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「大津和多理」の版間の差分

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== 来歴 ==
== 来歴 ==
[[仙台藩]][[藩士]]大津仁右衛門の次子として生まれ、幼少より読書を好み、伯父の蔵書を全て読破し話題になる。宮城英語学校時代に、[[西南戦争]]で[[警視庁]][[巡査]]として参加。その後、渡道し[[札幌農学校]]第三期生として卒業。[[物理]]や[[数学]]を得意としたという。[[札幌県]]御用掛、[[開拓使]]勤務を経て、[[北海道教育大学|札幌県師範学校]][[教諭]]となる。[[1885年]]に[[師範学校]]を辞職し、北海英語学校を創立、初代[[校長]]に就任。同年[[3月15日]]に[[豊平館]]にて開校式を挙行(入学者は140名余り)。設立の動機は、[[戴星義塾]]<ref>戴星義塾設立は、札幌農学校第一期生の[[佐藤勇]]。</ref>
[[仙台藩]][[藩士]]大津仁右衛門の次子として生まれ、幼少より読書を好み、伯父の蔵書を全て読破し話題になる。宮城英語学校時代に、[[西南戦争]]で[[警視庁]][[巡査]]として参加。その後、渡道し[[札幌農学校]]第三期生として卒業。[[物理]]や[[数学]]を得意としたという。[[札幌県]]御用掛、[[開拓使]]勤務を経て、[[北海道教育大学|札幌県師範学校]][[教諭]]となる。[[1885年]]に[[師範学校]]を辞職し、北海英語学校を創立、初代[[校長]]に就任。同年[[3月15日]]に[[豊平館]]にて開校式を挙行(入学者は140名余り)。設立の動機は、[[戴星義塾]]<ref>戴星義塾設立は、札幌農学校第一期生の佐藤勇。</ref>
の助教と教諭経験から、農学校予科受験のために、[[中等教育機関]]設立を痛感したためであった。はじめは、[[英語]]のみを教えていたが、後に教える科目を拡充している。[[1887年]]病気のため[[浅羽靖]]に校長職を譲る。晩年は、郷里で過ごしたという。
の助教と教諭経験から、農学校予科受験のために、[[中等教育機関]]設立を痛感したためであった。はじめは、[[英語]]のみを教えていたが、後に教える科目を拡充している。[[1887年]]病気のため[[浅羽靖]]に校長職を譲る。晩年は、郷里で過ごしたという。



2016年3月25日 (金) 21:11時点における版

大津和多理(おおつ わたり、1857年 - 1917年)は、教育者学校法人北海学園の原型となる北海英語学校の創設者。愛称は、超然とした態度で髭を生やした風貌から仙人宮城県仙台市生まれ。

来歴

仙台藩藩士大津仁右衛門の次子として生まれ、幼少より読書を好み、伯父の蔵書を全て読破し話題になる。宮城英語学校時代に、西南戦争警視庁巡査として参加。その後、渡道し札幌農学校第三期生として卒業。物理数学を得意としたという。札幌県御用掛、開拓使勤務を経て、札幌県師範学校教諭となる。1885年師範学校を辞職し、北海英語学校を創立、初代校長に就任。同年3月15日豊平館にて開校式を挙行(入学者は140名余り)。設立の動機は、戴星義塾[1] の助教と教諭経験から、農学校予科受験のために、中等教育機関設立を痛感したためであった。はじめは、英語のみを教えていたが、後に教える科目を拡充している。1887年病気のため浅羽靖に校長職を譲る。晩年は、郷里で過ごしたという。

注記

  1. ^ 戴星義塾設立は、札幌農学校第一期生の佐藤勇。

参考文献

  • 北海道21世紀タイムス編集『北海学園120年の群像』(北海道21世紀タイムス、2005年)
  • 日外アソシエーツ編『学校創立者人名事典』(紀伊国屋書店、2007年)

関連項目

先代
-
北海英語学校校長
初代: 1885年 ‐ 1887年
次代
浅羽靖