コンテンツにスキップ

「大阪市立鶴町小学校」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
35行目: 35行目:
[[太平洋戦争]]の戦局悪化により、1944年9月以降[[学童疎開|学童集団疎開]]が実施されることになった。疎開先は各行政区ごとに指定され、大正区の国民学校には[[徳島県]]が疎開先として割り当てられた。
[[太平洋戦争]]の戦局悪化により、1944年9月以降[[学童疎開|学童集団疎開]]が実施されることになった。疎開先は各行政区ごとに指定され、大正区の国民学校には[[徳島県]]が疎開先として割り当てられた。


鶴町国民学校の児童は徳島県[[名西郡]][[石井町]]・[[藍畑村]]・[[浦庄村]]・[[高原村 (徳島県)|高原村]](以上、現在の石井町)、[[高志村 (徳島県)|高志村]](現在の[[板野郡]][[上板町]])に疎開することになった。また新千歳国民学校の児童は[[三好郡]][[池田町 (徳島県)|池田町]](現在の[[三好市]])へと疎開することになった。港南国民学校の児童は[[那賀郡]]桑野町・見能林村(いずれも現在の[[阿南市]])へと疎開している。
鶴町国民学校の児童は徳島県[[名西郡]][[石井町]]・[[藍畑村]]・[[浦庄村]]・[[高原村 (徳島県)|高原村]](以上、現在の石井町)、[[高志村 (徳島県)|高志村]](現在の[[板野郡]][[上板町]])に疎開することになった。また新千歳国民学校の児童は[[三好郡]][[池田町 (徳島県)|池田町]](現在の[[三好市]])へと疎開することになった。港南国民学校の児童は[[那賀郡]]桑野町・[[見能林村]](いずれも現在の[[阿南市]])へと疎開している。


[[1945年]]3月の第一次[[大阪大空襲]]では港南国民学校の校舎が全焼した。また同年[[6月1日]]の大空襲では鶴町国民学校の校舎が全焼・新千歳国民学校の校舎が半焼する被害を受けた。
[[1945年]]3月の第一次[[大阪大空襲]]では港南国民学校の校舎が全焼した。また同年[[6月1日]]の大空襲では鶴町国民学校の校舎が全焼・新千歳国民学校の校舎が半焼する被害を受けた。

2012年3月14日 (水) 06:15時点における版

大阪市立鶴町小学校
過去の名称 大阪市鶴町尋常小学校
大阪市鶴町尋常高等小学校
大阪市鶴町国民学校
国公私立の別 公立学校
設置者 大阪市
設立年月日 1921年
共学・別学 男女共学
所在地 551-0023
大阪市大正区鶴町2丁目6番24号
北緯34度38分22.6秒 東経135度27分22.6秒 / 北緯34.639611度 東経135.456278度 / 34.639611; 135.456278
外部リンク 公式サイト未開設
プロジェクト:学校/小学校テンプレート
テンプレートを表示

大阪市立鶴町小学校(おおさかしりつ つるまちしょうがっこう)は、大阪府大阪市大正区にある公立小学校

沿革

学校創立

大阪市の築港計画によって大正時代に鶴町地区が埋め立て・開発されたことに伴い、大阪市泉尾第二尋常小学校(現在の大阪市立泉尾北小学校)より分離する形で、大阪市鶴町尋常小学校として1921年に現在地に開校した。

開校直後にも地域の児童数が増え続けたため、従来の校区の一部を分離して大阪市南恩加島尋常小学校(現・大阪市立南恩加島小学校、1924年創立)、大阪市港南尋常小学校(のち港南国民学校。1930年創立・1946年廃校)、大阪市新千歳尋常小学校(のち新千歳国民学校、1938年創立・1946年廃校)が相次いで開校している。

港南尋常小学校は鶴町・南恩加島の両校の校区を再編し、また新千歳尋常小学校は鶴町小学校より分離した。

国民学校

1941年には国民学校令の実施により、大阪市鶴町国民学校へと改編された。また港南尋常小学校は港南国民学校・新千歳尋常小学校は新千歳国民が校へと改称している。

太平洋戦争の戦局悪化により、1944年9月以降学童集団疎開が実施されることになった。疎開先は各行政区ごとに指定され、大正区の国民学校には徳島県が疎開先として割り当てられた。

鶴町国民学校の児童は徳島県名西郡石井町藍畑村浦庄村高原村(以上、現在の石井町)、高志村(現在の板野郡上板町)に疎開することになった。また新千歳国民学校の児童は三好郡池田町(現在の三好市)へと疎開することになった。港南国民学校の児童は那賀郡桑野町・見能林村(いずれも現在の阿南市)へと疎開している。

1945年3月の第一次大阪大空襲では港南国民学校の校舎が全焼した。また同年6月1日の大空襲では鶴町国民学校の校舎が全焼・新千歳国民学校の校舎が半焼する被害を受けた。

戦災の影響で鶴町・新千歳の両校は1946年に休校となり、大阪市北恩加島国民学校(1947年学制改革により大阪市立北恩加島小学校)に統合された。

また港南国民学校も1946年休校(のち廃校)となり、大阪市南恩加島国民学校(1947年学制改革により大阪市立南恩加島小学校)に統合されている。港南国民学校跡地は大阪市立大正西中学校として転用されている。

学校再開

地域の復興に伴い、1949年に大阪市立鶴町小学校として再開校した。当初は旧新千歳国民学校跡に仮校舎を設置した。1950年には現在地に校舎が復興して移転している。

なお、仮校舎として使用されていた旧新千歳国民学校およびその周辺地域は、大正内港の建設に伴い、内港の敷地として海中に沈んでいる。

1950年ジェーン台風1961年第2室戸台風ではそれぞれ、校舎浸水の被害を受けている。

1970年代後半以降、地域の児童数の激増傾向が目立つようになった。1975年頃から分校設置要望が具体化し、1980年に大阪市港湾局用地を転用して分校を設置した。

1981年に分校が大阪市立鶴浜小学校として独立し、おおむね大正通以西在住の5年生以下児童が鶴浜小学校へと移っている。

年表

通学区域

  • 大阪市大正区 鶴町1丁目(ほぼ全域)、鶴町2-4丁目のうち大正通以東、鶴町5丁目。
卒業生は大阪市立大正西中学校へ進学する。

出身者

交通

参考文献

  • 大阪市立鶴町小学校『つるまち - 創立80周年記念誌』2001年。 
  • 大阪市立鶴町小学校創立60周年・大阪市立鶴浜小学校開校記念委員会『つるまち - 鶴町小学校創立60周年、鶴浜小学校開校記念誌』1981年。 

関連項目