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|author = 高木翔之助 |
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|title = 冀東政権の正体 |
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2009年7月14日 (火) 16:42時点における版
李垣 | |
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プロフィール | |
出生: | 1879年 |
死去: | 不詳 |
出身地: | 清直隷省大興県 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 李垣 |
簡体字: | 李垣 |
拼音: | Lǐ Yuán |
和名表記: | り えん |
発音転記: | リー ユエン |
李垣(り えん)は中華民国の政治家。字は謙六。
事跡
北京同文館を卒業。最初は東三省に赴任し、吉林交渉局提調、ハルビン鉄路交渉局提調を歴任した。その後にロシアへ留学し、サンクトペテルブルク大学で学ぶ。卒業後は駐ロシア公使館で通訳官を担当した。中華民国成立後は、北京政府の国務院法制局編訳員に任命され、1913年(民国2年)に法制局検事、翌年に署理法制局参事を歴任している。
その後、李垣は、モンゴル(外蒙古)で官職を歴任する。1918年(民国7年)3月に恰克図佐理員に任じられ、1920年(民国9年)7月には、徐樹錚の辞任を受けて護理西北籌備使を兼任した。同年9月、烏努烏梁海参賛へ遷り、12月、さらに科布多(ホブド)参賛に遷った。翌年3月、庫烏科唐鎮撫使陳毅がモンゴル軍とロシア白軍に敗北し、北京政府から罷免されると、李垣が代理庫烏科唐鎮撫使を兼任した。しかし1922年(民国11年)、ソビエト連邦の支援を受けたモンゴルのボグド・ハーン政権により、蒙古での北京政府の役職は一掃された。これにより、李垣は蒙古での地位を失っている。なお、蒙古にあった間、外蒙冊封副使、蒙疆経略使署左参賛なども務めた。
1925年(民国14年)、善後会議会員となり、7月には、臨時参政院参政となった。翌年9月には、京兆尹兼北京市長に任ぜられた。1927年(民国16年)、辞職している。
1935年(民国24年)11月、殷汝耕が冀東防共自治委員会(翌月、冀東防共自治政府に改組)を成立させると、李垣もこれに参加し、貨物査検所長に任命された。
以後、李垣の行方は不詳である。
参考文献
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03140-1{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。。
- 高木翔之助『冀東政権の正体』北支那社、1937年。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。