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'''桂吉朝'''(かつら・きっちょう 本名:上田浩久=うえだ・ひろひさ [[1954年]][[11月18日]] - [[2005年]][[11月8日]])は、[[大阪府]][[堺市]]出身の[[上方]][[落語家]]。 |
'''桂吉朝'''(かつら・きっちょう 本名:上田浩久=うえだ・ひろひさ [[1954年]][[11月18日]] - [[2005年]][[11月8日]])は、[[大阪府]][[堺市]]出身の[[上方]][[落語家]]。 |
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[[1974年]]に[[桂米朝 (3代目)|3代桂米朝]]に弟子入り。弟子入り当初から高度な落語センスを持ち合わせており注目されていた。「七段目」「質屋蔵」などといった芝居噺を得意とし、師米朝の大ネタ「地獄八景亡者戯」を十八番としていた。落語だけにとどまらず[[中島らも]]らと共に劇団[[「リリパットアーミー」]]の役者としても活躍し、また狂言師[[茂山千五郎]]らとともに、狂言と落語をミックスさせた「落言」の公演を行うなど他ジャンルの芸能との交流も深かった。弟弟子の桂米左とともに日本のアニメーションの元祖とも言われる「錦影絵」を演じ、上方落語界の次世代を担うホープ、また米朝の後継者として期待が高かった。 |
[[1974年]]に[[桂米朝 (3代目)|3代桂米朝]]に弟子入り。弟子入り当初から高度な落語センスを持ち合わせており注目されていた。「[[七段目]]」「[[質屋蔵]]」などといった芝居噺を得意とし、師米朝の大ネタ「[[地獄八景亡者戯]]」を十八番としていた。落語だけにとどまらず[[中島らも]]らと共に劇団[[「リリパットアーミー」]]の役者としても活躍し、また狂言師[[茂山千五郎]]らとともに、狂言と落語をミックスさせた「落言」の公演を行うなど他ジャンルの芸能との交流も深かった。弟弟子の[[桂米左]]とともに日本のアニメーションの元祖とも言われる「錦影絵」を演じ、上方落語界の次世代を担うホープ、また米朝の後継者として期待が高かった。 |
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しかし、[[1999年]]に胃がんを患い、手術を受け一度復帰したものの、[[2004年]][[10月]]になって胃がんを再発。その後治療を続けながら高座を勤めていたが、[[2005年]][[11月8日]] |
しかし、[[1999年]]に胃がんを患い、手術を受け一度復帰したものの、[[2004年]][[10月]]になって胃がんを再発。その後治療を続けながら高座を勤めていたが、[[2005年]][[11月8日]]心不全のため50歳の若さで永眠した。 |
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最後となった高座は、直前の[[10月27日]]に[[国立文楽劇場]]で行われた「米朝・吉朝の会」。米朝は、吉朝たっての希望で、近年高座にかけることが少なくなっていた「[[狸の賽]]」を口演。吉朝は、当初「[[ふぐ鍋]]」と「[[弱法師]]」の2席を予定していたが、「ふぐ鍋」は「劇場の前を偶然通りかかった」という[[桂雀松]]が「[[替り目]]」で代演し、楽屋では医師付き添いのもと酸素を吸入しながら、45分以上をかけて「弱法師」を熱演、終演後しばらくは観客からの拍手が鳴り止まなかった。 |
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== 受賞歴 == |
== 受賞歴 == |
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*[[1989年]]咲くやこの花賞 |
*[[1989年]] [[咲くやこの花賞#大衆芸能部門|咲くやこの花賞]] |
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*[[1994年]]国立演芸場花形演芸大賞(上方芸人初) |
*[[1994年]] 国立演芸場花形演芸大賞(上方芸人初) |
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*[[2001年]]上方お笑い大賞 |
*[[2001年]] 上方お笑い大賞、[[芸術選奨]]文部科学大臣新人賞 |
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== 弟子 == |
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*[[桂あさ吉]] |
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*[[桂吉弥]] |
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*[[桂よね吉]] |
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*[[桂しん吉]] |
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*[[桂吉坊]] |
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*[[桂佐ん吉]] |
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*[[桂吉の丞]] |
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[[Category:落語家|かつらきつちよう]] |
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{{生没年|かつらきつちよう|1954年|2005年}} |
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2006年8月9日 (水) 06:10時点における版
桂吉朝(かつら・きっちょう 本名:上田浩久=うえだ・ひろひさ 1954年11月18日 - 2005年11月8日)は、大阪府堺市出身の上方落語家。
1974年に3代桂米朝に弟子入り。弟子入り当初から高度な落語センスを持ち合わせており注目されていた。「七段目」「質屋蔵」などといった芝居噺を得意とし、師米朝の大ネタ「地獄八景亡者戯」を十八番としていた。落語だけにとどまらず中島らもらと共に劇団「リリパットアーミー」の役者としても活躍し、また狂言師茂山千五郎らとともに、狂言と落語をミックスさせた「落言」の公演を行うなど他ジャンルの芸能との交流も深かった。弟弟子の桂米左とともに日本のアニメーションの元祖とも言われる「錦影絵」を演じ、上方落語界の次世代を担うホープ、また米朝の後継者として期待が高かった。
しかし、1999年に胃がんを患い、手術を受け一度復帰したものの、2004年10月になって胃がんを再発。その後治療を続けながら高座を勤めていたが、2005年11月8日心不全のため50歳の若さで永眠した。 最後となった高座は、直前の10月27日に国立文楽劇場で行われた「米朝・吉朝の会」。米朝は、吉朝たっての希望で、近年高座にかけることが少なくなっていた「狸の賽」を口演。吉朝は、当初「ふぐ鍋」と「弱法師」の2席を予定していたが、「ふぐ鍋」は「劇場の前を偶然通りかかった」という桂雀松が「替り目」で代演し、楽屋では医師付き添いのもと酸素を吸入しながら、45分以上をかけて「弱法師」を熱演、終演後しばらくは観客からの拍手が鳴り止まなかった。