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'''韓 徳銖'''(ハン・ドクス、한 덕수、[[1907年]][[2月18日]] - [[2001年]][[2月21日]])は、[[在日本朝鮮人総聯合会]](朝鮮総連)の初代議長。[[最高人民会議]]代議員を務めた。


== 経歴 ==
== 経歴 ==

2015年3月28日 (土) 09:20時点における版

韓 徳銖
한 덕수
生年月日 1907年2月18日
出生地 大日本帝国の旗 日本統治下朝鮮 慶尚北道慶山郡安心面東湖洞
没年月日 (2001-02-21) 2001年2月21日(94歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京都
所属政党 朝鮮労働党の旗 朝鮮労働党
称号 金日成勲章、金日成賞
共和国労働英雄、祖国統一賞
国旗勲章第1級、自由独立勲章
共和国創建記念勲章、総聯結成記念勲章

当選回数 7回
在任期間 1967年11月 - 2001年2月21日
最高指導者 金日成1948年 - 1994年
金正日(1994年 - 2011年

その他の職歴
朝鮮民主主義人民共和国の旗 初代在日本朝鮮人総聯合会
中央常任委員会議長

1955年5月25日 - 2001年2月21日)
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韓 徳銖
各種表記
ハングル 한 덕수
漢字 韓 徳銖
発音: ハン・ドクス
日本語読み: かん とくしゅ
ローマ字 Han Duck
英語表記: Han Duck
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韓 徳銖(ハン・ドクス、한 덕수、1907年2月18日 - 2001年2月21日)は、在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)の初代議長。最高人民会議代議員を務めた。

経歴

1907年朝鮮慶尚北道生まれ。1927年声楽家を目指して来日する。日本大学中退後、労働運動に参加する。1934年には朝鮮人労働者のストライキを指導したため逮捕・投獄された。

第二次世界大戦後の1945年10月15日、新たに結成された在日本朝鮮人連盟(朝連)に参加し、直後の第1回中央委員会において総務部担当委員に選出された[1]。しかし、連合国軍総司令部(GHQ)からは公職追放を受ける。1949年6月27日、北朝鮮において統一戦線組織「祖国戦線」が結成されると、翌28日には朝連代表として中央委員に選出された[2]

1955年5月25日、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の海外団体である「在日本朝鮮人総連合会」(朝鮮総連)が結成されると、6名の議長団の1人に選出されるとともに[3]、翌27日の第1回中央委員会において中央常任委員に選出された[4]1956年5月の第2回全体大会および1957年5月の第3回全体大会において議長団の1人として留任[5]

1958年5月の第4回全体大会において議長団が解体され、新たに議長・副議長制が導入されると、韓は単一の議長に選出され、権力を集中させた[6]。以後、2001年に死去するまで中央委員会議長を務めた。

日本各地に朝鮮学校を開設して在日朝鮮人の生活の向上に努めた。 1967年には北朝鮮の最高人民会議代議員に選出[7]1972年には「労働英雄」の称号を北朝鮮政府より受ける。1994年7月の金日成主席死去時には平壌に滞在して国家葬儀委員として金日成の葬儀に参列した。

朝鮮総連の議長として在日朝鮮人の愛国運動に貢献した功績から北朝鮮政府からは厚遇されていた。金日成主席の葬儀の際は、葬儀委員会の序列4位に挙げられた。また、日本の政治家とも太い人脈があった。

脚注

  1. ^ 朴(2012年)、36ページ
  2. ^ 朴(2012年)、47ページ。
  3. ^ 朴(2012年)、159ページ。
  4. ^ 朴(2012年)、160-161ページ。
  5. ^ 朴(2012年)、173・180-181ページ・。
  6. ^ 朴(2012年)、269-271ページ。
  7. ^ 朝鮮総連初代議長の10周忌、北朝鮮で盛大に開催」『聯合ニュース』2011年2月22日

参考文献

  • 朴正鎮『日朝冷戦構造の誕生 1945~1965 - 封印された外交史』平凡社、2012年

外部リンク