「ルドヴィーコ1世 (エトルリア王)」の版間の差分
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パルマ公[[フェルディナンド・ディ・ボルボーネ|フェルディナンド]]と、[[神聖ローマ皇帝]][[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ1世]]と[[マリア・テレジア]]の娘マリーア・アマーリアとの息子で、[[1795年]][[8月25日]][[マドリード]]にて、[[スペイン]]王[[カルロス4世 (スペイン王)|カルロス4世]]と[[マリア・ルイサ・デ・パルマ]](パルマ公[[フィリッポ・ディ・ボルボーネ|フィリッポ]]の娘)の娘で従妹のマリーア・ルイーザと結婚し、スペイン親王となった。この結婚により2人の子、[[カルロ・ルドヴィーコ・ディ・ボルボーネ|カルロ・ルドヴィーコ]](Carlo Ludovico)とマリーア・ルイーザ・カルロッタ(Maria Luisa Carlotta, [[1802年]]-[[1857年]])が生まれた。 |
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[[1800年]]に[[ナポレオン・ボナパルト]]が[[パルマ公国]]を征服した際、[[ブルボン家]]への代償として[[トスカーナ大公国]]を元に新しく造られた([[1801年]][[3月21日]])王国のエトルリアを与えたが、ルドヴィーコは「リヴォルノ伯」という名前でお忍び旅行の途中フランスを移動していて、その時に[[パリ]]で戴冠し、[[1801年]][[4月12日]]新しく首都となった[[フィレンツェ]]に戻った。あまり健康でなく[[てんかん]]に苦しんでいたと思われるルドヴィーコが1803年にわずか30歳で死亡し、王権は短い間しか持たなかった。彼の後は息子の[[カルロ・ルドヴィーコ・ディ・ボルボーネ|カルロ・ルドヴィーコ]]が母の摂政の下で継いだ。 |
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2008年11月5日 (水) 10:30時点における版
ルドヴィーコ1世・ディ・ボルボーネ(Ludovico (Luigi) I di Borbone, 1773年8月5日 - 1803年5月27日)は、2代続いたエトルリア王の初代である。
パルマ公フェルディナンドと、神聖ローマ皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの娘マリーア・アマーリアとの息子で、1795年8月25日マドリードにて、スペイン王カルロス4世とマリア・ルイサ・デ・パルマ(パルマ公フィリッポの娘)の娘で従妹のマリーア・ルイーザと結婚し、スペイン親王となった。この結婚により2人の子、カルロ・ルドヴィーコ(Carlo Ludovico)とマリーア・ルイーザ・カルロッタ(Maria Luisa Carlotta, 1802年-1857年)が生まれた。
1800年にナポレオン・ボナパルトがパルマ公国を征服した際、ブルボン家への代償としてトスカーナ大公国を元に新しく造られた(1801年3月21日)王国のエトルリアを与えたが、ルドヴィーコは「リヴォルノ伯」という名前でお忍び旅行の途中フランスを移動していて、その時にパリで戴冠し、1801年4月12日新しく首都となったフィレンツェに戻った。あまり健康でなくてんかんに苦しんでいたと思われるルドヴィーコが1803年にわずか30歳で死亡し、王権は短い間しか持たなかった。彼の後は息子のカルロ・ルドヴィーコが母の摂政の下で継いだ。
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