「ケビン・ミッチェル」の版間の差分
Chanrh-mizo (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし |
|||
124行目: | 124行目: | ||
|- |
|- |
||
|style="text-align: center;"|{{by2|1995}} |
|style="text-align: center;"|{{by2|1995}} |
||
|style="text-align: center |
|style="text-align: center;"|[[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]] |
||
|37||149||130||17||39||6||0||8||69||28||0||0||0||0||19||2||0||27||3||.300||.389||.531||.920 |
|37||149||130||17||39||6||0||8||69||28||0||0||0||0||19||2||0||27||3||.300||.389||.531||.920 |
||
|- |
|- |
||
187行目: | 187行目: | ||
== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
||
{{MLBstats |mlb= |espn= 1453 |br= m/mitchke01 |fangraphs= 1009004 |cube= Kevin-Mitchell}} |
{{MLBstats |mlb= |espn= 1453 |br= m/mitchke01 |fangraphs= 1009004 |cube= Kevin-Mitchell}} |
||
{{NPB|31433880|K.ミッチェル}} |
|||
{{Navboxes|title=獲得タイトル・記録 |
{{Navboxes|title=獲得タイトル・記録 |
||
|list1= |
|list1= |
||
</span> |
|||
{{ナショナルリーグMVP}} |
{{ナショナルリーグMVP}} |
||
{{ナショナルリーグ本塁打王}} |
{{ナショナルリーグ本塁打王}} |
||
198行目: | 198行目: | ||
{{San Francisco Giants}} |
{{San Francisco Giants}} |
||
{{1986 ニューヨーク・メッツ}} |
{{1986 ニューヨーク・メッツ}} |
||
⚫ | |||
{{Baseball-biography-stub}} |
|||
⚫ | |||
[[Category:アメリカ合衆国の野球選手]] |
[[Category:アメリカ合衆国の野球選手]] |
||
[[Category:アフリカ系アメリカ人の野球選手]] |
[[Category:アフリカ系アメリカ人の野球選手]] |
2019年8月21日 (水) 08:46時点における版
基本情報 | |
---|---|
国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | カリフォルニア州サンディエゴ |
生年月日 | 1962年1月13日(62歳) |
身長 体重 |
180 cm 105 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 外野手, 指名打者 |
プロ入り | 1980年 アマチュア・フリーエージェントとしてニューヨーク・メッツと契約 |
初出場 |
MLB / 1984年9月4日 セントルイス・カージナルス戦 NPB / 1995年4月1日 西武ライオンズ戦 |
最終出場 |
MLB / 1998年8月3日 ニューヨーク・ヤンキース戦 NPB / 1995年8月8日 千葉ロッテマリーンズ戦 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
| |
コーチ歴 | |
| |
この表について
|
ケビン・ダーネル・ミッチェル(Kevin Darnell Mitchell , 1962年1月13日 - )は、アメリカ合衆国・カリフォルニア州サンディエゴ出身の元プロ野球選手(外野手)。トレードマークは金歯。
2001年に同じく福岡ダイエーホークスでプレーしたトニー・ミッチェルは従兄弟にあたる。
経歴
米国時代
1980年にニューヨーク・メッツと契約。
1984年にメジャー初昇格。1985年はメジャーでの出場は無かったが、1986年に再昇格すると、持ち前の打力と複数のポジションを守れる器用さがプラトーン・システムを好む監督デーブ・ジョンソンに好まれ、投手・捕手・中堅手以外の6つのポジションで先発出場を果たした[1]。ボストン・レッドソックスとのワールドシリーズ第6戦では、1点のリードを許した2アウト一塁の場面で打席に入り、2ストライクと追い込まれながらもヒットを打ち、逆転サヨナラ勝ちへとつなげ、同年の「ミラクル・メッツ」と呼ばれたワールドシリーズ制覇に貢献。
同年オフに、ケビン・マクレイノルズら2選手との交換で、ショーン・エイブナーら4選手と共にサンディエゴ・パドレスに移籍し、さらに1987年シーズン中にサンフランシスコ・ジャイアンツに移籍[2]。1987年は主に三塁手で起用されたが、1988年にはほぼ外野手に定着して強打を発揮する。ベストシーズンは1989年。同年は47本塁打、125打点をマークし、ナショナル・リーグMVP及び打点王、本塁打王の二冠に輝き、チームのワールドシリーズ進出に貢献した。
その後は故障もあって不本意な成績が続いていたが、レッズ時代の1994年にMLB史上最長のストライキによるシーズン途中での中断ながら打率.326・30本塁打・OPS1.110(ナショナルリーグ2位)をマークして復活。同年オフにフリーエージェントとなり移籍先を探し、1995年は推定年俸4億円以上を提示した福岡ダイエーホークスでプレーすることになり、来日した。この年にはミッチェル以外にもシェーン・マック(巨人)、グレン・デービス(阪神)、フリオ・フランコ(ロッテ)、ピート・インカビリア(ロッテ)など多くの現役大リーガーが前述のストライキの影響もあって日本を訪れ、日本プロ野球でプレーしている。
ミッチェルは米国時代から問題行動が多いことで知られ、球団首脳にしてみれば、野球以外の面でもマスコミに注目(批判)されるという「リスク」を承知で獲得しなければならない選手と言えたが、王貞治をはじめとする現場の人間の多くはボブ・ホーナーをも上回る直前成績を残していたバリバリ大物のミッチェルの獲得を強く望んでいた。1985年、当時巨人の監督であった王がメジャーリーグを代表する投手デーブ・スチュワートを「トラブルメーカー」との評判から獲得を逸し、このことが王にミッチェル獲得に熱意を持たせる要因となった。ミッチェル獲得に伴い、外国人枠の関係からブライアン・トラックスラー、ケビン・ライマーのどちらかを解雇することとなった。当時のチーム事情からトラックスラー解雇が決定的だったが、トラックスラーはダイエー本社海外部のお墨付きでダイエー球団に入団した経緯を持っており、親会社との関係から簡単に解雇に踏み切れなかった。結局、1995年の高知キャンプでトラックスラーは解雇となったが、その結果、ミッチェルと球団との関係にヒビが入ることになり、その後の処遇に悪影響をもたらした。
ダイエー時代
1995年シーズン開幕後は西武との開幕戦で、初回満塁の場面から初打席初本塁打を記録。1983年の駒田徳広以来史上2人目の初打席満塁本塁打を放つ(デビュー戦が開幕スタメン4番で1回表での達成というのは史上初)など、メジャー屈指のスラッガーにふさわしい打棒をみせていたが、ほどなく故障が再発し、外野手としてプレーすることが難しくなったため指名打者へ回る。その後も回復が思わしくなく、欠場することが多くなった。このことはマスコミに「仮病」「医師の診断が出ない」などと報道された。その後も、シーズン途中で病気療養を理由に一時帰国した際、「無断帰国」と報じられるなど、ミッチェルの名は「問題児」「不良外国人」のレッテルが貼られ世間に知られることとなった。また、8月に再来日した際には、「チームがまさかこのようになっているとは思っていなかった」という台詞を残し、物議を醸した。
結局、2度目の無断帰国をした8月にダイエーはミッチェルを即刻解雇。その際、ミッチェルは年俸の全額支払いを要求し、裁判沙汰となった[3][4]。本塁打の飛距離は大きく、その点についてはメジャーリーガーとしての実力を見せつけたが、8本塁打、そのうち本拠地の福岡ドームではわずか1本塁打に終わった。
高い契約金で入団しながら、度重なるトラブルで満足に成績が残せなかった上、金銭面でトラブルを起こした事は、同姓の小説家マーガレット・ミッチェルの代表作『風と共に去りぬ』をもじって「金と共に去りぬ」と揶揄された(この表現は、東京スポーツなどのスポーツ新聞や、ブロードキャスターなどのテレビ番組でも使用された)。元阪神タイガースのランディ・バースは、ミッチェルが日本で起こした問題について「実力がある選手なのにメジャーリーグの球団が契約を結ぼうとしないのは(その選手に何らかの)問題があるから。ミッチェルの場合はトラブルメーカーであった事が理由なのはわかりきっていたはずだ」と発言している。
かつて月刊ホークスには、ダイエーでプレイした歴代の助っ人外国人選手を紹介する『FDH助っ人列伝』という連載コーナーがあった。このコーナーでは、選手をボールの数による5段階評価で、「鳴り物入り度」、「貢献度」、「その選手独自の評価」(必ず5になるような内容になっている)の3つの項目においてそれぞれ評価していたのだが[5]、ミッチェルは「鳴り物入り度」が5、「貢献度」が3、そして「困ったちゃん度」が枠外に大きくはみ出す“ 7 ”だった[6]。同コーナーによると、このミッチェル騒動がきっかけでダイエーはしばらくの間、実績ある大物外国人よりも比較的低年俸で扱いやすい助っ人を獲る傾向にシフトしたとされる。
ダイエー退団後
ダイエー解雇後は糖尿病を患い満足に試合出場ができず、ボストン・レッドソックスなど数球団を転々として1998年にメジャーリーガーとしてのキャリアを終えた。
1999年、両親に貸していた家の家賃滞納を巡って口論の末、父親の頭部を殴打し、逮捕された[7]。
2001年には独立リーグのソノマカウンティ・クラッシャーズでコーチとして在籍。佐々木誠と同僚になっている。
2010年にはゴルフ場で口論となった相手を暴行した疑いで逮捕された[7]。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1984 | NYM | 7 | 14 | 14 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | .214 | .214 | .214 | .429 |
1986 | 108 | 364 | 328 | 51 | 91 | 22 | 2 | 12 | 153 | 43 | 3 | 3 | 1 | 1 | 33 | 0 | 1 | 61 | 6 | .277 | .344 | .466 | .811 | |
1987 | SD | 62 | 217 | 196 | 19 | 48 | 7 | 1 | 7 | 78 | 26 | 0 | 0 | 0 | 1 | 20 | 3 | 0 | 38 | 5 | .245 | .313 | .398 | .711 |
SF | 69 | 298 | 268 | 49 | 82 | 13 | 1 | 15 | 142 | 44 | 9 | 6 | 0 | 0 | 28 | 1 | 2 | 50 | 5 | .306 | .376 | .530 | .906 | |
'87計 | 131 | 515 | 464 | 68 | 130 | 20 | 2 | 22 | 220 | 70 | 9 | 6 | 0 | 1 | 48 | 4 | 2 | 88 | 10 | .280 | .350 | .474 | .824 | |
1988 | 148 | 566 | 505 | 60 | 127 | 25 | 7 | 19 | 223 | 80 | 5 | 5 | 1 | 7 | 48 | 7 | 5 | 85 | 9 | .251 | .319 | .442 | .760 | |
1989 | 154 | 640 | 543 | 100 | 158 | 34 | 6 | 47 | 345 | 125 | 3 | 4 | 0 | 7 | 87 | 32 | 3 | 115 | 6 | .291 | .388 | .635 | 1.023 | |
1990 | 140 | 589 | 524 | 90 | 152 | 24 | 2 | 35 | 285 | 93 | 4 | 7 | 0 | 5 | 58 | 9 | 2 | 87 | 8 | .290 | .360 | .544 | .904 | |
1991 | 113 | 423 | 371 | 52 | 95 | 13 | 1 | 27 | 191 | 69 | 2 | 3 | 0 | 4 | 43 | 8 | 5 | 57 | 6 | .256 | .338 | .515 | .853 | |
1992 | SEA | 99 | 402 | 360 | 48 | 103 | 24 | 0 | 9 | 154 | 67 | 0 | 2 | 0 | 4 | 35 | 4 | 3 | 46 | 4 | .286 | .351 | .428 | .779 |
1993 | CIN | 93 | 353 | 323 | 56 | 110 | 21 | 3 | 19 | 194 | 64 | 1 | 0 | 0 | 4 | 25 | 4 | 1 | 48 | 14 | .341 | .385 | .601 | .986 |
1994 | 95 | 380 | 310 | 57 | 101 | 18 | 1 | 30 | 211 | 77 | 2 | 0 | 0 | 8 | 59 | 15 | 3 | 62 | 12 | .326 | .429 | .681 | 1.110 | |
1995 | ダイエー | 37 | 149 | 130 | 17 | 39 | 6 | 0 | 8 | 69 | 28 | 0 | 0 | 0 | 0 | 19 | 2 | 0 | 27 | 3 | .300 | .389 | .531 | .920 |
1996 | BOS | 27 | 104 | 92 | 9 | 28 | 4 | 0 | 2 | 38 | 13 | 0 | 0 | 0 | 0 | 11 | 0 | 1 | 14 | 3 | .304 | .385 | .413 | .798 |
CIN | 37 | 141 | 114 | 18 | 37 | 11 | 0 | 6 | 66 | 26 | 0 | 0 | 0 | 1 | 26 | 2 | 0 | 16 | 5 | .325 | .447 | .579 | 1.026 | |
'96計 | 64 | 245 | 206 | 27 | 65 | 15 | 0 | 8 | 104 | 39 | 0 | 0 | 0 | 1 | 37 | 2 | 1 | 30 | 8 | .316 | .420 | .505 | .925 | |
1997 | CLE | 20 | 69 | 59 | 7 | 9 | 1 | 0 | 4 | 22 | 11 | 1 | 0 | 0 | 0 | 9 | 2 | 1 | 11 | 2 | .153 | .275 | .373 | .648 |
1998 | OAK | 51 | 136 | 127 | 14 | 29 | 7 | 1 | 2 | 44 | 21 | 0 | 0 | 0 | 0 | 9 | 0 | 0 | 26 | 4 | .228 | .279 | .346 | .626 |
MLB:13年 | 1223 | 4696 | 4134 | 630 | 1173 | 224 | 25 | 234 | 2149 | 760 | 30 | 31 | 2 | 42 | 491 | 87 | 27 | 719 | 89 | .284 | .360 | .520 | .880 | |
NPB:1年 | 37 | 149 | 130 | 17 | 39 | 6 | 0 | 8 | 69 | 28 | 0 | 0 | 0 | 0 | 19 | 2 | 0 | 27 | 3 | .300 | .389 | .531 | .920 |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
- MLB
表彰
- MLB
- MVP:1回(1989年)
- シルバースラッガー賞:1回(1989年)
記録
- MLB
- MLBオールスターゲーム選出:2回(1989年 - 1990年)
- NPB
- 初出場・初先発出場:1995年4月1日、対西武ライオンズ1回戦(西武ライオンズ球場)、4番・左翼手として先発出場
- 初打席・初安打・初本塁打・初打点:同上、1回表に郭泰源から左越満塁本塁打 ※史上33人目の初打席初本塁打(外国人選手13人目、開幕戦4番打者の初回達成は史上初)
背番号
- 32 (1984年)
- 7 (1986年 - 1987年途中、1988年 - 1994年、1996年途中 - 同年終了、1998年)
- 9 (1987年途中 - 同年終了)
- 39 (1995年)
- 24 (1996年 - 同年途中)
- 44 (1997年)
脚注
- ^ シーズン前半は三塁手・遊撃手としての起用が中心であったが、シーズン後半にジョージ・フォスターが解雇されてからは主に左翼手で起用された。
- ^ この時の交換要員の一人に、その前年まで読売ジャイアンツでプレーしていたキース・カムストックが居た。
- ^ ケビン・ミッチェル外野手 | 右投右打
- ^ ケビン・ミッチェル 外野手
- ^ 例えば第10号(2001年8月号)に掲載されたマイク・ラガは、「鳴り物入り度」が2、「貢献度」が3、「ヘルメット投げの衝撃度」が5だった。
- ^ 『月刊ホークス』第17号(2002年3月号)、86頁。
- ^ a b “ミッチェル元選手暴行罪で起訴 - MLBニュース”. Nikkan Sports News (2010年9月18日). 2011年11月23日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 選手の通算成績と情報 ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)
- 個人年度別成績 K.ミッチェル - NPB.jp 日本野球機構