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千徳氏は[[南部氏]]流[[一戸氏]]の一族、[[一戸行重]]を祖とするとされる。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、南部氏が[[閉伊氏]]の分流、河北閉伊氏を滅ぼし、その[[目代]]として送り込んだ一戸氏が[[千徳城]]に入り千徳氏を称したのが始まりだとされている<ref>『奥南落穂集』「閉伊郡之次第」の項</ref>。『南部史要』によると[[天文 (元号)|天文]]3年(1535年)に閉伊に騒乱があり、[[南部晴政]]の命で[[石川高信]]と[[櫻庭光康]]がこれを平定したとあるため、一戸氏の千徳領有はこれ以後だとも考えられる。また『宮古由来記』では千徳氏が閉伊郡黒田村を領有したのを天文21年(1552年)からだとしている<ref group="注釈">『宮古市史』 75pに「千徳安芸」とあり、安芸守を称した浅瀬石長重の事を指すと思われる。 </ref>。後に[[石川高信]]に従い、[[浅瀬石村]]を与えられた一族が浅瀬石氏を称した。 |
千徳氏は[[南部氏]]流[[一戸氏]]の一族、[[一戸行重]]を祖とするとされる。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、南部氏が[[閉伊氏]]の分流、河北閉伊氏を滅ぼし、その[[目代]]として送り込んだ一戸氏が[[千徳城]]に入り千徳氏を称したのが始まりだとされている<ref>『[[奥南落穂集]]』「閉伊郡之次第」の項</ref>。『南部史要』によると[[天文 (元号)|天文]]3年(1535年)に閉伊に騒乱があり、[[南部晴政]]の命で[[石川高信]]と[[櫻庭光康]]がこれを平定したとあるため、一戸氏の千徳領有はこれ以後だとも考えられる。また『宮古由来記』では千徳氏が閉伊郡黒田村を領有したのを天文21年(1552年)からだとしている<ref group="注釈">『宮古市史』 75pに「千徳安芸」とあり、安芸守を称した浅瀬石長重の事を指すと思われる。 </ref>。後に[[石川高信]]に従い、[[浅瀬石村]]を与えられた一族が浅瀬石氏を称した。 |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
2012年9月14日 (金) 08:12時点における版
千徳氏 | |
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本姓 | 清和源氏 甲斐源氏南部氏庶流一戸氏流 |
家祖 | 一戸行重 |
種別 | 武家 |
出身地 | 陸奥国 |
主な根拠地 | 陸奥国閉伊郡および津軽田舎郡 |
著名な人物 | 千徳政氏 |
支流、分家 |
浅石氏 八木沢氏 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
千徳氏(せんとくし)または浅瀬石千徳氏(あせいしせんとくし)は陸奥国を本拠とした氏族。
出自
千徳氏は南部氏流一戸氏の一族、一戸行重を祖とするとされる。戦国時代、南部氏が閉伊氏の分流、河北閉伊氏を滅ぼし、その目代として送り込んだ一戸氏が千徳城に入り千徳氏を称したのが始まりだとされている[1]。『南部史要』によると天文3年(1535年)に閉伊に騒乱があり、南部晴政の命で石川高信と櫻庭光康がこれを平定したとあるため、一戸氏の千徳領有はこれ以後だとも考えられる。また『宮古由来記』では千徳氏が閉伊郡黒田村を領有したのを天文21年(1552年)からだとしている[注釈 1]。後に石川高信に従い、浅瀬石村を与えられた一族が浅瀬石氏を称した。
歴史
最初一戸行重が閉伊郡千徳城主となり、「千徳」を称した。千徳政吉の代に石川政信の補佐のため浅瀬石城主になったとされ、『石井三庵覚書』ではこれを天正9年(1581年)のこととしている[2]。
『黒石星田家文書』は一戸行重を鎌倉時代の人物とし、千徳氏の以後に繋がる系図を記しているが信憑性に欠け、そのままには信用できない[注釈 2]。
一戸行重の次男、長重は石川高信に従って浅瀬石村を与えられ浅瀬石氏を称した[3]。浅瀬石長重と子の長定らは浪岡城を攻撃した津軽為信と戦い討ち死にしている[注釈 3]。しかし長定の子が生き延び、浅石清四郎と称して岩崎合戦および大坂の陣へ参陣した南部軍に従軍している[4]。一方千徳城に残った一戸孫三郎は、南部信直により滅ぼされたと言われている。
また、浅瀬石城に移った千徳政氏は津軽為信と同盟し[注釈 4]、天正13年(1585年)には田舎館城主、千徳政武を攻め滅ぼしている。しかし、政氏嫡子、政康の代に同盟が破綻、居城浅瀬石城を攻められ、浅瀬石千徳氏は滅亡した。
津軽石氏は一般に千徳氏の一族だとされているが、津軽石氏の系図ではそれを裏付けるような記述は見られない。
一戸千徳氏系図
一戸行朝 ∥ 一戸信実 ∥ 一戸忠行 ∥ 一戸行重(千徳氏祖) ┣━━━━━━━━┳━━━━━━┓ 千徳政光 浅瀬石長重 江繋正朝 ┣━━━┓ ┃ ┃ 政吉 政氏 長定 行光 ┃ ┃ ┃ 政康 浅石清四郎 八木沢光興
千徳氏の謎
一戸系千徳氏と在来の黒石系千徳氏との関係は史料に食い違いが多く、謎が多い。『黒石星田家文書』を書いた黒石藩士、秋元氏は閉伊頼基の子孫を称しており、更には千徳の地を領有したと言っていること、一戸行重が華厳院(岩手県宮古市花原市)に葬られたとしていること、などから古くから閉伊氏の分流がこの地に土着していたことを窺わせる。しかも華厳院を天台宗としており、(華厳院は延徳元年(1489年)に天台宗から曹洞宗に改宗している)その時期は延徳元年(1489年)以前に遡ると思われる。
これは一戸千徳氏以前に千徳城を築いて千徳氏を称した河北閉伊氏の一族の中で、南部氏に下り浅瀬石城に入って土着したものがあったのだろうと考えられる。『千徳舘荒廃実記』に、千徳氏が津軽の葛西攻めで功を上げ、浅瀬石の地を与えられたとあるため、閉伊氏系千徳氏の一族が葛西頼清討伐戦の功績として、15世紀後半には黒石の地に入った可能性がある。年代的には黒石文書における千徳政久に該当する。また田舎舘の千徳氏もこの系統だと思われる。ただし、黒石系千徳氏の祖とされる一戸行重は戦国期の人物であり、この文書にある鎌倉~室町前期の千徳系図は創作である可能性が高い。ただ、千徳政光以後の系図は概ね信用できると思われる。それは『岩手県史』では政氏を政吉の子としているが、それでは世代数が多く年代的に合わない。黒石文書のように、南部に下った政吉と、為信側についた政氏とで一戸千徳氏は分裂していたと考える方が分かりやすい。
戦国時代に入り、閉伊氏系千徳氏が津軽為信との抗争で没落、天正年間に一戸系千徳氏が新しく浅瀬石城主になるに従い、両家の系図を混同したものだと考えられる。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 『宮古市史 資料集 近世I』
- 『岩手県史』第二巻、第三巻