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「Wikipedia:秀逸な記事の選考/ギリシャ独立戦争 20210329」の版間の差分

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#:この文の「1932年」は正しいですか? この記事中の1832年のギリシャ独立のことかと思い、誤記の可能性を感じました。ググった程度ですが、1932年にギリシャの国境を決めるような出来事は見当たりませんでした。
#:この文の「1932年」は正しいですか? この記事中の1832年のギリシャ独立のことかと思い、誤記の可能性を感じました。ググった程度ですが、1932年にギリシャの国境を決めるような出来事は見当たりませんでした。
#画像使用に関して、記事中の前半あたりのどこかに地図画像を示すと、記事がもっと分かりやすくなると思います。例えば、白地図に、この記事で重要となる場所・地域や、当時のオスマン帝国の支配地域などを示したようなもののイメージです。本文で、何とか島、何とか半島、何とか海、と言われても、やはり多くの読者にとっては馴染みがなく、位置関係が想像しづらいのが実際だと思います。このような地図画像が掲示されていれば、読者にとって記事内容がもっと頭に入りやすくなると思います。--[[利用者:Yapparina|Yapparina]]([[利用者‐会話:Yapparina|会話]]) 2021年4月9日 (金) 20:51 (UTC)
#画像使用に関して、記事中の前半あたりのどこかに地図画像を示すと、記事がもっと分かりやすくなると思います。例えば、白地図に、この記事で重要となる場所・地域や、当時のオスマン帝国の支配地域などを示したようなもののイメージです。本文で、何とか島、何とか半島、何とか海、と言われても、やはり多くの読者にとっては馴染みがなく、位置関係が想像しづらいのが実際だと思います。このような地図画像が掲示されていれば、読者にとって記事内容がもっと頭に入りやすくなると思います。--[[利用者:Yapparina|Yapparina]]([[利用者‐会話:Yapparina|会話]]) 2021年4月9日 (金) 20:51 (UTC)
:::ありがとうございます。ご指摘の点はごもっともな点が多く、修正しなければならないと思います。できる範囲より手を付けてよりよいモノにしたいと思います。--[[利用者:Hideokun|Hideokun]]([[利用者‐会話:Hideokun|会話]]) 2021年4月13日 (火) 14:09 (UTC)

2021年4月13日 (火) 14:09時点における版

賛成/条件付賛成/保留/反対 0/0/0/0 この項目の選考期間は、2021年6月29日 (火) 11:30 (UTC)(2021年6月29日 (火) 20:30 (JST))までです。

  • (推薦)自薦です。作成してから数年経ちますし、私も久しくWikipediaを離れておりましたので、現在のFAのレベルに達しているかはわかりません。が、内容精査した上でよりよい記事にしたいという思いを含めて自薦いたします。--Hideokun会話2021年3月29日 (月) 11:30 (UTC)[返信]

(コメント):

  1. いくつか、文章術の観点から改善が必要な文があると思われます。
    1. 「特にペロポネソス半島での蜂起は辺境であること、在地オスマン帝国軍司令官フルシト・パシャ (en) がイピロスのアリー・パシャ討伐のために遠征していたことからギリシャ反乱軍の本拠地と化したが[# 30][59]、ギリシャ南部の山がちで島の多い地形に助けられていたことが大きく、そしてギリシャ軍に参加した諸勢力が様々な思惑や利益から参加していたに過ぎず、不統一な戦闘集団に過ぎず、内陸部、ペロポネソス半島、島嶼部などにおいて指導者もちがい、さらにファナリオティス対ゲリラ指導者、地主対農民、富裕な船主対船員などの対立か生じていたため、呉越同舟的な一面を持っていた[100]。」
      1文が長過ぎです。最後の術語「呉越同舟的な一面を持っていた」の主語も不明確になっています。文章を小分けして、読みやすくする必要があります。
    2. 「そして、それまでギリシャ軍を指揮していたアフェントゥリウスに代わりトバズィスが義勇兵と共に送られたが、これに対してエジプト軍は司令官をヒュセイン・ベイに交代させたが、ヒュセインは洞窟に逃げ込んだキリスト教徒らを窒息させるなどのテロ的な手法を採用、クレタ島では村々に火が放たれ、住民らは追放された[130]。 」
      "~が、~が、"で文章が続いており、稚拙で読みづらい文になってしまっています。これも、「共に送られた」あたりで一旦文章を切るなどの修正が必要です。
    3. 「そのため、ギリシャ軍は徐々に追い詰められクレタ島東部へ撤退していたが、結局、クレタ島のギリシャ軍の大部分はカソス島へ退却したが、1824年4月、カソス島の人々はエジプトへ連行された。」
      上に同じく、"~が、~が、"。
    4. 「1822年、ヴェローナで会議が開催されると議論自体は「トルコの自制を待つ」という結論で終了したが、これはトルコの圧政について議論が続いて会議が紛糾する恐れがあったためであったが、結局、この会議が開催されたことで1815年以来続いていたウィーン体制に暗雲が垂れ込めた[134]。 」
      上に同じく、"~が、~が、"。
    5. 「そして1821年9月にはスリオーテスとアルバニア人の間で協定が結ばれたが後にスリオーテスが追放されるとこの協力は解消された[113]。 」
      スリオーテスなる人物はここで初出で、いきなり登場して協定を結ぶので面食らいます。肩書などを付け加えるなどして説明が必要と思われます。
    6. 「そして1821年3月25日、パトラ府主教パレオン・パトロン・ゲルマノス (en) が聖ラヴラ修道院で十字架を掲げ『自由か、さもなくば死か』と叫び、ギリシャ人兵士らに向かって戦いの宣誓を行って「革命政府(ディレクトリア)」を開設したが、この3月25日はギリシャ独立記念日として今なお祝われている[# 27][93][91][85][73][92]。」
      致命的におかしいというわけではないですが、ここでは「~開設した"が"、」で文を続けない方が良いと思います。
    7. 「そしてイギリスはロシアの単独行動を危惧したこととヨーロッパ全体にギリシャ革命への同情が波及することを恐れていた[137][79][138]。」
      この文を素直に読むと、イギリスは"ロシアの単独行動を危惧したこと"と"ヨーロッパ全体にギリシャ革命への同情が波及すること"を恐れていた、と読めますが、本当でしょうか? 後半の目的語はともかく、「"ロシアの単独行動を危惧したこと"を恐れる」というのはどう考えても変な表現に思われます。正しくは、
      「そしてイギリスはロシアの単独行動を危惧し、さらに、ヨーロッパ全体にギリシャ革命への同情が波及することを恐れていた」
      のような感じでしょうか。
    8. 「その一方で、当時、ナポレオンの出現により民族意識の覚醒が始まっていたが、これを抑えるために列強諸国はウィーン体制を築いて旧秩序の維持を図っていた。しかし、バルカン諸民族はこれに逆行する活動を行いながらも列強等の支援をあてにしており、神聖同盟を結んでいた列強らも結局、これを支援することになった。これは神聖同盟とイスラムとの対立という図式を明確にし、さらにその後もバルカン半島へ列強等が干渉する予兆となった[174]。」
      一連の文の中に「これ」という指示代名詞が複数回登場し、何を指しているのか不明瞭になっています。最初の「これ」の指示対象に解釈振れは起こりえないですし、2回目の「これ」も気にするほどではないでしょうが、3回目と4回目の「これ」になってくると、何を指しているのか自明ではなくなっています。具体的な言葉に置き換えるなどの改善が必要と思われます。
    9. 「さらにバルカン半島諸民族による民族運動の中心人物は知識人、商人、僧侶らが中心となってきっかけをつくった。」
      前半のハ格(主題節)と後半の叙述文の関係が妙です。後述する文も考慮すると、「の中心人物」が余計なんだと思われます。
    10. 「また、独立戦争に参加した諸勢力の利害関係や性格の面で多様性が見られること、列強の干渉に依存したこと、国民の大多数である農民らが独立戦争においても、その後の建国後の活動においても取り残されていたということからある意味、ブルジョア革命であったが、モルドバ、ワラキア両公国の反乱と関連したことから民衆運動の側面もあり、バルカン近代史の一環であったと考えられ[177][178]、セルビア、ギリシャと続いた革命はルーマニア、ブルガリア、マケドニア、トラキア、アルバニアでの民族解放闘争の開始にいたり、第一次世界大戦開戦にいたるまでのバルカン半島の歴史そのものであった[179]。 」
      1文で長過ぎです。長い文が必ずしも悪だとは思いませんが、すくなくともこの文はわかりづらいです。おそらく前半と後半で主語が少し違うであろう点も、それに拍車をかけています。
      「また、独立戦争に参加した諸勢力の利害関係や性格の面で多様性が見られること、列強の干渉に依存したこと、国民の大多数である農民らが独立戦争においても、その後の建国後の活動においても取り残されていたということからある意味、"独立戦争は"ブルジョア革命であったが、モルドバ、ワラキア両公国の反乱と関連したことから民衆運動の側面もあり、バルカン近代史の一環であったと考えられる。また、"セルビア、ギリシャと続いた革命は"ルーマニア、ブルガリア、マケドニア、トラキア、アルバニアでの民族解放闘争の開始にいたり、第一次世界大戦開戦にいたるまでのバルカン半島の歴史そのものであった。 」
      という感じでしょうか。
  2. 注釈が多く、私には少々過剰に感じました。これは変更しなければ賛成できないというわけではありませんが、必要な内容なら本文中に書く、この記事に書く必要性がさほど無いなら省く、といったようにもう少し吟味して注釈を絞り込めないものでしょうか。
    例えば、注釈50の「カポディストリアスによればギリシャの独立はあくまでも列強国の妥協による「棚からぼたもち」的なものであり、成熟したギリシャ人らが自ら進んで得たものではないとしていた。そのため、ギリシャが本当の独立を得るには自ら強力な指導力を発揮してギリシャ人の教育を行わなければならないと考えていた[150]。」は本文中に書いても自然に感じます。
  3. 「そのためにコリントス湾北の大陸ギリシャ地域に派兵して既成事実の形成などの努力を行ったが、露土戦争が発生したために国境の決定は1932年に持込される[155][156]。 」
    この文の「1932年」は正しいですか? この記事中の1832年のギリシャ独立のことかと思い、誤記の可能性を感じました。ググった程度ですが、1932年にギリシャの国境を決めるような出来事は見当たりませんでした。
  4. 画像使用に関して、記事中の前半あたりのどこかに地図画像を示すと、記事がもっと分かりやすくなると思います。例えば、白地図に、この記事で重要となる場所・地域や、当時のオスマン帝国の支配地域などを示したようなもののイメージです。本文で、何とか島、何とか半島、何とか海、と言われても、やはり多くの読者にとっては馴染みがなく、位置関係が想像しづらいのが実際だと思います。このような地図画像が掲示されていれば、読者にとって記事内容がもっと頭に入りやすくなると思います。--Yapparina会話2021年4月9日 (金) 20:51 (UTC)[返信]
ありがとうございます。ご指摘の点はごもっともな点が多く、修正しなければならないと思います。できる範囲より手を付けてよりよいモノにしたいと思います。--Hideokun会話2021年4月13日 (火) 14:09 (UTC)[返信]