コンテンツにスキップ

「李垣」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m 事跡: 冀東防共自治政府につき加筆
m 参考文献: 参考文献追加、+cat
35行目: 35行目:
|publisher = 河北人民出版社
|publisher = 河北人民出版社
|isbn = 978-7-202-03140-1
|isbn = 978-7-202-03140-1
}}</span>
* <span style="font-size:90%;">{{Cite book|和書
|author = 高木翔之助
|title = 冀東政権の正体
|year = 1937
|publisher = 北支那社
|isbn =
}}</span>
}}</span>
* <span style="font-size:90%;">{{Cite book|和書
* <span style="font-size:90%;">{{Cite book|和書
49行目: 56行目:
{{DEFAULTSORT:り えん}}
{{DEFAULTSORT:り えん}}
[[Category:中華民国の人物]]
[[Category:中華民国の人物]]
[[Category:中国の政治家]]
[[Category:中華民国の政治家]]
[[Category:北京出身の人物]]
[[Category:北京出身の人物]]
[[Category:中華民国期親日政府の人物]]
[[Category:1879年生]]
[[Category:1879年生]]

2009年7月14日 (火) 16:42時点における版

李垣
プロフィール
出生: 1879年
死去: 不詳
出身地: 清の旗 直隷省大興県
職業: 政治家
各種表記
繁体字 李垣
簡体字 李垣
拼音 Lǐ Yuán
和名表記: り えん
発音転記: リー ユエン
テンプレートを表示

李垣(り えん)は中華民国の政治家。字は謙六

事跡

北京同文館を卒業。最初は東三省に赴任し、吉林交渉局提調、ハルビン鉄路交渉局提調を歴任した。その後にロシアへ留学し、サンクトペテルブルク大学で学ぶ。卒業後は駐ロシア公使館で通訳官を担当した。中華民国成立後は、北京政府の国務院法制局編訳員に任命され、1913年民国2年)に法制局検事、翌年に署理法制局参事を歴任している。

その後、李垣は、モンゴル(外蒙古)で官職を歴任する。1918年(民国7年)3月に恰克図佐理員に任じられ、1920年(民国9年)7月には、徐樹錚の辞任を受けて護理西北籌備使を兼任した。同年9月、烏努烏梁海参賛へ遷り、12月、さらに科布多(ホブド)参賛に遷った。翌年3月、庫烏科唐鎮撫使陳毅がモンゴル軍とロシア白軍に敗北し、北京政府から罷免されると、李垣が代理庫烏科唐鎮撫使を兼任した。しかし1922年(民国11年)、ソビエト連邦の支援を受けたモンゴルのボグド・ハーン政権により、蒙古での北京政府の役職は一掃された。これにより、李垣は蒙古での地位を失っている。なお、蒙古にあった間、外蒙冊封副使、蒙疆経略使署左参賛なども務めた。

1925年(民国14年)、善後会議会員となり、7月には、臨時参政院参政となった。翌年9月には、京兆尹兼北京市長に任ぜられた。1927年(民国16年)、辞職している。

1935年(民国24年)11月、殷汝耕が冀東防共自治委員会(翌月、冀東防共自治政府に改組)を成立させると、李垣もこれに参加し、貨物査検所長に任命された。

以後、李垣の行方は不詳である。

参考文献

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03140-1{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 
  • 高木翔之助『冀東政権の正体』北支那社、1937年。 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1