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2012年10月29日 (月) 03:42時点における版

ヴィルヘルム・レントゲン
ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:1901年
受賞部門:ノーベル物理学賞
受賞理由:X線の発見

ヴィルヘルム・コンラート・レントゲンWilhelm Conrad Röntgen1845年3月27日1923年2月10日)は、ドイツ物理学者1895年X線の発見を報告し、この功績により、1901年、第1回ノーベル物理学賞を受賞した。

生涯

X線の発見まで

1845年3月27日ドイツのレンネップ(Lennep、現在はレムシャイトの一部)で生まれた。父はドイツ人で織物商のフリードリッヒ・レントゲン、母はオランダ人のシャーロット・フローインで、裕福な家庭の一人息子だった[1]1848年、一家はオランダアペルドールンに移り住み、レントゲンはここで初等教育を受けた。しかし卒業目前の時期に教師にいたずらをした友人をかばったため、ギムナジウムに進学できなかった[2]。結局、1862年から2年半オランダのユトレヒト工業学校で学んだ後、1865年チューリッヒ工科大学機械工学科に進学している。1868年に機械技師の免状を取得したが、チューリッヒ工科大学でルドルフ・クラウジウス工業物理の講義を聞き、物理への関心が高まったという[3]。クラウジウスの後任のアウグスト・クントに師事し、1869年に『種々の気体の熱的性質に関する研究』で博士号を取得した[3]

1870年にクントが再びクラウジウスの後任としてヴュルツブルク大学教授になると、その助手となった。1872年にはチューリッヒ時代から交際して在学中に婚約していた[4]6歳年上のアンナ・ラディッグと結婚している。アンナは後に、有名な右手のX線写真のモデルを務めている。同年クントがストラスブール大学に移ったため、これに帯同して引き続き助手となった。この頃からレントゲンは独立して実験を行なうようになる。

1874年に大学教授となる資格を得て、1875年から約1年間ホーエンハイム農業学校数学と物理の教授を務めている[3]。しかし、実験を行なう時間がないため助教授としてストラスブール大学に戻った[5]。ストラスブール大学では主に物理定数の精密測定を行ない、気体や液体の圧縮率旋光度などに関して15本の論文を発表している[5]。これらの業績が評価され、1879年にはグスタフ・キルヒホフヘルマン・フォン・ヘルムホルツの推薦を得てギーセン大学の物理学の正教授に就任した[3]。ギーセン大学では、カー効果圧電効果など、光学電磁気学に関する研究を行なっている。また、実子がいなかったため1887年に妻の姪を養女とした[2]

1888年にクントがベルリン大学に移り、ストラスブール大学では後任としてフリードリッヒ・コールラウシュをヴュルツブルク大学から迎えた。このためヴュルツブルク大学でもポストが空き、クントやフリードリッヒ・コールラウシュの推薦もあってレントゲンが教授として招かれた[3]。同年に発表した『均一電場内での誘電体の運動により生じる電気力学的な力』という論文ではマクスウェルの電磁理論を実験的に証明し、レントゲン電流と呼ばれる現象(変位電流)を発見した[3]1894年には同大学の学長に選ばれている。ヴュルツブルク大学では圧力をかけた時の固体液体の物性変化を研究し、1895年10月から放電管の実験を始めた。これが翌月のX線の発見へと繋がった。

X線の発見

1896年1月23日にレントゲンが撮アルベルト・フォン・ケリカーの手のX線写真

当時、ハインリヒ・ヘルツフィリップ・レーナルトらによって真空放電陰極線の研究が進められていた。陰極線は電子の流れだが、金属を透過することから当時の物理学では粒子の流れではなく、電磁波の一種と考えられていた。レントゲンもこれらの現象に興味を持ち、レーナルトに依頼して確実に動作するレーナルト管を譲り受けた。なおX線の発見に関する論文でこれに対する謝辞がなかったため、レーナルトから激しい怒りを買っている[6]

レーナルト管は管全体が弱い光を帯びるので、陰極線を見やすくするためにアルミニウム窓以外を黒い紙で覆った。さらに、アルミ窓はないが似た構造のクルックス管からも陰極線のようなものが出ているかも知れないとレントゲンは考えた。クルックス管陰極陽極には共に白金が使われており、これに20kV程度の電圧を印加するので、陰極から出た電子が陽極の核外電子を弾き出して遷移が起き、白金の特性X線が生じていたことが後にわかった。レントゲンはもしも陰極線が出るならクルックス管よりも弱いはずだと思い、見やすくするため同様に黒い紙で全体を覆った。さらに、検出のために蛍光紙(シアン白金バリウムの紙)を用意した。

1895年11月8日ヴュルツブルク大学においてクルックス管を用いて陰極線の研究をしていたレントゲンは、机の上の蛍光紙の上に暗い線が表れたのに気付いた。この発光は光照射によって起こるが、クルックス管は黒いボール紙で覆われており、既知の光は遮蔽されていた。状況的に作用の元は外部ではなく装置だとレントゲンは考え、管から2メートルまで離しても発光が起きることを確認した。これにより、目には見えないが光のようなものが装置からでていることを発見した。後年この発見の時何を考えたか質問されたレントゲンは、「考えはしなかった。ただ実験をした」と答えている。実験によって、

  • 1,000ページ以上の分厚い本やガラスを透過する
  • 薄い金属箔を透過し、その厚みは金属の種類に依存する
  • には遮蔽される
  • 蛍光物質を発光させる
  • 熱作用を示さない

などの性質が明らかになり[7]、また検出に蛍光板ではなく写真乾板を用いることで鮮明な撮影が可能になった。

光のようなものは電磁波であり、この電磁波は陰極線のように磁気を受けても曲がらないことからレントゲンは放射線の存在を確信し、数学の未知の数をあらわす「X」の文字を使い仮の名前としてX線と名付けた[8]。7週間の昼夜を通じた実験の末、同年12月28日には早くも"Über eine neue Art von Strahlen"(『新種の放射線について』)という論文をヴュルツブルク物理医学会会長に送っている。さらに翌1896年1月には、妻の薬指指輪をはめて撮影したものや金属ケース入りの方位磁針など、数枚のX線写真を論文に添付して著名な物理学者に送付した。

発表後の反響、その後

X線写真という直観的にも非常にわかりやすい結果を伴っていた事、またそれまでの研究でレントゲンが物理学の世界で一定の名声を得ていた事から発表は急速に受け入れられた。1896年1月14日には英語版が早くもネイチャー(Nature)誌に、次いで1月24日にはエレクトリシアン(Electrician)、2月14日にはサイエンス(Science)に掲載された。フランス語版も2月8日にL'Eclairage Electriqueに掲載された。また、同年1月13日にはドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の前でX線写真撮影の実演をしている。1月23日に地元のヴュルツブルクでも講演会と実演を行なった。なおレントゲンは発表が非常に嫌いだったため、これが唯一の講演会だったとされる[要出典]

海外にも情報は速く伝わり、発見から3ヶ月後の3月25日には旧制第一高等学校の教授・水野敏之丞によって日本の科学雑誌でも紹介された。また、アメリカでは透視への不安から「劇場でのX線オペラグラス禁止条例」がトレントン市2月9日に可決される騒ぎとなった。

X線に関する論文をさらに2報発表した後、1900年にレントゲンはミュンヘン大学に実験物理学の主任教授として移った[9]。ここの物理教室での同僚にマックス・フォン・ラウエがいて、1912年X線回折像の撮影を行なってX線が電磁波であることを初めて明らかにした。X線の正体はこれまで謎であったが、透過性の高いX線の発見はただちにX線写真として医学に応用されたため、この功績に対し1901年最初のノーベル物理学賞が贈られている。ミュンヘン大学には1920年まで在籍したが、この間に書いた7報の論文は結晶圧電効果など全てX線に関係のないものであった。なお、1919年には妻が亡くなっている。レントゲンは科学の発展は万人に寄与すべきであると考え、X線に関し特許等によって個人的に経済的利益を得ようとは一切せず、ドイツの破滅的インフレーションの中でのため1923年2月10日に逝去した[10]。ノーベル賞の賞金についても、ヴュルツブルク大学に全額を寄付している[3]。墓はギーセンの旧墓地(Alter Friedhof)にある。

その他

X線の発見は他の発見と同様にレントゲン一人でなしえたものではなく、各国の研究者たちが研究を重ねた末のある意味で必然的な発見だった。しかしクルックス管から未知の電磁波が出る可能性を検討したことはレントゲンの独創的な発想によるものであり、現在X線の発見の功績は彼に対して与えられている。同僚の解剖学教授だったケリカー(Albert von Kölliker)の提案がきっかけでX線はレントゲン(Röntgen Rays)とも呼ばれるようになったが、レントゲン本人はレントゲンと呼ばれることを好まず、自らが仮の名とした「X線」と常に呼んでいた[11]

2004年には、原子番号111の元素に彼の名前にちなんだRöntgenium(日本語名:レントゲニウム)という名称がつけられた。理由はレントゲンがX線を発見してからおよそ100年後(99年後)にこの111番元素が発見されたからである。なおドイツの物理学者として広く知られるが、戸籍上はオランダ人である[1]。ヨーロッパでは科学者の国籍への関心が低いため、特に議論の対象となっていないという[1]

脚注

  1. ^ a b c 日本結晶学会誌、37巻6号、P.285
  2. ^ a b 中京大学教養論議、37巻1号、P.90
  3. ^ a b c d e f g 物理教育、50巻4号、P.254
  4. ^ 日本結晶学会誌、37巻6号、P.286
  5. ^ a b 中京大学教養論議、37巻1号、P.91
  6. ^ 中京大学教養論議、37巻1号、P.99
  7. ^ 物理教育、50巻4号、P.257
  8. ^ 中京大学教養論議、37巻1号、P.102
  9. ^ 日本結晶学会誌、37巻6号、P.287
  10. ^ 中京大学教養論議、37巻1号、P.116
  11. ^ 中京大学教養論議、37巻1号、P.106

参考文献

  • 西尾成子『ノーベル賞受賞者たち(1) レントゲン』物理教育、50巻4号、P.253-258、2002年
  • 中崎昌雄『放射能発見における写真の役割(上)』中京大学教養論議、37巻1号、P.87-127、1996年
  • 中崎昌雄『放射能発見における写真の役割(下)』中京大学教養論議、37巻2号、P.205-290、1996年
  • 加藤範夫『私のレントゲン』日本結晶学会誌、37巻6号、P.285-290、1995年

外部リンク

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