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==経歴== |
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[[サンクトペテルブルク大学|レニングラード大学]]で法律を学び、[[オムスク大学]] |
[[1959年]][[1月31日]]に[[カザフ・ソビエト社会主義共和国|カザフ共和国]]の[[セミパラチンスク]](現在の[[カザフスタン]]の[[セメイ]])に誕生する。バブーリン家はシベリア先住民の血統で、祖父のナウムは[[ロシア内戦]]で[[白軍]]を支持し、[[ボリシェヴィキ]]の権力掌握後に銃殺された。父のニコライ・ナウモヴィチはセミパラチンスクで教師を務め、母のヴァレンチナ・ニコラエヴナは外科医であった。[[サンクトペテルブルク大学|レニングラード大学]]で法律を学び、[[オムスク大学]]法学部長を務める。[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|アフガニスタン紛争]]に従軍し、数回勲章を受章している。1990年にロシア[[人民代議員大会|人民代議員]]に当選し、[[最高会議]]代議員にも選出される。 |
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[[ソ連崩壊]]後の混乱の中で民族主義 |
1991年12月の[[ソビエト連邦の崩壊]]には反対する姿勢を取った。崩壊後の混乱の中で民族主義・愛国主義が台頭する中で全ロシア国民同盟を創設し、[[ゲンナジー・ジュガーノフ]]ら共産主義者と手を組んで野党連合の「[[:en:National Salvation Front (Russia)|救国戦線]]」を設立した。同じ民族主義的な政治家として[[ウラジーミル・ジリノフスキー]]がいるが、バブーリンは奇矯なジリノフスキーよりも理性的な態度と口髭を蓄えた端正な風貌で知られ、[[1993年]]の[[10月政変|モスクワ騒乱事件]]でも反[[ボリス・エリツィン|エリツィン]]陣営として旗幟を鮮明にした。 |
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バブーリンは[[左翼 |
バブーリンは[[左翼ナショナリズム]]の政治ブロック「[[祖国 (ロシア)|祖国]]」(ロージナ)に所属し、議会では市民法、刑法、仲裁者・手続法委員会に所属している。[[2002年]]から[[2012年]]まで[[ロシア貿易経済大学]]学長を務めた<ref>[https://themoscowtimes.com/news/3-on-hunger-strike-over-school-merger-20478 3 on Hunger Strike Over School Merger] article from [[The Moscow Times]], December 28, 2012</ref><ref>[https://echo.msk.ru/programs/oni/978238-echo/ Sergei Baburin] interview at [[Echo of Moscow]], December 29, 2012 (in Russian)</ref>。[[2007年ロシア下院選挙]]では1990年代の民営化の不正を糾弾し、400万ルーブルを補償する政策を主張した。 |
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[[2017年]][[12月22日]] |
[[2017年]][[12月22日]]に全ロシア人民同盟は、[[2018年ロシア大統領選挙|2018年ロシア連邦大統領選挙]]においてバブーリンを大統領候補として擁立することを決定した<ref>{{Cite news|url=https://ria.ru/election2018_news/20171222/1511547988.html|title="Российский общенародный союз" выдвинул Бабурина кандидатом в президенты|date=2017-12-22|work=РИА Новости|accessdate=2017-12-22|language=ru}}</ref>。[[12月24日]]にバブーリンは中央選挙管理委員会に関係書類を提出した<ref>{{Cite news|url=https://ria.ru/election2018_news/20171224/1511613603.html|title=Бабурин подал в ЦИК документы для выдвижения в президенты от своей партии|date=2017-12-24|work=РИА Новости|accessdate=2017-12-25|language=ru}}</ref>。[[12月25日]]に中央選挙管理委員会は書類の不備を理由に登録を拒否したが<ref>[https://ria.ru/election2018_news/20171225/1511707984.html ЦИК предложил трем потенциальным кандидатам устранить процедурные нарушения]</ref>、バブーリンは再度書類を提出して立候補者登録を完了した<ref>[http://tass.ru/politika/4852241 ЦИК разрешил Бабурину открыть избирательный счет и начать сбор подписей]</ref>。[[2018年]][[3月18日]]の投開票の結果、47万9013票・得票率0.65パーセントで候補者8人中最下位に終わった。 |
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2024年2月18日 (日) 13:38時点における最新版
セルゲイ・バブーリン Серге́й Николаевич Бабурин | |
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生年月日 | 1959年1月31日(65歳) |
出生地 |
ソビエト連邦 カザフ・ソビエト社会主義共和国 セミパラチンスク(現・セメイ) |
出身校 |
レニングラード大学法学部 オムスク大学法学部 |
前職 | 法律学者 |
所属政党 |
(全ロシア人民同盟→) 人民同盟 |
配偶者 | タチアナ・ニコラエフナ・バブリナ |
子女 | 4人 |
在任期間 | 1993年12月12日 - 2000年1月18日 |
在任期間 | 2003年12月7日 - 2007年12月24日 |
セルゲイ・ニコラエヴィチ・バブーリン(ロシア語: Серге́й Никола́евич Бабу́рин、ラテン文字転写の例:Sergey Nikolayevich Baburin、1959年1月31日 - )は、ロシア連邦の政治家。国家院議員を務めている。「人民同盟」の指導者で、民族主義・愛国主義者として知られる。
経歴
[編集]1959年1月31日にカザフ共和国のセミパラチンスク(現在のカザフスタンのセメイ)に誕生する。バブーリン家はシベリア先住民の血統で、祖父のナウムはロシア内戦で白軍を支持し、ボリシェヴィキの権力掌握後に銃殺された。父のニコライ・ナウモヴィチはセミパラチンスクで教師を務め、母のヴァレンチナ・ニコラエヴナは外科医であった。レニングラード大学で法律を学び、オムスク大学法学部長を務める。アフガニスタン紛争に従軍し、数回勲章を受章している。1990年にロシア人民代議員に当選し、最高会議代議員にも選出される。
1991年12月のソビエト連邦の崩壊には反対する姿勢を取った。崩壊後の混乱の中で民族主義・愛国主義が台頭する中で全ロシア国民同盟を創設し、ゲンナジー・ジュガーノフら共産主義者と手を組んで野党連合の「救国戦線」を設立した。同じ民族主義的な政治家としてウラジーミル・ジリノフスキーがいるが、バブーリンは奇矯なジリノフスキーよりも理性的な態度と口髭を蓄えた端正な風貌で知られ、1993年のモスクワ騒乱事件でも反エリツィン陣営として旗幟を鮮明にした。
バブーリンは左翼ナショナリズムの政治ブロック「祖国」(ロージナ)に所属し、議会では市民法、刑法、仲裁者・手続法委員会に所属している。2002年から2012年までロシア貿易経済大学学長を務めた[1][2]。2007年ロシア下院選挙では1990年代の民営化の不正を糾弾し、400万ルーブルを補償する政策を主張した。
2017年12月22日に全ロシア人民同盟は、2018年ロシア連邦大統領選挙においてバブーリンを大統領候補として擁立することを決定した[3]。12月24日にバブーリンは中央選挙管理委員会に関係書類を提出した[4]。12月25日に中央選挙管理委員会は書類の不備を理由に登録を拒否したが[5]、バブーリンは再度書類を提出して立候補者登録を完了した[6]。2018年3月18日の投開票の結果、47万9013票・得票率0.65パーセントで候補者8人中最下位に終わった。
2024年3月に執行される大統領選挙に立候補を表明し、必要な署名も提出していたが、直後に選挙戦からの撤退を表明したた[7]。
脚注
[編集]- ^ 3 on Hunger Strike Over School Merger article from The Moscow Times, December 28, 2012
- ^ Sergei Baburin interview at Echo of Moscow, December 29, 2012 (in Russian)
- ^ “"Российский общенародный союз" выдвинул Бабурина кандидатом в президенты” (ロシア語). РИА Новости. (2017年12月22日) 2017年12月22日閲覧。
- ^ “Бабурин подал в ЦИК документы для выдвижения в президенты от своей партии” (ロシア語). РИА Новости. (2017年12月24日) 2017年12月25日閲覧。
- ^ ЦИК предложил трем потенциальным кандидатам устранить процедурные нарушения
- ^ ЦИК разрешил Бабурину открыть избирательный счет и начать сбор подписей
- ^ “Second Russian presidential candidate drops out of race immediately after submitting campaign materials”. Meduza. (2024年1月31日) 2024年2月18日閲覧。