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{{Infobox royalty
{{基礎情報 君主
| 人名 = アッシュル・ニラ5世
| succession = [[新アッシリア帝国|アッシリア王]]
| death_date = 前745年
| 各国語表記 =
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| 画像説明 =
| 在位 = [[紀元前754年]] - [[紀元前745年]]
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}}
'''アッシュル・ニラリ5世'''(''Ashur nirari V''、在位:[[紀元754]] - [[紀元前745年]]<ref name="king">{{Cite web|url=https://www.livius.org/sources/content/anet/564-566-the-assyrian-king-list/|title=The Assyrian King List|date=26 July 2017|website=Livius.org|url-status=live|archive-url=|archive-date=|access-date=27 October 2019}}<br>(『アッシリア王のリスト』(オランダの歴史学者ヨナ・レンダリングが開設するサイト「Livius.org」より))</ref>)は、古代メソポタミア地方の[[新アッシリア帝国]]の王であ。彼の治世おいも宦官や軍人の勢力が強く王権制限されていた。彼の治世期間いては度々、軍事遠征の実施が見送られている。世末期ニムルドで反乱が発生、詳細は不明だが、その後、彼は消えた(おそらく死亡)
'''アッシュル・ニラリ5世'''([[楔形文字]]:[[File:Ashur-nirari_in_Akkadian.png|61x61px]]{{spaces|1}}{{transl|akk|Aššur-nārāri}}、「[[アッシュル (神)|アッシュル]]神は我が救い」{{Sfn|Crouch|2014|p=102}}、在位:前755年-前745年<ref name="king">{{Cite web|url=https://www.livius.org/sources/content/anet/564-566-the-assyrian-king-list/|title=The Assyrian King List|date=26 July 2017|website=Livius.org|url-status=live|archive-url=|archive-date=|access-date=27 October 2019}}<br>(『アッシリア王のリスト』(オランダの歴史学者ヨナ・レンダリングが開設するサイト「Livius.org」より))</ref>)は[[新アッシリア帝国]]時代アッシリア。[[アダド・ニラリ3世]](在位:前811年-前783年)の息子であり、兄弟の[[アッシュル・ダン3世]]から王位を継承した。彼が支配した時代はアッシリア衰退期あたっおり現存する同時代史料僅かであるそのため、彼の治世にいては大まかな政的動向を除き、僅かにしかわかっていない


当時、アッシリアの官吏たちは王に対して勢力を増しており、アッシリアの外敵はより危険なものとなっていた。彼の治世中に外敵に対する遠征に費やされた期間の割合はアッシリア王の中でも例外的に少なく、これは恐らくアッシリア内の政治的な不安定を示すものである。前746年または前745年にはアッシリアの首都[[ニムルド]]における反乱が記録されている。アッシュル・ニラリ5世の跡に王位を継承したのは[[ティグラト・ピレセル3世]]であった。彼はアッシュル・ニラリ5世の息子または弟であるが、詳細は不明である。ティグラト・ピレセル3世がアッシュル・ニラリ5世を退位させたというのが伝統的な見解であるが、正当かつスムーズな継承であった可能性もあり、また彼らが短期間共同統治を行っていた可能性もある。
== 来歴 ==
[[アダド・ニラリ3世]]の息子として生まれた<ref name="king"/>。兄王[[アッシュル・ダン3世]]の後を継いで紀元前754年頃に即位したが、当時のアッシリアは地方長官の権限が強まり半独立傾向を示した上に、中央政府では宦官の勢力が拡大し、更に将軍<ref>[[タルタン]]。「総司令」または「首相」に相当する語。アッシリア軍の本来の総司令は王なのでナンバーツーに相当する地位だが、このときのように役職者の威信が高くなりすぎると王権が圧迫される場合もあった。</ref>{{仮リンク|シャムシ・イル|en|Shamshi-ilu}}が影響力を振るっており、アッシュル・ニラリ5世の権限は非常に限られていた。


== 治世 ==
[[紀元前753年]]頃、[[アルパド]]に遠征を行って<ref name="limmu">{{Cite web|url=https://www.livius.org/articles/concept/limmu/limmu-list-858-699-bce/|title=Limmu List (858-699 BCE)|date=2020-09-24|website=Livius.org|url-status=live|accessdate=2020-10-16}}<br>(リンム一覧(紀元前858~669年)(オランダの歴史学者ヨナ・レンダリングが開設するサイト「Livius.org」より)</ref>、アルパド王[[マティール]]を服属させる事に成功したが、その後行われた[[ウラルトゥ]]への遠征はウラルトゥ王[[サルドゥリ2世]]によって破られ失敗した<ref>{{Cite book|title=The Cambridge Ancient History|publisher=Cambridge University Press|year=1924|author=Stanley Arthur Cook|url=https://books.google.co.jp/books?id=vXljf8JqmkoC&pg=PA277&dq=Ashur-nirari+V&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjbhI2btrzsAhWJFogKHay3AL8Q6AEwBHoECAcQAg#v=onepage&q=Ashur-nirari%20V&f=false|accessdate=2020-10-18|language=en|page=277|author2=Martin Percival Charlesworth|last3=John Bagnell Bury|author4=John Bernard Bury}}<br>(『ケンブリッジ古代史』(初版)(編:スタンリー・アーサー・クック、マーティン・チャールズワース、ジョン・バグネル・ベリー、ジョン・バーナード・ベリー、1924年、ケンブリッジ大学出版))</ref>。
アッシュル・ニラリ5世は[[アダド・ニラリ3世]](在位:前811年-前783年)の息子である。前755年に兄弟である[[アッシュル・ダン3世]]から王位を継いだ{{Sfn|Chen|2020|p=200}}。アッシュル・ニラリ5世の治世は残存情報が少なく、アッシリア史の中でも不明瞭な時代である{{Sfn|Grayson|2002|p=239}}。そのため、彼の治世についてもほとんどわかっていない{{Sfn|Grayson|2002|p=246}}。この頃の[[新アッシリア帝国]]は衰退期を迎えていた。特に、アッシュル・ニラリ5世の権力は極めて強力な官吏たちの登場によって脅かされていた。彼らはアッシュル・ニラリ5世の権威を認めていたが、実際には最も強力な支配権を振るい、建築事業や政治的活動についてアッシリア王たちと同様に自らの[[楔形文字]]碑文を書くようになった{{Sfn|Grayson|2002|p=200}}。このような官吏たちの碑文はこの時代においてアッシリア王たちの碑文よりも数多く見られる{{Sfn|Grayson|2002|p=239}}。そしてこの時代、アッシリアの敵国も強大化し、深刻な脅威となっていた。このアッシリアの衰退期は、北方にある[[ウラルトゥ]]王国の絶頂期にあたる{{Sfn|Grayson|1982|p=276}}。


後の時代にアッシュル・ニラリ5世に言及する碑文には『[[アッシリア王名表]]』(彼の治世期間はこれによって知られている)や彼の時代の紀年官を含む[[リンム|リンム表]]がある{{Sfn|Grayson|2002|p=246}}(通常、リンム/紀年官の名を用いた年名、および重要な出来事の情報が記載されている{{Sfn|Frahm|2016|p=83}})。アッシュル・ニラリ5世に言及する同時代の碑文には、アッシュル・ニラリ5世を戦いで打ち破ったと主張する[[ウラルトゥ]]王[[サルドゥリ2世]]の碑文がある<ref>{{Cite book|title=The Cambridge Ancient History|publisher=Cambridge University Press|year=1924|author=Stanley Arthur Cook|url=https://books.google.co.jp/books?id=vXljf8JqmkoC&pg=PA277&dq=Ashur-nirari+V&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjbhI2btrzsAhWJFogKHay3AL8Q6AEwBHoECAcQAg#v=onepage&q=Ashur-nirari%20V&f=false|accessdate=2020-10-18|language=en|page=277|author2=Martin Percival Charlesworth|last3=John Bagnell Bury|author4=John Bernard Bury}}<br>(『ケンブリッジ古代史』(初版)(編:スタンリー・アーサー・クック、マーティン・チャールズワース、ジョン・バグネル・ベリー、ジョン・バーナード・ベリー、1924年、ケンブリッジ大学出版))</ref>。[[アルパド]]王Mati'iluとアッシュル・ニラリ5世の間で結ばれた条約の断片も現存している。また、官吏のマルドゥク・シャラ・ウツル(''Marduk-sarra-usur'')の戦功に対してアッシュル・ニラリ5世が土地と免税の特典を与えたことを記録する碑文も知られている。これはアッシュル・ニラリ5世自身によって残された唯一の碑文である。マルドゥク・シャラ・ウツルは(アッシュル・ニラリ5世の即位よりも30年前に当たる)前784年の紀年官(リンム)として言及される同名の人物と同一人物である可能性がある{{Sfn|Grayson|2002|p=246}}。
[[リンム]]による年誌によれば、在位中に王は4年連続で「王は国に留まる」と記述され、軍事遠征を行っていない。通例、アッシリア王は毎年のように遠征を行っており、この言葉は記録の残る紀元前858年から紀元前699年までの間で15回しか使われていない<ref name="limmu"/>。このことは王権あるいは王個人に何らかの深刻な弱さがあったことを示している。


このリンム表に基づくならば、アッシュル・ニラリ5世の治世は軍事的に精彩を欠くものであった。彼は在位中のほとんどの期間「本国に留まった」(即ち、遠征に出なかった)ことが記録されており、外征に出たの3年間だけであった。彼が王位に登った前755年にアルパドへの遠征が行われた{{Sfn|CDLI|}}{{Sfn|Grayson|1982|p=277}}<ref name="limmu">{{Cite web|url=https://www.livius.org/articles/concept/limmu/limmu-list-858-699-bce/|title=Limmu List (858-699 BCE)|date=2020-09-24|website=Livius.org|url-status=live|accessdate=2020-10-16}}<br>(リンム一覧(紀元前858~669年)(オランダの歴史学者ヨナ・レンダリングが開設するサイト「Livius.org」より)</ref>。そして前748年から前747年にかけて、彼はウラルトゥの[[ナムリ]]市へ遠征を行った{{Sfn|Grayson|1982|p=276}}{{Sfn|CDLI|}}。アルパド王Mati'iluとの条約が締結されたのは恐らく前755年の遠征の結果によるものであろう。この条約の現存部分はほとんど全てMati'iluに対する呪詛で構成されている{{Sfn|Grayson|1982|p=277}}。アッシリアの王は毎年遠征を行うのが通例であり、「本国に留まった」という言葉は記録の残る紀元前858年から紀元前699年までの間で15回しか使われていない<ref name="limmu"/>。従ってアッシュル・ニラリ5世がアッシリア本国に留まっていたことは内政の不安を示すものであると見ることができる。大半のアッシリア王が建築事業を起こしているが、アッシュル・ニラリ5世治世下で執り行われた建築事業は知られていない{{Sfn|Grayson|1982|p=278}}。
その後、紀元前748年とその翌年に行われた[[ナムリ]]への遠征の後で5度目の「王は国に留まる」が記録される。その翌年、[[紀元前745年]]にカルフ([[ニムルド]])での反乱が記録されている<ref name="limmu"/>。


== 継承 ==
そこで何らかの異変が発生したと見られ、王位は[[ティグラト・ピレセル3世]]によって奪われ、アッシュル・ニラリ5世は恐らくこの時に死亡した。ティグラト・ピレセル3世とアッシュル・ニラリ5世の関係は明らかではない。ある説によればティグラト・ピレセル3世はアッシュル・ニラリ5世の息子、又は兄弟であるという。また別の説によれば、ティグラト・ピレセル3世は王族では無い簒奪者であったという。
アッシュル・ニラリ5世は前745年に死亡したとするのが一般的である。これはこの年が彼の後継者[[ティグラト・ピレセル3世]]の即位年であるためである{{Sfn|Chen|2020|p=200}}{{Sfn|Grayson|2002|p=246}}{{Sfn|Davenport|2016|p=|pp=36–37}}。ティグラト・ピレセル3世の即位の経緯は不明である。これは特に、古代の史料がティグラト・ピレセル3世の系譜について矛盾する記録を残しているためである。『アッシリア王名表』はティグラト・ピレセル3世がアッシュル・ニラリ5世の息子であったとするが、ティグラト・ピレセル3世自身の碑文では自身をアダド・ニラリ3世の息子であるとしている。これに従うならばティグラト・ピレセル3世はアッシュル・ニラリ5世の兄弟である{{Sfn|Chen|2020|p=|pp=200–201}}。前746/745年にアッシリアの首都[[ニムルド]]での反乱の記録が残されており{{Sfn|Davenport|2016|p=36}}{{Sfn|Radner|2016|p=47}}<ref name="limmu"/>、ティグラト・ピレセル3世が碑文において自身の即位を王家の血統よりも神の選択の結果として記述していることから、ティグラト・ピレセル3世は通常、アッシュル・ニラリ5世から王位を簒奪したと考えられている{{Sfn|Davenport|2016|p=36}}。


歴史学者トレーシー・ダベンポート(Tracy Davenport)は2016年の博士論文において、ティグラト・ピレセル3世は完全に正当な形で王位を継承したのであり、さらには短期間アッシュル・ニラリ5世と共同統治を行ったとする仮説を出した。ダベンポートの見解は第一にティグラト・ピレセル3世時代のリンムの順序の異質さ、前744年の後に引かれた非常に珍しい水平線の書き込み(これはアッシュル・ニラリ5世の死亡を示すものである可能性がある)、そしてアッシュル・ニラリ5世に10年の治世年数を与える『アッシリア王名表』の記載に基づいている。アッシリア人は王の治世年数を、王が年間を通して王であった最初の年から数えたため、前754年がアッシュル・ニラリ5世の治世第1年であるとみなされた。つまり、アッシュル・ニラリ5世が10年間統治したとするならば、彼は前744年に死亡したことになる{{Sfn|Davenport|2016|p=|pp=37–41}}。しかし、『アッシリア王名表』は誤りを含むことがわかっており、王名表の版によってそれ以前の幾人かの王に食い違いがある{{Sfn|Hagens|2005|pp=27–28}}。
どちらにせよアッシュル・ニラリ5世に関してティグラト・ピレセル3世はその王碑文で全く触れておらず、政治的に敵対関係にあった事が推測される。

== 関連項目 ==
* [[アッシリア帝国]]
* [[シャムシ・イル]]


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{Reflist|20em}}


== 参考文献 ==
*{{Cite web|title=The Neo Assyrian Eponyms|url=https://cdli.ox.ac.uk/wiki/doku.php?id=list_of_neo_assyrian_limmu_officials|url-status=live|access-date=11 December 2021|last=CDLI|website=[[:en:Cuneiform Digital Library Initiative|Cuneiform Digital Library Initiative]]|ref=CITEREFCDLI}}<br>(『新アッシリアの名祖』(楔形文字デジタルライブラリー計画))
* {{Cite book|last=Chen|first=Fei|url=https://books.google.com/books?id=N3znDwAAQBAJ|title=Study on the Synchronistic King List from Ashur|publisher=[[ブリル|BRILL]]|year=2020|isbn=978-90-04-43091-4|location=Leiden|ref=harv}}<br>(『アッシュル出土の王名一覧表の研究』(著:フェイ・チェン、2020年、ブリル出版(オランダ)))
* {{Cite book|last=Crouch|first=Carly L.|url=https://books.google.com/books?id=Xd3PBAAAQBAJ|title=Israel and the Assyrians: Deuteronomy, the Succession Treaty of Esarhaddon, and the Nature of Subversion|publisher=[[:en:Society of Biblical Literature|Society of Biblical Literature Press]]|year=2014|isbn=978-1628370263|location=Atlanta|ref=harv}}<br>(『イスラエル人とアッシリア人:申命記、エサルハドンの相続協定、転覆の本質』(著:カーリー・L・クラウチ、2014年、聖書文学学会(米国))
*{{Cite thesis|last=Davenport|first=Tracy|title=Situation and Organisation: The Empire Building of Tiglath-Pileser III (745-728 BC)|date=2016|degree=PhD|publisher=[[シドニー大学|University of Sydney]]|url=https://ses.library.usyd.edu.au/bitstream/handle/2123/15464/2016_Tracy_Davenport_thesis.pdf?sequence=2}}<br>(『状況と組織化:ティグラト・ピレセル3世の帝国建設(紀元前745年~紀元前728年)』(博士論文。著:トレイシー・ダベンポート、2016年、シドニー大学)
* {{Cite book|last=Frahm|first=Eckart|url=https://books.google.com/books?id=0xP0DQAAQBAJ|title=Revolt and Resistance in the Ancient Classical World and the Near East: In the Crucible of Empire|publisher=[[ブリル|BRILL]]|year=2016|isbn=978-90-04-33017-7|editor-last=Collins|editor-first=John Joseph|location=Leiden|chapter=Revolts in the Neo-Assyrian Empire: A Preliminary Discourse Analysis|editor-last2=Manning|editor-first2=Joseph Gilbert|name-list-style=amp|ref=harv}}<br>(『古代古典世界と近東における反乱と抵抗:帝国のるつぼ』(編:ジョン・コリンズ、ジョセフ・ギルバート・マニング、2016年、ブリル出版(オランダ))に収録されている『新アッシリア帝国における反乱:予備分析論文』(著:エッカート・フラーム))
*{{Cite book|last=Grayson|first=Albert Kirk|title=The Cambridge Ancient History: Volume 3, Part 1: The Prehistory of the Balkans, the Middle East and the Aegean World, Tenth to Eighth Centuries BC|publisher=[[ケンブリッジ大学出版局|Cambridge University Press]]|year=1982|isbn=978-1139054287|editor-last=Boardman|editor-first=John|edition=2nd|location=Cambridge|chapter=Assyria: Ashur-dan II to Ashur-Nirari V (934–745 B.C.)|editor-last2=Edwards|editor-first2=I. E. S.|editor-last3=Hammond|editor-first3=N. G. L.|editor-last4=Sollberger|editor-first4=Edmond|chapter-url=https://www.cambridge.org/core/books/abs/cambridge-ancient-history/assyria-ashurdan-ii-to-ashurnirari-v-954745-bc/84301ADF40B1BC99A9865FDFEF816BFA|editor-link2=I. E. S. Edwards|editor-link3=N. G. L. Hammond|editor-link4=Edmond Sollberger|name-list-style=amp|ref=harv}}<br>(『ケンブリッジ古代史 第3巻第1部 バルカン、中東、エーゲ世界の前史:紀元前10世紀~紀元前8世紀』(編:ジョン・ボードマン、イオルワース・エイドン・ステファン・エドワーズほか、1982年、ケンブリッジ大学出版)に収録されている『アッシリア:アッシュル・ダン2世からアッシュル・ニラリ5世まで(紀元前934年~紀元前745年)』(著:アルバート・カーク・グレイソン))
*{{Cite book|last=Grayson|first=Albert Kirk|title=Assyrian Rulers of the Early First Millennium BC: II (858–745 BC)|publisher=[[トロント大学出版局|University of Toronto Press]]|year=2002|isbn=0-8020-0886-0|location=Toronto|orig-date=1996|ref=harv}}<br>(『紀元前一千年紀初頭のアッシリアの統治者 第2巻(紀元前858年~紀元前745年)』(著:アルバート・カーク・グレイソン、2002年、トロント大学出版(カナダ)))
*{{Cite journal|last=Hagens|first=Graham|date=2005|title=The Assyrian King List and Chronology: a Critique|url=https://www.jstor.org/stable/43076931|journal=Orientalia: NOVA Series|volume=74|issue=1|pages=23–41|jstor=43076931|ref=harv}}<br>(『オリエンタリア』(グレゴリアン大学聖書出版(イタリア))第74巻(2005年)第1分冊p.23~41に収録されている『アッシリアの王名表と年代記:その批評』(著:グラハム・ヘーゲンス)
*{{Cite book|last=Radner|first=Karen|title=Revolt and Resistance in the Ancient Classical World and the Near East: In the Crucible of Empire|publisher=[[ブリル|BRILL]]|year=2016|isbn=978-90-04-33017-7|editor-last=Collins|editor-first=John Joseph|location=Leiden|pages=|chapter=Revolts in the Assyrian Empire: Succession Wars, Rebellions Against a False King and Independence Movements|editor-last2=Manning|editor-first2=Joseph Gilbert|chapter-url=https://www.academia.edu/28113365|url=https://books.google.com/books?id=0xP0DQAAQBAJ|name-list-style=amp|ref=harv}}<br>(『古代古典世界と近東における反乱と抵抗:帝国のるつぼ』(編:ジョン・コリンズ、ジョセフ・ギルバート・マニング、2016年、ブリル出版(オランダ))に収録されている『アッシリア帝国における反乱:戦争の継続、偽の王に対する反乱と独立運動』(著:カレン・ラドナー))


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2024年4月7日 (日) 01:15時点における最新版

アッシュル・ニラリ5世
アッシリア王

在位期間
前755年-前745年
先代 アッシュル・ダン3世
次代 ティグラト・ピレセル3世

死亡 前745年
父親 アダド・ニラリ3世
子女
ティグラト・ピレセル3世(?)
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アッシュル・ニラリ5世楔形文字 Aššur-nārāri、「アッシュル神は我が救い」[1]、在位:前755年-前745年[2])は新アッシリア帝国時代のアッシリア王。アダド・ニラリ3世(在位:前811年-前783年)の息子であり、兄弟のアッシュル・ダン3世から王位を継承した。彼が支配した時代はアッシリアの衰退期にあたっており、現存する同時代史料は僅かである。そのため、彼の治世については大まかな政治的動向を除き、僅かにしかわかっていない。

当時、アッシリアの官吏たちは王に対して勢力を増しており、アッシリアの外敵はより危険なものとなっていた。彼の治世中に外敵に対する遠征に費やされた期間の割合はアッシリア王の中でも例外的に少なく、これは恐らくアッシリア内の政治的な不安定を示すものである。前746年または前745年にはアッシリアの首都ニムルドにおける反乱が記録されている。アッシュル・ニラリ5世の跡に王位を継承したのはティグラト・ピレセル3世であった。彼はアッシュル・ニラリ5世の息子または弟であるが、詳細は不明である。ティグラト・ピレセル3世がアッシュル・ニラリ5世を退位させたというのが伝統的な見解であるが、正当かつスムーズな継承であった可能性もあり、また彼らが短期間共同統治を行っていた可能性もある。

治世

[編集]

アッシュル・ニラリ5世はアダド・ニラリ3世(在位:前811年-前783年)の息子である。前755年に兄弟であるアッシュル・ダン3世から王位を継いだ[3]。アッシュル・ニラリ5世の治世は残存情報が少なく、アッシリア史の中でも不明瞭な時代である[4]。そのため、彼の治世についてもほとんどわかっていない[5]。この頃の新アッシリア帝国は衰退期を迎えていた。特に、アッシュル・ニラリ5世の権力は極めて強力な官吏たちの登場によって脅かされていた。彼らはアッシュル・ニラリ5世の権威を認めていたが、実際には最も強力な支配権を振るい、建築事業や政治的活動についてアッシリア王たちと同様に自らの楔形文字碑文を書くようになった[6]。このような官吏たちの碑文はこの時代においてアッシリア王たちの碑文よりも数多く見られる[4]。そしてこの時代、アッシリアの敵国も強大化し、深刻な脅威となっていた。このアッシリアの衰退期は、北方にあるウラルトゥ王国の絶頂期にあたる[7]

後の時代にアッシュル・ニラリ5世に言及する碑文には『アッシリア王名表』(彼の治世期間はこれによって知られている)や彼の時代の紀年官を含むリンム表がある[5](通常、リンム/紀年官の名を用いた年名、および重要な出来事の情報が記載されている[8])。アッシュル・ニラリ5世に言及する同時代の碑文には、アッシュル・ニラリ5世を戦いで打ち破ったと主張するウラルトゥサルドゥリ2世の碑文がある[9]アルパド王Mati'iluとアッシュル・ニラリ5世の間で結ばれた条約の断片も現存している。また、官吏のマルドゥク・シャラ・ウツル(Marduk-sarra-usur)の戦功に対してアッシュル・ニラリ5世が土地と免税の特典を与えたことを記録する碑文も知られている。これはアッシュル・ニラリ5世自身によって残された唯一の碑文である。マルドゥク・シャラ・ウツルは(アッシュル・ニラリ5世の即位よりも30年前に当たる)前784年の紀年官(リンム)として言及される同名の人物と同一人物である可能性がある[5]

このリンム表に基づくならば、アッシュル・ニラリ5世の治世は軍事的に精彩を欠くものであった。彼は在位中のほとんどの期間「本国に留まった」(即ち、遠征に出なかった)ことが記録されており、外征に出たの3年間だけであった。彼が王位に登った前755年にアルパドへの遠征が行われた[10][11][12]。そして前748年から前747年にかけて、彼はウラルトゥのナムリ市へ遠征を行った[7][10]。アルパド王Mati'iluとの条約が締結されたのは恐らく前755年の遠征の結果によるものであろう。この条約の現存部分はほとんど全てMati'iluに対する呪詛で構成されている[11]。アッシリアの王は毎年遠征を行うのが通例であり、「本国に留まった」という言葉は記録の残る紀元前858年から紀元前699年までの間で15回しか使われていない[12]。従ってアッシュル・ニラリ5世がアッシリア本国に留まっていたことは内政の不安を示すものであると見ることができる。大半のアッシリア王が建築事業を起こしているが、アッシュル・ニラリ5世治世下で執り行われた建築事業は知られていない[13]

継承

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アッシュル・ニラリ5世は前745年に死亡したとするのが一般的である。これはこの年が彼の後継者ティグラト・ピレセル3世の即位年であるためである[3][5][14]。ティグラト・ピレセル3世の即位の経緯は不明である。これは特に、古代の史料がティグラト・ピレセル3世の系譜について矛盾する記録を残しているためである。『アッシリア王名表』はティグラト・ピレセル3世がアッシュル・ニラリ5世の息子であったとするが、ティグラト・ピレセル3世自身の碑文では自身をアダド・ニラリ3世の息子であるとしている。これに従うならばティグラト・ピレセル3世はアッシュル・ニラリ5世の兄弟である[15]。前746/745年にアッシリアの首都ニムルドでの反乱の記録が残されており[16][17][12]、ティグラト・ピレセル3世が碑文において自身の即位を王家の血統よりも神の選択の結果として記述していることから、ティグラト・ピレセル3世は通常、アッシュル・ニラリ5世から王位を簒奪したと考えられている[16]

歴史学者トレーシー・ダベンポート(Tracy Davenport)は2016年の博士論文において、ティグラト・ピレセル3世は完全に正当な形で王位を継承したのであり、さらには短期間アッシュル・ニラリ5世と共同統治を行ったとする仮説を出した。ダベンポートの見解は第一にティグラト・ピレセル3世時代のリンムの順序の異質さ、前744年の後に引かれた非常に珍しい水平線の書き込み(これはアッシュル・ニラリ5世の死亡を示すものである可能性がある)、そしてアッシュル・ニラリ5世に10年の治世年数を与える『アッシリア王名表』の記載に基づいている。アッシリア人は王の治世年数を、王が年間を通して王であった最初の年から数えたため、前754年がアッシュル・ニラリ5世の治世第1年であるとみなされた。つまり、アッシュル・ニラリ5世が10年間統治したとするならば、彼は前744年に死亡したことになる[18]。しかし、『アッシリア王名表』は誤りを含むことがわかっており、王名表の版によってそれ以前の幾人かの王に食い違いがある[19]

関連項目

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脚注

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  1. ^ Crouch 2014, p. 102.
  2. ^ The Assyrian King List”. Livius.org (26 July 2017). 27 October 2019閲覧。
    (『アッシリア王のリスト』(オランダの歴史学者ヨナ・レンダリングが開設するサイト「Livius.org」より))
  3. ^ a b Chen 2020, p. 200.
  4. ^ a b Grayson 2002, p. 239.
  5. ^ a b c d Grayson 2002, p. 246.
  6. ^ Grayson 2002, p. 200.
  7. ^ a b Grayson 1982, p. 276.
  8. ^ Frahm 2016, p. 83.
  9. ^ Stanley Arthur Cook; Martin Percival Charlesworth; John Bagnell Bury; John Bernard Bury (1924) (英語). The Cambridge Ancient History. Cambridge University Press. p. 277. https://books.google.co.jp/books?id=vXljf8JqmkoC&pg=PA277&dq=Ashur-nirari+V&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjbhI2btrzsAhWJFogKHay3AL8Q6AEwBHoECAcQAg#v=onepage&q=Ashur-nirari%20V&f=false 2020年10月18日閲覧。 
    (『ケンブリッジ古代史』(初版)(編:スタンリー・アーサー・クック、マーティン・チャールズワース、ジョン・バグネル・ベリー、ジョン・バーナード・ベリー、1924年、ケンブリッジ大学出版))
  10. ^ a b CDLI.
  11. ^ a b Grayson 1982, p. 277.
  12. ^ a b c Limmu List (858-699 BCE)”. Livius.org (2020年9月24日). 2020年10月16日閲覧。
    (リンム一覧(紀元前858~669年)(オランダの歴史学者ヨナ・レンダリングが開設するサイト「Livius.org」より)
  13. ^ Grayson 1982, p. 278.
  14. ^ Davenport 2016, pp. 36–37.
  15. ^ Chen 2020, pp. 200–201.
  16. ^ a b Davenport 2016, p. 36.
  17. ^ Radner 2016, p. 47.
  18. ^ Davenport 2016, pp. 37–41.
  19. ^ Hagens 2005, pp. 27–28.

参考文献

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先代
アッシュル・ダン3世
新アッシリア王
前754年 - 前745年
次代
ティグラト・ピレセル3世