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== 後日談 ==
== 後日談 ==
事件発覚から1年経った時点で、保釈中の石川ミユキは寿産院(閉鎖)の家屋に住み続け、中の三畳三間の3部屋を貸し出そうとしていた<ref name="asahi-g1949"/>。更に発覚から21年後、前述の[[訴訟の終了]]から約16年後の[[1969年]]、ミユキ(当時73歳、記事中では仮名「川野たか」)への取材記事が[[週刊新潮]]に掲載された。彼女は「首を絞めるなど手を下してはいない」「出来るだけ食事も与え、医師にも診せた」「ミルクが少なかった訳ではないが、夫がミルクを近所の大豆入りミルクと勝手に交換した」と涙ながらに[[冤罪]]を訴えた。出所後は「成功して無実の罪を着せられた復讐をしよう」と奮起して石鹸・クリーム・魚の[[行商]]を始め、この時点では東京都内で不動産業を営んでいた。かつての担当弁護士からの「今は億の金を作ったんじゃないですか」という証言も紹介された。また、夫の猛とは死別しており、2年前には自らの大きな墓を建てたと明かし、「川野たか、ここにありですよ」{{sic}}と豪語している<ref name="shincho1969"/>。
事件発覚から1年経った時点で、保釈中の石川ミユキは寿産院(閉鎖)の家屋に住み続け、中の三畳三間の3部屋を貸し出そうとしていた<ref name="asahi-g1949"/>。更に発覚から21年後、前述の[[訴訟の終了]]から約16年後の[[1969年]]、ミユキ(当時73歳、記事中では仮名「川野たか」)への取材記事が[[週刊新潮]]に掲載された。彼女は「首を絞めるなど手を下してはいない」「出来るだけ食事も与え、医師にも診せた」「ミルクが少なかった訳ではないが、夫がミルクを近所の大豆入りミルクと勝手に交換した」と涙ながらに[[冤罪]]を訴えた。出所後は「成功して無実の罪を着せられた復讐をしよう」と奮起して石鹸・クリーム・魚の[[行商]]を始め、この時点では東京都内で不動産業を営んでいた。かつての担当弁護士からの「今は億の金を作ったんじゃないですか」という証言も紹介された。また、夫の猛とは死別しており、2年前には自らの大きな墓を建てたと明かし、「川野たか、ここにありですよ」と豪語している<ref name="shincho1969"/>。


== 画像一覧 ==
== 画像一覧 ==

2022年9月16日 (金) 22:43時点における版

寿産院事件
早稲田警察署から護送される石川ミユキ
場所 日本の旗 日本東京都新宿区市谷柳町27番地[1][2]
座標 北緯35度41分53.4秒 東経139度43分33.6秒 / 北緯35.698167度 東経139.726000度 / 35.698167; 139.726000座標: 北緯35度41分53.4秒 東経139度43分33.6秒 / 北緯35.698167度 東経139.726000度 / 35.698167; 139.726000
標的 嬰児
日付 1946年4月 - 1948年1月15日
概要 嬰児の大量殺人事件
原因 凍死、餓死
死亡者 諸説あり
5人(確定判決
27人(検察の主張)
84人(警察の調査)[† 1]
負傷者 5人
犯人 3人 (有罪判決確定)
容疑 1人 (無罪判決確定)
動機 預かった嬰児への養育費や配給品等の詐取
関与者 1人 (釈放)
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寿産院事件(ことぶきさんいんじけん)とは、1948年昭和23年)1月に発覚した嬰児貰い子殺人事件。

概要

戦後混乱期が続く1948年1月、東京都新宿区助産院、「寿産院」(旧字体: 壽產院)において嬰児の大量殺人が発覚した。その主犯出産に携わる助産婦[† 2]であり、加えて養育料の横領配給品の横流しによって大金を稼いでいた事が判明し、社会に衝撃を与えた。その後も同様の事件が次々に発覚したため、産児制限を重視する声が高まり、優生保護法が制定される契機となった。一方で、複数の職能団体の解散または分裂を引き起こした。

経歴

石川ミユキ

事件の主犯格である石川ミユキ[† 3](旧姓: 小丸[6][7])は、1897年明治30年)2月5日生まれ[4]宮崎県東諸県郡本庄村出身[8][9]。宮崎県立職業学校の卒業後に18歳で上京[9]1919年9月30日に東京帝国大学医科大学附属医院産婆講習科を卒業し[6]、当時の女性としては非常に高い学歴を身に付けた。内務省指定校である同院を卒業したため、無試験で産婆資格を取得し[10]、同年11月12日に東京府の産婆名簿に登録された(登録番号: 5769)[6]。その後は日本橋牛込で30年余りにわたり産院を経営していた[8][9][† 4]

一方、夫の石川猛は3歳年長で[2]茨城県東茨城郡白河村出身、ミユキが23歳の時(1919年)に結婚した[8][† 5]農学校を2年で中退し、現役の志願兵として憲兵軍曹まで務めた。その後、1919年から1926年までは警視庁巡査として奉職し、退官後は定職に就かずに妻の事業を手伝い、後述の預り子に関する一切の手続きを引き受けていた[9][15]

ミユキは子宮卵巣を手術で切除したため、夫妻の間に実子は無かったが[16][2]、猛と先妻の間の息子および養子(男2人・女1人)と共に暮らしていた[9][17]。後述の逮捕までに、ミユキは日本助産婦看護婦保健婦協会理事、東京都助産婦会牛込支部長および牛込助産婦会会長の肩書を持っており、1947年の婦人年鑑においては女性の第一人者の一人として紹介されていた[9][18][19]。1947年4月、発足から間もない新宿区の区会議員選挙に無所属で立候補したが、落選している[20][9]

犯行

1943年から石川夫妻は、主に未婚の男女の間に生まれ、始末に困る私生児を預かって寿産院で養育し、子供を欲しがる者に斡旋する特殊産院[† 6]の事業を始めた。当時は堕胎罪により人工妊娠中絶は厳しく制限されており、私生児を預ける母親は戦争未亡人ダンサー女給娼婦などであった[2]。新聞に三行広告を掲載し、養育料として2千円から1万円(時には広告料として1,500円追加[22])を受け取った上で嬰児を引き取り、更に顔立ちの良さで金額を変えて、300円から500円で養親に売り払った[23][9][24]。これらの養育料の横領に加え、配給された粉ミルク砂糖、死亡した嬰児の葬祭用の清酒2(3.6リットル)を闇市に横流しする事で、事件発覚までに約100万円を稼いだ[2][9][† 7]。その収入で羽振りを良くし、当時はまだ高価かつ希少だった電話機を備えており[28][19][† 8]、また東京都内や茨城県内の土地を購入し、更に発覚直前には(当時は非常に高価な)自家用車を購入しようとしていた[30]

寿産院

預かる子供が増える一方で貰い手が少なくなると、預かった嬰児には平常の半分しかミルクを与えず、風呂にも入れず、おむつも替えず、医者には死ぬ間際しか診せないなどの劣悪な環境に置いた。このようにして、「売れ残り」の大部分は栄養失調症に陥らせて死亡させ、一部は冬期に保温せずに凍死させた。これに対し、開業以来雇われた十数名の助産婦は、増員やミルクの増量、保温処置を再三要求したが、ミユキは指示通りにすれば良いとはねつけた。後に逮捕された産婆助手Kも、ミユキの優れた助産技術を見習いたい一心から約1年間勤め続けたものの、耐えきれずに帰郷を申し入れていた[16][24][2]。入院した産婦の間でも、手当の仕方や、貰い子の保育の様子を見て「鬼産婆」と噂し合い、回復前に逃げ出した者もいた[22]

寿産院の「預り子台帳」および埋葬許可証に記録された、各年の貰い子と死亡児の推移は、以下の表の通りである[31][2][† 9]

1943 1944 1945 1946 1947 1948 合計
預り子台帳 8 24 34 40 100 5 211
埋葬許可証 0 0 1 24 53 6 84

発覚

石川ミユキ(前列右)、葬儀屋(同中央)および石川猛(同左)

1948年1月12日夜、続発する凶悪犯罪に対応するため、警視庁は全管下に臨時警戒を実施した。早稲田警察署の2人の巡査も警戒にあたり、新宿区榎町15番地で張り込みを行っていた最中、自転車の荷台に木箱を積んで運ぶ男に職務質問を行った。男は葬儀屋(当時54歳)で、4つの木箱には乳児の死体が1体ずつ入っていた。巡査が問いただすと、寿産院から頼まれて5体の死体を運ぶ途中であり、明朝に残りの死体と共に埋葬許可証を受け取って火葬する予定で、これまでにも30体の死体の火葬を頼まれたと答えた。結局、男は3通の埋葬許可証を所持していたため、そのまま帰された。警戒終了後、巡査は前述の顛末を上司に報告し、直後に早稲田警察署署長の井出勇にも伝わった[16][2]

1日に5体の乳児の死体が同じ産院から運び出され、しかも今までに30体以上の火葬を取り扱っているのは只事ではないと感じた井出は、翌朝に葬儀屋へ捜査係を派遣し、死因を調査するために死体の処置を待つよう指示した。検察庁にも手配し、同日に国立東京第一病院にて司法解剖を行った結果、3体は餓死、2体は凍死と死因が判明した[32][13][16][† 1]。これにより貰い子の養育をしない、殺人の不作為犯に相違ないとして令状を請求し、15日早朝に石川ミユキ(当時52歳)、夫の石川猛(当時55歳)および葬儀屋を逮捕した[2][† 10]。警察が夫妻の自宅でもある寿産院を捜索した結果、粉ミルク18ポンド(約8.2キログラム)、砂糖1500(約5.6キログラム)、米15升(約27リットル)が押収された[34][† 11]。また、院内では7人の乳児の生存が確認されたが、内2人は14日夕および15日朝に死亡、2人は実母が連れて帰り、2人は養子として引き取られ、残り1人の消息は不明である[32][35][† 12][† 13]

逮捕された葬儀屋は、死体1体につき500円で処理していた[39]。葬儀屋の自宅から約40柱の遺骨が発見され、更に別の業者が1947年の前半に、30柱余りの遺骨を無縁塔に葬っていた[40]。18日には、前述の産婆助手K(当時25歳[5])も共犯として逮捕された[41]。19日付で、助産婦規則第10条の規定に則り、東京都知事より助産婦としての業務禁止命令が出された[4]。21日、ミユキは読売新聞の取材に筆談で応じ「死刑にされても恨みません」と述べる一方で、子供に十分な食事を与えなかった理由を「後の補給の目当てが無いため」と答えている[42]。取調べにおいては「私は誠心誠意やってきた。母親は無理に預けていってしまう。死ぬのは当然」と主張した[9]

主に医師の中山四郎(当時60歳)が、ほとんど診察もせずに、夫妻の求めるままに偽りの死亡診断書を60枚近く作成し[41][43][16][2]、一部は別の医師も関与していた事が判明した[44]。また、貰い手の方は手続きが容易な無籍児を希望し、一方で死亡届や埋葬許可は有籍児の方が通りやすかったため、無籍児としてある有籍児を差し出し、その有籍児の氏名を騙って別の乳児の死亡届を出した事例が少なくなかった[45][46]。一方、ミルク配給のある有籍児が死ぬと、配給の無い無籍児が死んだと虚偽申告を行い、配給を受け続けた事もあった[13]。加えて、預り子台帳・埋葬許可証・死亡診断書の数が食い違うなど、手続や記録が曖昧だったために、真相の究明に支障をきたした[31]。26日、石川夫妻と助手Kは殺人罪で起訴されたが、葬儀屋は正式な埋葬許可証の交付を受けていたため、証拠不十分で釈放された[47][48][16][† 14]

反響

1月18日夜、早稲田警察署に抗議の群衆が殺到する出来事が起こった[49]。一方、食糧難の時勢に加え、死んだ乳児の大半が「不義の子」「日陰の子」であったため、漫談家随筆家徳川夢声が「産院に同情した」「大多数はモテ余して預ける」と語るなど[50]、殺されても仕方がなかったという風潮も存在した。これに対し、評論家宮本百合子は「正当な子供、正当でない子供というのは子供にとってどんな区別があることでしょう」「子供はすべて社会の子供として生命を保証される権利があります。そして私どもにはその義務があります」と異議を唱えている[51]国会においても、衆議院議員の山崎道子が「不義という観念が、非常にこうした不幸な人間を生む」「生れた子供は当然保護さるべき」「(母親を)保護し、何とかそうした道に陥らないようにすることが大切」と訴えている[52]

GHQ/SCAPの公衆衛生福祉局(PHW)や東京・神奈川軍政部もこの事件に注目し、調査官を現地に派遣した[53][54][55]朝日新聞は、事件発覚前から寿産院の周辺では只ならぬ噂が立っており、また尋常でない数の死亡届が出ていたにもかかわらず、警察や役所が動かなかったと批判した。これに対し、神楽坂警察署署長は「何の報告も無く、事件を知らなかった我々の責任ではない」と、新宿区長は「出鱈目な本籍が多いので、米の通帳でも持ってくるよう要求したが、権限が無い」「書類は揃っていた」と反論している[22]

1946年の寿産院(牛込区)および淀橋産院(淀橋区)の新聞広告

戦後から「産院は良い商売」という風潮が存在し、都内においては1947年1月の567軒から、12月には768軒に急増していた[23]。2月10日、東京都衛生局は、事件を受けて都内632軒の私設産院を調査した[56]。同日、新宿区戸塚の淀橋産院より63人の死亡届が出ていて、13,000円で子供を預けた女性がいた事などが明らかとなった[57]。更に17日には文京区春木町の長谷川産院[58]、23日には文京区上富士町の駒込橋産院と[59]、同様の事件が次々に発覚し、東京地検が受理した数は年内に(寿産院を含め)12件に上った[55][† 15]。加えて、大阪市でも同様の事件が発覚した[† 16]

医学博士の林髞は「問題を解決するには、堕胎を公認するしかない」と主張し、参議院議員の宮城タマヨは「私立のいかがわしい産院ではよく行われている」とした上で「より強力な母子保護の法制化が必要」「性道徳の退廃が問題」と訴えた[9]。石川ミユキが所属した助産婦団体の役員は、以下の声明を出している(いずれも一部抜粋・要約)[65]

「聖なる助産の使命に一層精進致したい」
日本助産婦会会長 風見すゞ
「世間に対し、又全国同業諸姉の名誉に対し何とも申しわけなき次第」「淀橋産院での同様の事件を聞き、遺憾に堪えない」
東京都助産婦会会長 市川いし
「産院は他の場所で分娩した嬰児を取扱うべきものではない」「産院はよい商売になる、というような間違った観念を一掃すべきである」「助産婦会館の一部に乳児院を設置したい」
東京都助産婦会副会長 原田靜江
「貰い子の多くは「蔭の子」であり、駆け付けた生みの親は数名しかおらず、それ以外の大部分の親に根本原因はある」「正しい性教育の普及、廃れた道義心の高揚が必要」「産院は、他の場所で生まれた子供を取り扱うべきものではない」「寿産院は、院主がこの仕事に興味を持ち出し、本格的に事業化したのが間違いの元」
日本助産婦会顧問・医学博士 鈴木三藏

結局、警察に出頭した貰い子の母親は30人程度だった[22]。2月24日、寿産院付近に立地する、葬儀屋で発見された遺骨35柱が埋葬された宗圓寺にて、事件の犠牲となった85柱の合同慰霊祭が行われた。新宿区長の岡田昇三、早稲田警察署署長の井出勇、石川夫妻の幼い養子など約50人が参加した[66]

2月27日、東京都は対策として、乳児預り業を認可制とする「乳児委託取締条例」を制定した[67]厚生省は3月19日付で「助産婦の業務に関する広告取締令」を出し、「事情ある方御相談に応ず」「乳児預かります、秘密厳守」などの広告を禁止した[68][69]。更に、この事件を一因として7月に優生保護法が制定され、翌1949年の改正によって経済的理由による堕胎が認められるようになった[70][69]。一方、かねてより日本の医療の近代化および合理化を図り、助産婦・看護婦保健婦の統合を推し進めていたPHWは、この事件の発覚以降に一層圧力を強めた。結果的に1948年5月27日、助産婦の抵抗も甲斐なく、日本助産婦会は解散へと追い込まれた[55][† 17]

裁判

6月2日、東京地裁にて刑事裁判(裁判長: 江里口清雄[71])の第1回公判が開かれた。被告人全員が殺意を否認し、石川ミユキは助手に任せきりだったと監督不十分のみ認めた[72]。4日の公判では助手Kが、勤務していたのは平均7、8名で、増員を申し出ても認められなかったと証言した[73]

7日の公判では、1944年に石川猛が大阪地裁にて株券偽造により詐欺罪の実刑判決を受けた後、刑の執行を引き延ばすために偽造診断書を提出した事件について審理された。猛は以下の通り陳述した[74][75][76][77]

  1. 第一生命保険の保険外交員であるさいがわよしかど[† 18]に、偽造診断書の入手を依頼した[† 19]
  2. 寒河江を介して、弁護士の大滝亀代司(公判当時は衆議院議員)に執行延期への協力を依頼した
  3. 大滝は「政治的に動くより道は無い」と答え、司法大臣検事総長に対する運動費として5万円の請求を受け、猛は35,000円を渡した

18日、猛は「預り証の無い乳児がいつも1、2名いて、どの子がいつ死んだか正確にはわからない」と杜撰な管理体制を認めた[80]。23日、実地検証[81]。7月9日、前述の大滝が出廷し「寒河江を介して依頼を受け、診断書を当時の検察官に示して、執行延期の許可を伝えたが、司法大臣や検事総長に会った事は無い」「35,000円の手数料は2回にわたり受け取った、日付は記憶が無い」と証言した[82][† 20]

8月20日、石川夫妻と助手Kに保釈が認められた[85]。9月3日、論告求刑公判が開かれ、1946年4月から1948年1月まで84名が死亡、内27名は殺人の証拠が明確と検察は主張した[86][77]。その際の罪状と求刑、および10月11日に下された判決は、以下の表の通りである[87][1][2][† 21]

公判の様子
罪状 求刑 判決
石川ミユキ 殺人 懲役15年 懲役8年
石川猛 殺人・私文書偽造行使 懲役7年 懲役4年
寒河江義門 私文書偽造行使 懲役10月 懲役8月
中山四郎 医師法違反 (不明) 禁錮4月
産婆助手K 殺人 懲役3年 無罪

判決では、22名の殺害容疑は証拠不十分で無罪としつつ、5名(事件発覚後の死亡者を含む[24])については石川夫妻が共謀の上で、栄養失調に至らしめて殺害した不作為犯と認定した。一方で助手Kについては、度々ミルクの増量を訴えるなど最善を尽くし、犯意が無いので無罪とした[87][1][16]。石川夫妻は即日、東京高裁に控訴した[1]。16日、検察は夫妻のみを控訴し、他の被告人は判決が確定した[88][† 22]

1951年7月14日、東京高裁での控訴審において、検察は夫妻に対し一審と同じ求刑を行った[91]1952年4月28日、一審判決は破棄され、ミユキに懲役4年、猛に懲役2年の判決が言い渡された[92][† 23][† 24]1953年9月15日、最高裁は上告を棄却し、二審判決が確定した[94][92]

後日談

事件発覚から1年経った時点で、保釈中の石川ミユキは寿産院(閉鎖)の家屋に住み続け、中の三畳三間の3部屋を貸し出そうとしていた[36]。更に発覚から21年後、前述の訴訟の終了から約16年後の1969年、ミユキ(当時73歳、記事中では仮名「川野たか」)への取材記事が週刊新潮に掲載された。彼女は「首を絞めるなど手を下してはいない」「出来るだけ食事も与え、医師にも診せた」「ミルクが少なかった訳ではないが、夫がミルクを近所の大豆入りミルクと勝手に交換した」と涙ながらに冤罪を訴えた。出所後は「成功して無実の罪を着せられた復讐をしよう」と奮起して石鹸・クリーム・魚の行商を始め、この時点では東京都内で不動産業を営んでいた。かつての担当弁護士からの「今は億の金を作ったんじゃないですか」という証言も紹介された。また、夫の猛とは死別しており、2年前には自らの大きな墓を建てたと明かし、「川野たか、ここにありですよ」と豪語している[35]

画像一覧

参考文献

いずれも私生児を寿産院に預け、事件発覚後に生き残った我が子を引き取った女性への取材記事[† 25]

  • 瀨川芙紗子「私はなぜ子を捨てねばならなかったか 『壽產院事件』の眞相を語る涙の手記」『婦女界』第37巻第1号、婦女界社、1949年、72-76頁。 
  • 靑木圭子(編)「昭和廿三年 解放された性の末路 第一話 寿産院に哭く」『りべらる』第9巻第13号、太虛堂書房、1954年12月、45-49頁。 

脚注

注釈

  1. ^ a b 実際には更に1名が含まれるが、奇形児であったために生育能力は無いとみなされ、被害者からは除外されている[48][15]
  2. ^ 1899年発布の産婆規則以降は「産婆」という呼称だったが、1947年5月2日に施行された勅令第188号により「助産婦」と改められた[3]。後に、2002年3月1日に施行された「保健婦助産婦看護婦の一部を改正する法律」(改正保助看法)により「助産師」と改称されている。
  3. ^ 事件を報道する新聞では「みゆき」というひらがな表記も見られるが、官公庁からの刊行物においては全て「ミユキ」とカタカナ表記で統一されている[4][5][2]
  4. ^ 1922年1月23日に一旦廃業を届け出たものの[11]1923年4月9日に再び産婆名簿へ登録し(登録番号: 7220)、日本橋区蛎殻町で開業した[12]関東大震災で罹災したため、翌1924年に被害の小さかった牛込区に転居している[13][14]
  5. ^ 1919年の産婆名簿への登録時点では、ミユキは小丸姓のままで、2人は北豊島郡板橋町にて同居していた[6]1925年にミユキの改姓が産婆名簿に登録されている[7]
  6. ^ 戦時中の人的資源増強政策として、私生児が闇に葬られるのを防ぐため、それらの乳児を預かり、希望者に引き渡す事業を政府から認可された産院[21]
  7. ^ 1947年の大卒銀行員の初任給は220円[25]、1948年は500円[26]。一方、2020年消費者物価指数(102.3)は、1947年(5.4)の約19倍、1948年(9.9)の約10倍[27]
  8. ^ 1948年における、人口100人あたりの電話普及率は1.2%[29]
  9. ^ 埋葬許可証の数に、事件発覚後に死亡した2名(後述)は含まれない。
  10. ^ 当初は配給米をごまかした詐欺の疑いによる別件逮捕を試みたが、裁判官から真意を疑われたため、逮捕状の請求を一旦取り下げた[33]
  11. ^ メートル法換算の数値は出典にはなく、独自に記載。
  12. ^ 事件発覚の翌年1月、実母が引き取った乳児の内1名は死亡、もう1名も結局は養子に出され、計3名の生存者が養親の下で安定した生活を送っている事が報道されている[36]
  13. ^ 1967年、消息不明の乳児に対する「失踪に関する届出の催促」が官報に公告され、1968年6月25日付で失踪宣告が確定した[37][38]
  14. ^ 同日に帝銀事件が発生し、その翌日以降の新聞報道はこの事件に集中するようになり、反比例して寿産院事件の報道は激減した。
  15. ^ この内、長谷川産院は寿産院事件の発覚後、名簿を焼却するなどして証拠隠滅を図った。だが、貰い子事業と並行して、医師と結託して十数件の堕胎を行っていた事が判明し(内1件の料金は1万円)、戦後初めて堕胎罪で起訴された[57]。その後、長谷川産院には8月10日に業務禁止命令が出された[60]
  16. ^ 犯人の女(当時37歳)は、16年前に貰い子(母親の大部分は水商売や未復員者の妻)の斡旋を始め、終戦以降は1人当たり2,500から8,000円で合計14名を預かり、総額9万円を得た。この内7名が栄養失調で死亡し、借りた産婆印で死産届を作成していた事により、死体遺棄および私文書偽造の容疑で同年9月8日に逮捕(後に起訴)された[61][62][63][64]
  17. ^ 1955年、助産婦6万人が日本看護協会(旧: 日本助産婦看護婦保健婦協会)から脱会し、再び日本助産婦会を設立している。
  18. ^ 氏名の読みは、当時の英字新聞に依拠[78]。57歳[74](満56歳[78])、59歳[79]、54歳[1]と紙面ごとに年齢表記が異なり、正確な年齢は不明。
  19. ^ 7月7日、江里口裁判長は科学捜査研究所の写真課課長である高村巌に、偽造診断書の筆跡鑑定を行うよう命じた。その結果、寒河江は猛との共作と主張したものの、実際には猛の主張通り、診断書に記入された文字は全て寒河江の筆跡に一致すると断定された[77]
  20. ^ その後、大滝の弁護士名簿からの取消請求と、同名簿への登録請求が、1949年8月29日付で同時に行われている[83]。また、大滝が所属する第一東京弁護士会は、大滝への懲戒処分の是非を巡って、複数の会派(派閥)へと分裂に至った[84]
  21. ^ 当時の新聞各紙は、中山の判決には言及していない。
  22. ^ 助手Kは無罪が確定し、1950年1月1日に公布・施行された新刑事補償法が初めて適用され、同年2月15日付で54,750円の刑事補償(1日あたり250円)の交付が決定された[89][90][5]
  23. ^ 有罪の地裁判決を受けて控訴中の被告人が、サンフランシスコ講和条約発効による恩赦により、(発効日である)4月28日付で減刑された事例があった[93]。後述の週刊新潮の取材記事では、ミユキはこの時の恩赦によって出所したと記述されている[35]
  24. ^ 28日は講和条約の発効日であり、翌日の新聞は独立(主権)回復の話題で一色となったため、この二審判決の報道は皆無であった。
  25. ^ アサヒグラフは1949年1月の時点で、実母が育てている寿産院の乳児はいないと報道しており[36]、これらの手記の信憑性は不明。

出典

  1. ^ a b c d e 毎日新聞東京本社1948年10月12日朝刊2面
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 『警視庁史 [第4] (昭和中編 上)』警視庁史編さん委員会、1978年、552-557頁。 
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関連項目

外部リンク