博物館 昭和20年代の消防]
* [http://www.bousaihaku.com/cgi-bin/hp/index.cgi?ac1=R101&ac2=R10102&ac3=1120&Page=hpd_view 消防防災博物館 昭和20年代の消防]
*[https://www.fdma.go.jp/html/hakusho/h16/h16/html/16s10000.html 昭和21年以降の大火記録] - [[消防庁]]
* [https://www.fdma.go.jp/html/hakusho/h16/h16/html/16s10000.html 昭和21年以降の大火記録] - [[消防庁]]


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飯田大火
飯田大火後の市街地
現場 日本の旗 日本長野県飯田市
発生日 1947年(昭和22年)4月20日
午前11時48分頃
類焼面積 48万1985m2
死者 3人
飯田大火から5か月後の飯田市中心市街地。
写真の下部を左右に流れる川が松川で、写真の右先の方に松川が天竜川へと合流する地点がある。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成(1947年9月22日撮影)

飯田大火(いいだたいか)とは、1947年(昭和22年)4月20日に長野県飯田市で発生した大火

焼損棟数は3,742棟、焼損面積は48万1985m2。焼損面積の観点では戦後日本最大の市街地大火である[1]

経過

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大火の背景

[編集]

城下町として発展してきた飯田市は、京都の町割に倣って作られ、細かい格子状に長屋作りの建物が整然と配列されていた。しかし、その道路幅は狭く、また木造建築物が非常に密集しており、文政の大火など過去に何度も火災の被害に遭ってきた[2]。なお、飯田大火の前年の1946年(昭和21年)にも、負傷者4人、焼損棟数198、焼損面積3万3500 m2の被害を出した火災が起きていた。

出火と延焼

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1947年(昭和22年)4月20日午前11時48分頃に出火した。火元は扇町付近の八十二銀行裏手の民家であり、折りからの乾燥状態と風速4 mの風によって延焼していった。パニックに陥った市民はそれと同時に、火災現場から遠い近いに関わらず一斉に消火栓を開いたため、水圧が低下し、警防団(消防団)による初期消火の失敗につながった。午後になると風速が15 mに達し、延焼範囲は拡大していった。もはや、この頃には消防も手を付けられず、結局約10時間延焼し続けた。

被害

[編集]

焼損面積は48万1985 m2に達し、中心市街地の約7割が焼失した。死者・行方不明者3名を出し、罹災戸数は4,010戸、罹災人員は17,778人に及んだ。

被害拡大要因として、気候条件の悪化、木造建築物の密集、消防設備の不備、初期消火の失敗、土蔵の手入れの不備で充分な延焼遮断効果を発揮できなかったこと、市民の防火意識の欠如、太平洋戦争後初の参議院選挙日で留守宅が多かった事などが挙げられた[2]。防災研究者の亀井幸次郎は、八十二銀行のコンクリート製建造物がバリケードになって、火の手が東西に二分したことを延焼拡大の要因として挙げている。

一方で、辛うじて焼失を免れた仲ノ町区域には、2017年現在も、大火前の建物が残されている。

戦後の日本における主要な大火

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1947年04月20日 飯田大火(長野県飯田市) 48.2万m2
1952年04月17日 鳥取大火(鳥取県鳥取市) 44.9万m2
1954年09月26日 岩内大火(北海道岩内町) 32.1万m2
1955年10月01日 新潟大火(新潟県新潟市) 21.4万m2
1949年02月20日 能代大火(秋田県能代市) 21.0万m2
1956年09月10日 魚津大火(富山県魚津市) 17.6万m2
1956年08月18日 大館大火(秋田県大館市) 15.7万m2
1976年10月29日 酒田大火(山形県酒田市) 15.2万m2
1950年04月13日 熱海大火(静岡県熱海市) 14.2万m2
1946年05月08日 村松大火(新潟県村松町) 13.5万m2

復興

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路地である裏界線
復興の象徴である飯田りんご並木

裏界線

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飯田大火の翌年の1948年(昭和23年)より、本格的な火災からの復興が始まった。町全体の区画は完了したものの、大火の際の避難路及び消防活動の通路が無く、非常に苦労した等の反省が残った。そこで、各戸の裏側に避難用等の通路を設置することが決まり、市民の協力により幅員2メートルの路地「裏界線」が作られた。

飯田りんご並木

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さらに、市中心街に2本の防火帯の役割を果たす幅員の充分な道路を街の中心で交差させ、町を4分割するように整備した。これにより、万が一の大火災時には、火災発生元の4分の1の町の焼失で喰い止め、それ以上の延焼を防げるようにした。1953年(昭和28年)から、この防火帯道路の緑地帯には地元中学生によってりんごの木の植樹が開始され、飯田りんご並木として復興のシンボルとなった。1992年(平成4年)に飯田市の中心駅である飯田駅が改装された際、駅舎のデザインにもりんごが活かされた[3]

区画整理事業

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一方で、区画整理事業によって荒町が中央通りに改名されたなど、旧城下町地域の地名の多くが公的に消滅し、松尾町のように地名が残った地区も空間区分が変更された[2]

脚注

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  1. ^ 昭和20年代の消防 消防防災博物館
  2. ^ a b c 江下以知子、高澤紀恵、吉田伸之、フランソワ=ジョゼフ・ルッジウ、ギョーム・カレ(編)『伝統都市を比較する:飯田とシャルルヴィル』 <別冊都市史研究> 山川出版社 2011年 ISBN 9784634527140 pp.81-82,86-87.
  3. ^ 伊藤 博康 『えきたの 駅を楽しむ(アート編)』創元社、2017年、pp.50-51 ISBN 978-4-422-24076-3

関連項目

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外部リンク

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