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クセノポンは若いころ、[[アケメネス朝|ペルシア]]王[[アルタクセルクセス2世]]の弟[[小キュロス|キュロス]]が兄王を打倒すべく雇ったギリシア[[傭兵]]に参加した([[紀元前401年]]~[[紀元前399年]])。クセノポンがこのことについてソクラテスに相談すると、ソクラテスは「神様にお伺いをたてろ」と言った。しかしクセノポンは「参加するにあたっては、どの神にお供えをすればいいか」とお伺いをたててしまい、その答えを聞いてしまった。クセノポンは参加したくてたまらなかったのであろう。ソクラテスはしかたなく「『参加するにあたっては』、とお伺いを立ててしまった以上、神様にうそはつけない」として、参加を許したという。しかし、このおかげでクセノポンは師の死(紀元前399年)に立ち会うことができなかった。 |
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傭兵として参加した東征も、キュロスの戦死によって失敗に終わる。しかし、雇用主と指揮官の死去によってペルシア帝国の真ん中に放り出された傭兵部隊をまとめ、激しい攻撃や自然の猛威を防ぎながらも敵中を脱することができたのは、クセノポンの名采配あってこそだった。 |
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『[[アナバシス]]』はギリシア傭兵たちがまとめて小アジアに侵攻した[[スパルタ]]に雇われることで終わるが、クセノポンは、そのままスパルタ軍の一員として活躍したようである。だが、アテナイの同盟国であった[[テーバイ|テーベ]]軍との戦争に加担する事になり、とうとうアテナイ軍を敵にまわして戦うはめになってしまった。 |
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このため、クセノポンは[[ペロポネソス戦争]]当時の敵国であったスパルタに加担して、祖国に弓を引いたということで、アテナイを追放される。追放されたクセノポンはスパルタから[[オリュンピア]]近くのスキルスに荘園をもらって住み、悠々自適の生活を送りつつ、狩猟や著述にいそしんだという。その後情勢が変わってテーベがスパルタを破ってスキルスを占領したためにクセノポンはスキルスを追われる事になる。だが、皮肉にも今度はテーベの台頭を恐れたアテナイとスパルタが同盟を結んだために、クセノポンはアテナイ追放から解かれた。しかし、アテナイに帰国したかどうかは定かではなく、スキルスの次は[[コリントス]]に移住し、そこでその生涯を閉じた。没年は定かではない。 |
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2016年1月31日 (日) 03:06時点における版
クセノポン(クセノポーン、希: Ξενοφών、英: Xenophon、紀元前427年?-紀元前355年?)は、古代ギリシアの軍人、哲学者、著述家。アテナイの騎士階級の出身。クセノフォンとも。
クセノポンはグリュロスなる人物の息子で、(古代ギリシアでは父の名を息子につける慣習があるため)同名の息子がいる。息子のグリュロスは紀元前362年のマンティネイアの戦いでテバイの名将エパメイノンダスを討ち取ったといわれる(パウサニアス, VIII. 11. 6; IX. 15. 5)。
ソクラテスとの出会い
クセノポンがソクラテスの弟子になるにあたっては、次のようなことがあったと、ディオゲネス・ラエルティオス著の『ギリシャ哲学者列伝』(第2巻第6章)に書かれている。
青年時代、アテナイの町を歩いていると、ソクラテスがやってきて、杖でクセノポンの行く手を阻んだ。ソクラテスは、青年クセノポンに尋ねる。「○○を手に入れるには、どこに行けばよいか知っているか?」。クセノポンが答えると、ソクラテスは畳み掛けるように、さまざまな食料品についてこの質問を繰り返した。クセノポンがいちいちそれに答えると、最後にソクラテスはこう言った。「では、立派な人になるためには、どこに行けばよいか知っているか?」。クセノポンが答えられないでいると、ソクラテスはこう言った。「では、私のところに来て、勉強しなさい」。クセノポンは、この時以降、ソクラテスの弟子になったという。
ペルシアへ
クセノポンは若いころ、ペルシア王アルタクセルクセス2世の弟キュロスが兄王を打倒すべく雇ったギリシア傭兵に参加した(紀元前401年~紀元前399年)。クセノポンがこのことについてソクラテスに相談すると、ソクラテスは「神様にお伺いをたてろ」と言った。しかしクセノポンは「参加するにあたっては、どの神にお供えをすればいいか」とお伺いをたててしまい、その答えを聞いてしまった。クセノポンは参加したくてたまらなかったのであろう。ソクラテスはしかたなく「『参加するにあたっては』、とお伺いを立ててしまった以上、神様にうそはつけない」として、参加を許したという。しかし、このおかげでクセノポンは師の死(紀元前399年)に立ち会うことができなかった。
傭兵として参加した東征も、キュロスの戦死によって失敗に終わる。しかし、雇用主と指揮官の死去によってペルシア帝国の真ん中に放り出された傭兵部隊をまとめ、激しい攻撃や自然の猛威を防ぎながらも敵中を脱することができたのは、クセノポンの名采配あってこそだった。
ペルシアからの帰還とその後
『アナバシス』はギリシア傭兵たちがまとめて小アジアに侵攻したスパルタに雇われることで終わるが、クセノポンは、そのままスパルタ軍の一員として活躍したようである。だが、アテナイの同盟国であったテーベ軍との戦争に加担する事になり、とうとうアテナイ軍を敵にまわして戦うはめになってしまった。
このため、クセノポンはペロポネソス戦争当時の敵国であったスパルタに加担して、祖国に弓を引いたということで、アテナイを追放される。追放されたクセノポンはスパルタからオリュンピア近くのスキルスに荘園をもらって住み、悠々自適の生活を送りつつ、狩猟や著述にいそしんだという。その後情勢が変わってテーベがスパルタを破ってスキルスを占領したためにクセノポンはスキルスを追われる事になる。だが、皮肉にも今度はテーベの台頭を恐れたアテナイとスパルタが同盟を結んだために、クセノポンはアテナイ追放から解かれた。しかし、アテナイに帰国したかどうかは定かではなく、スキルスの次はコリントスに移住し、そこでその生涯を閉じた。没年は定かではない。
著作
クセノポンの著作全体は、ギリシア語の模範テキストに多く用いられたため、ほぼ散逸すること無く現代に伝承されている。
- 『ソクラテスの弁明』、『ソクラテスの思い出』(メモラビリア) 、『饗宴』、『家政論』(オイコノミコス)- 師ソクラテスの言行を残した。
- 『ギリシア史』 - トゥキュディデスの『戦史』の後を受け書かれ、ペロポネソス戦争の後半戦とアテナイに対するスパルタの勝利、スパルタによるギリシアの覇権奪取、そしてテバイの台頭によるスパルタの凋落を描き、紀元前362年のマンティネイアの戦いを以って終わる。2著を合わせてペロポネソス戦争の記録が完成されたことで知られている。
- 『アナバシス』 - 小キュロスのペルシア王への反乱軍への参加と撤退を描いた。
- 『キュロスの教育』 - アケメネス朝ペルシアを建国した大キュロスの生涯を描いた小説。
- 『アゲシラオス』 - クセノポンの同時代人で友人でもあったスパルタ王アゲシラオス2世の伝記。
- 『ヒエロン――または僭主的な人』 - シュラクサイの僭主ヒエロン1世を登場人物とした対話篇。
- 『騎兵隊長について』
- 『乗馬について』
- 『狩猟について』
- 『ラケダイモン人の国制』
- 『アテナイ人の国制』
- 『歳入論』
邦訳文献
- 『ソクラテス言行録 〈1〉 ソクラテスの思い出』(メモラビリア)〈西洋古典叢書 2分冊〉京都大学学術出版会(2011年)
内山勝利訳 /〈2〉は 『饗宴』、『ソクラテスの弁明』、『家政論』を収める(時期未定)。 - 『ギリシア史』(ヘレニカ) 根本英世訳 全2巻〈西洋古典叢書〉京都大学学術出版会
- 『キュロスの教育』 松本仁助訳 〈西洋古典叢書〉
- 『ソクラテスの弁明・饗宴』 船木英哲訳、文芸社、2006年
(アポロギア・シュンポシオン/ プラトン「ソクラテスの弁明」、「饗宴」とは別作品) - 『オイコノミコス 家政について』 越前谷悦子訳、リーベル出版、2010年
- 『クセノポン小品集』、松本仁助訳〈西洋古典叢書〉- ※以下の8編を収む
- 『ヒエロン―または僭主的な人』
- 『アゲシラオス』
- 『ラケダイモン人の国制』
- 『政府の財源』
- 『騎兵隊長について』
- 『馬術について』
- 『狩猟について』
- 『アテナイ人の国制』
- 田中秀央・吉田一次訳 『クセノポーンの馬術』(荒木雄豪編、新版:恒星社厚生閣)、最古の馬術書としての訳書。
クセノポンの登場するボードゲーム
- Strategy&Tactics203号 Xenophon 10000 Against Persia
S&T編集長のジョー・ミランダのデザインした2人用ウォーゲーム。シャルルマーニュシステムの第2作になる。