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「千徳氏」の版間の差分

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一戸行重の次男、長重は[[石川高信]]に従って[[浅瀬石村]]を与えられ浅瀬石氏を称した<ref>『岩手県史』収録「浅瀬石家譜」</ref>。浅瀬石長重と子の長定らは[[浪岡城]]を攻撃した[[津軽為信]]と戦い討ち死にしている<ref group="注釈">『[[津軽一統志]]』ではこの戦いを天正6(1578)年のこととしているが、南部側の記録では天正16年のことだとしている。</ref>。しかし長定の子が生き延び、浅石清四郎と称して[[岩崎一揆|岩崎合戦]]および[[大坂の陣]]へ参陣した南部軍に従軍している<ref>『宮古市史』41p</ref>。一方千徳城に残った一戸孫三郎は、[[南部信直]]により滅ぼされたと言われている。<br />
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また、浅瀬石城に移った[[千徳政氏]]は津軽為信と同盟し<ref group="注釈">この同盟は[[永禄]]4年(1561年)になされたと言われるが、為信の生年を考えると不自然である。[[大宝寺義氏]]の書状によると天正9年秋の時点で浅瀬石城や周辺緒城が落ち、翌天正10年にかけて[[大光寺城]]を攻めていることが分かる。従って、一戸千徳氏の浅瀬石入城および為信との同盟はこの前後の事と考えられる。</ref>、天正13年([[1585年]])には[[田舎館城]]主、[[千徳政武]]を攻め滅ぼしている。しかし、政氏嫡子、政康の代に同盟が破綻、居城浅瀬石城を攻められ、浅瀬石千徳氏は滅亡した。


[[津軽石氏]]は一般に千徳氏の一族だとされているが、津軽石氏の系図ではそれを裏付けるような記述は見られない。
[[津軽石氏]]は一般に千徳氏の一族だとされているが、津軽石氏の系図ではそれを裏付けるような記述は見られない。
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== 千徳氏の謎 ==
== 千徳氏の謎 ==
一戸系千徳氏と浅瀬石系千徳氏との関係は史料に食い違いが多く、謎が多い。恐らくは、[[千徳城]]いた河北[[閉伊]]が千徳氏を称し、その閉伊氏系千徳の一南部氏に下り[[浅瀬石城]]を築いて土着したものだと考えられる。田舎舘の千徳この系統だる。戦国時代に入り、閉伊氏系千徳氏が[[津軽為信]]との抗争で没落、天正一戸系千徳氏が浅瀬石城主なるに従、両者系図が混同されたものだ考えられる。
一戸系千徳氏と在来の黒石系千徳氏との関係は史料に食い違いが多く、謎が多い。『黒石星田家文書』いた黒石藩士、秋元氏は[[閉伊頼基]]の子孫を称しており更には千徳の地を領有したと言っていること、戸行重華厳院([[岩手県]][[宮古市]]花原市)に葬られたとしていこと、などから古くから[[閉伊]]の分流がこの地に土着していたこを窺る。しかも華厳院を天台宗としており、(華厳院は[[延徳]]年に天台宗から曹洞宗改宗してる)そ時期は延徳元年(1489年)以前に遡る思われる。<br />
ただし一戸行重は戦国期の人物であり、この文書にある千徳系図は創作である可能性が高い。ただ、[[千徳城]]を築いて千徳氏を称した河北[[閉伊氏]]の一族の中で、南部氏に下り[[浅瀬石城]]に入って土着したものがあったのだろうとは考えられる。また田舎舘の千徳氏もこの系統だと思われる。戦国時代に入り、閉伊氏系千徳氏が[[津軽為信]]との抗争で没落、天正年間に一戸系千徳氏が新しく浅瀬石城主になるに従い、両家の系図を混同したものだと考えられる。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2012年1月20日 (金) 12:26時点における版

千徳氏
本姓 清和源氏 甲斐源氏南部氏庶流一戸氏流
家祖 一戸行重
種別 武家
出身地 陸奥国
主な根拠地 陸奥国閉伊郡および津軽田舎郡
著名な人物 千徳政氏
支流、分家 浅石氏
八木沢氏
凡例 / Category:日本の氏族

千徳氏(せんとくし)または浅瀬石千徳氏(あせいしせんとくし)は陸奥国を本拠とした氏族。

出自

千徳氏は南部氏流一戸氏の一族、一戸行重を祖とするとされる。戦国時代、南部氏が閉伊氏の分流、河北閉伊氏を滅ぼし、その目代として送り込んだ一戸氏が千徳城に入り千徳氏を称したのが始まりだとされている[1]。『南部史要』によると天文3(1535)年に閉伊に騒乱があり、南部晴政の命で石川高信櫻庭光康がこれを平定したとあるため、一戸氏の千徳領有はこれ以後だとも考えられる。また『宮古由来記』では千徳氏が閉伊郡黒田村を領有したのを天文21(1552)年からだとしている[注釈 1]。 後に石川高信に従い、浅瀬石村を与えられた一族が浅瀬石氏を称した。

歴史

最初一戸行重が閉伊郡千徳城主となり、「千徳」を称した。千徳政吉の代に石川政信の補佐のため浅瀬石城主になったとされ、『石井三庵覚書』ではこれを天正9年のこととしている[2]
『黒石星田家文書』は一戸行重を鎌倉時代の人物とし、千徳氏の以後に繋がる系図を記しているが信憑性に欠け、そのままには信用できない[注釈 2]

一戸行重の次男、長重は石川高信に従って浅瀬石村を与えられ浅瀬石氏を称した[3]。浅瀬石長重と子の長定らは浪岡城を攻撃した津軽為信と戦い討ち死にしている[注釈 3]。しかし長定の子が生き延び、浅石清四郎と称して岩崎合戦および大坂の陣へ参陣した南部軍に従軍している[4]。一方千徳城に残った一戸孫三郎は、南部信直により滅ぼされたと言われている。
また、浅瀬石城に移った千徳政氏は津軽為信と同盟し[注釈 4]、天正13年(1585年)には田舎館城主、千徳政武を攻め滅ぼしている。しかし、政氏嫡子、政康の代に同盟が破綻、居城浅瀬石城を攻められ、浅瀬石千徳氏は滅亡した。

津軽石氏は一般に千徳氏の一族だとされているが、津軽石氏の系図ではそれを裏付けるような記述は見られない。

一戸千徳氏系図

[注釈 5]

    一戸行朝
    ∥
   一戸信実  
    ∥
   一戸忠行 
    ∥
   一戸行重(千徳氏祖)
        ┣━━━━┳━━━━━━┓     
     千徳政明  浅瀬石長重    江繋正朝
        ┃    ┃      ┃ 
    政吉   長定     行光
        ┃    ┃      ┃
      政氏  浅石清四郎  八木沢光興
        ┃        
       政康      

千徳氏の謎

一戸系千徳氏と在来の黒石系千徳氏との関係は史料に食い違いが多く、謎が多い。『黒石星田家文書』を書いた黒石藩士、秋元氏は閉伊頼基の子孫を称しており、更には千徳の地を領有したと言っていること、一戸行重が華厳院(岩手県宮古市花原市)に葬られたとしていること、などから古くから閉伊氏の分流がこの地に土着していたことを窺わせる。しかも華厳院を天台宗としており、(華厳院は延徳元年に天台宗から曹洞宗に改宗している)その時期は延徳元年(1489年)以前に遡ると思われる。
ただし一戸行重は戦国期の人物であり、この文書にある千徳系図は創作である可能性が高い。ただ、千徳城を築いて千徳氏を称した河北閉伊氏の一族の中で、南部氏に下り浅瀬石城に入って土着したものがあったのだろうとは考えられる。また田舎舘の千徳氏もこの系統だと思われる。戦国時代に入り、閉伊氏系千徳氏が津軽為信との抗争で没落、天正年間に一戸系千徳氏が新しく浅瀬石城主になるに従い、両家の系図を混同したものだと考えられる。

脚注

注釈

  1. ^ 『宮古市史』 75pに「千徳安芸」とあり、安芸守を称した浅瀬石長重の事を指すと思われる。
  2. ^ 閉伊氏系千徳氏と一戸系千徳氏を混同して書いているものと考えられる。
  3. ^ 津軽一統志』ではこの戦いを天正6(1578)年のこととしているが、南部側の記録では天正16年のことだとしている。
  4. ^ この同盟は永禄4年(1561年)になされたと言われるが、為信の生年を考えると不自然である。大宝寺義氏の書状によると天正9年秋の時点で浅瀬石城や周辺緒城が落ち、翌天正10年にかけて大光寺城を攻めていることが分かる。従って、一戸千徳氏の浅瀬石入城および為信との同盟はこの前後の事と考えられる。
  5. ^ 『岩手県史』収録の一戸氏系図および一戸千徳系図、江繋系図、浅瀬石系譜より作成

出典

  1. ^ 『奥南落穂集』「閉伊郡之次第」の項
  2. ^ 『岩手県史』第三巻438p
  3. ^ 『岩手県史』収録「浅瀬石家譜」
  4. ^ 『宮古市史』41p

参考文献

『宮古市史 資料集 近世Ⅰ』
『岩手県史』第二巻 第三巻

関連項目