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'''横穴墓'''(おうけつぼ、よこあなぼ)とは、一般には台地や段丘の斜面に高さ2メートル前後の穴を掘り、人間を埋葬した施設のことである。古代東アジア社会などでもみられるが、本項では日本考古学の用語として解説する。 |
'''横穴墓'''(おうけつぼ、よこあなぼ)とは、一般には台地や段丘の斜面に高さ2メートル前後の穴を掘り、人間を埋葬した施設のことである。 |
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古代東アジア社会などでもみられるが、本項では日本考古学の用語として解説する。 |
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構造は、[[横穴式石室]]に似ている。墳丘をもたないのが通例であるが、例外も少しある。玄室には棺や棺を置く台を削りだした例もある。天井形態は、家形・ドーム形・アーチ形がある。また、前室が造られていたり、羨道の前に前庭が造られていたりする例がある。<ref>参考文献の『岩波 日本史辞典』(1999年)「横穴」の項参照 1166ページ</ref> |
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単独で存在することは稀で、おおむね複数からなる横穴墓群を構成する。また線刻画をともなうこともある。九州および関東から東北地方南部の太平洋沿岸では、彩色が施された例もいくつかみられる。これらは[[装飾古墳]]にも位置づけられる。 |
単独で存在することは稀で、おおむね複数からなる横穴墓群を構成する。また線刻画をともなうこともある。九州および関東から東北地方南部の太平洋沿岸では、彩色が施された例もいくつかみられる。これらは[[装飾古墳]]にも位置づけられる。 |
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== 起源と変遷 == |
== 起源と変遷 == |
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[[5世紀]]後半の[[九州]]北部に淵源を持つと考えられている。おもに[[6世紀]] |
[[5世紀]]後半の[[九州]]北部の豊前地域に淵源を持つと考えられている。おもに[[6世紀]]中葉に山陰・山陽近畿・東海まで盛行した。7世紀初頭までには北陸・関東・東北南部まで分布した。[[薄葬令]]前後から爆発的に増加した。一部では[[8世紀]]中頃までに終焉。<ref>参考文献の『岩波 日本史辞典』(1999年)「横穴」の項参照 1166ページ</ref> |
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== 名称 == |
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'''横穴古墳'''ともいうが、正確には[[古墳]]とは[[墳丘]]を持つ高塚古墳を意味するため、横穴墓というべきである。ただし分類上は広義の「古墳」に含まれる。また人工の墳丘の側面から埋葬する施設( |
'''横穴古墳'''ともいうが、正確には[[古墳]]とは[[墳丘]]を持つ高塚古墳を意味するため、横穴墓というべきである。ただし分類上は広義の「古墳」に含まれる。また人工の墳丘の側面から埋葬する施設(横穴式石室)を持つ「横穴式」古墳のことを横穴墓とはいわない。さらに中世日本でも、[[鎌倉]]市中で同様の[[墓制]]が存在したが、この場合[[やぐら]]とよぶ。 |
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== 分布と有名な横穴墓 == |
== 分布と有名な横穴墓 == |
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*十王免横穴群([[島根県]][[松江市]]) |
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*石貫ナギノ横穴墓群([[熊本県]][[玉名市]]) |
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== 文献 == |
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*池上悟『日本の横穴墓』(雄山閣出版、[[2000年]]) |
*池上悟『日本の横穴墓』(雄山閣出版、[[2000年]]) |
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*池上悟『日本横穴墓の形成と展開』(雄山閣出版、[[2004年]]) |
*池上悟『日本横穴墓の形成と展開』(雄山閣出版、[[2004年]]) |
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*永原慶二監修 石上英一他編集『岩波 日本史辞典』岩波書店 1999年 ISBN 4-00-080093-0 |
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== 関連項目 == |
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*[[積石塚]] |
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2010年5月27日 (木) 22:54時点における版
横穴墓(おうけつぼ、よこあなぼ)とは、一般には台地や段丘の斜面に高さ2メートル前後の穴を掘り、人間を埋葬した施設のことである。 古代東アジア社会などでもみられるが、本項では日本考古学の用語として解説する。
形態
構造は、横穴式石室に似ている。墳丘をもたないのが通例であるが、例外も少しある。玄室には棺や棺を置く台を削りだした例もある。天井形態は、家形・ドーム形・アーチ形がある。また、前室が造られていたり、羨道の前に前庭が造られていたりする例がある。[1]
単独で存在することは稀で、おおむね複数からなる横穴墓群を構成する。また線刻画をともなうこともある。九州および関東から東北地方南部の太平洋沿岸では、彩色が施された例もいくつかみられる。これらは装飾古墳にも位置づけられる。
起源と変遷
5世紀後半の九州北部の豊前地域に淵源を持つと考えられている。おもに6世紀中葉に山陰・山陽近畿・東海まで盛行した。7世紀初頭までには北陸・関東・東北南部まで分布した。薄葬令前後から爆発的に増加した。一部では8世紀中頃までに終焉。[2]
名称
横穴古墳ともいうが、正確には古墳とは墳丘を持つ高塚古墳を意味するため、横穴墓というべきである。ただし分類上は広義の「古墳」に含まれる。また人工の墳丘の側面から埋葬する施設(横穴式石室)を持つ「横穴式」古墳のことを横穴墓とはいわない。さらに中世日本でも、鎌倉市中で同様の墓制が存在したが、この場合やぐらとよぶ。
分布と有名な横穴墓
九州から山陰、近畿をはじめとし、北陸、東海をへて、特に南関東が多い。北限は宮城県北部といわれている。静岡県内では約3000基を数える。
- 清戸さく横穴墓(福島県双葉町)
- 泉崎横穴墓(福島県西白河郡泉崎村)
- 中田横穴墓(福島県いわき市)
- 吉見百穴(埼玉県比企郡吉見町)
- 黒岩横穴墓群(埼玉県比企郡吉見町)
- 長柄横穴墓群徳増支群(千葉県長生郡長柄町)
- 市宿横穴墓群(千葉県君津市)
- 出山横穴墓群(東京都三鷹市)
- 塚越横穴墓群(東京都大田区)
- 市ヶ尾横穴墓群(神奈川県横浜市青葉区)
- 柏谷横穴郡(かしや、静岡県函南町、106基)
- 北江間横穴郡(静岡県沼津市伊豆の国市伊豆長岡町、101基)
- 法皇山横穴墓群(石川県加賀市)
- 高井田横穴墓群(大阪府柏原市)
- 十王免横穴群(島根県松江市)
- 石貫ナギノ横穴墓群(熊本県玉名市)
脚注
文献
- 金井塚良一『吉見百穴横穴墓群の研究』(校倉書房、1975年)
- 池上悟『横穴墓』(ニュー・サイエンス社、1980年)
- 池上悟『日本の横穴墓』(雄山閣出版、2000年)
- 池上悟『日本横穴墓の形成と展開』(雄山閣出版、2004年)
- 永原慶二監修 石上英一他編集『岩波 日本史辞典』岩波書店 1999年 ISBN 4-00-080093-0