コンテンツにスキップ

「腆支王」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
rv
Nidarin (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
1行目: 1行目:
{{即時削除|初版に書籍の著作権侵害のおそれが有るため。}}
{{朝鮮の事物|
title=腆支王|
alphabet-type=[[英語]]|
alphabet=Jeonji-wang|
hangeul=전지왕|
hanja=腆支王,直支王|
katakana=チョンジワン,ときおう|
}}

'''腆支王'''(チョンジワン、ときおう 生年不詳 - [[420年]])は[[百済]]王(在位405-420年)。別名を直支王。日本書紀では直支(とき)とする。中国名は余映もしくは余腆。[[阿シン王|阿莘王]]の長子。

394年に太子になり、397年に[[倭国]]へ人質として送られた。

405年、阿華王が亡くなると阿華王の次男訓解が摂政を行ったが、末弟の碟禮(セツレイ)が訓解を殺し王に立った為に当時日本に居た腆支は倭王に請い、倭王は精鋭を護衛に付け帰国させると百済の民は碟禮を殺し腆支を王に迎えた。

416年、[[東晋]]によって、使持節都督百済諸軍事鎮東将軍百済王に冊封される。

420年に亡くなった。

{{先代次代|[[百済]]の[[朝鮮国王の一覧#百済|国王]]|第17代:405年-420年| [[阿シン王|阿莘王]] |[[久尓辛王]]}}
[[Category:朝鮮史の人物|ときおう]]
[[Category:朝鮮国王|ときおう]]
[[en:Jeonji_of_Baekje]]

2006年1月17日 (火) 06:25時点における版