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「インドネシア独立戦争」の版間の差分

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2006年12月23日 (土) 15:13時点における版

インドネシア独立戦争(インドネシアどくりつせんそう、1945年 - 1949年)は、日本第二次世界大戦連合国へ降伏した後、インドネシア独立派と復帰したオランダ軍との間で発生した戦争。4年5ヶ月の戦争で80万人が犠牲になったが、結果的にインドネシア共和国が独立した。「インドネシア革命」、「インドネシア八月革命」ともいう。

独立宣言

オランダ大航海時代以来、およそ300年にわたって「東インド」と名づけた島々をオランダ海上帝国として植民地支配してきたが、大東亜戦争太平洋戦争)が勃発すると、日本軍1942年2月末から3月にかけてスマトラ島ジャワ島に進攻した。オランダ本国がすでにドイツ国占領下に置かれていたおり、また、現地人の反蘭的活動のために、もともと劣弱であったオランダ植民地軍は3月10日日本軍に全面降伏した。

日本は当初、石油資源の安定確保のために東インドを直轄の軍政地域とし、スカルノハッタらインドネシア民族主義指導者の独立の要請は認めなかったが、戦局が悪化してくると、1945年3月に東インドに独立準備調査会を発足させ、スカルノやハッタらに独立後の憲法を審議させた。同年8月7日スカルノを主席とする独立準備委員会が設立されたが、8月15日の日本の降伏によって独立への動きは停止するかと思われた。しかし、スカルノら民族主義者は連合国の了解を得ることなく、2日後の8月17日、一方的にインドネシア独立宣言を発表した。なお、この独立宣言の日付にはグレゴリオ暦ではなく、日本の皇紀が採用されている。

9月4日にスカルノを首班とするインドネシア共和国が成立した。10月5日には共和国の武装部隊も発足している。

一方、大戦に敗れた日本軍は、独立派への武器引渡しを禁止されていたが、これを無視して自発的に武器を引き渡した部隊もあり、または独立派と戦闘の末武器を奪われた部隊もあった。3万丁以上の三八式歩兵銃、数百の野砲・トラック、食料、弾薬、軍刀など多くの資材が独立派の手に渡った。日本軍の一部は独立派に身を投じ、そのまま日本に帰らなかった者もいた。

英軍の占領

一方、大戦中ロンドンに亡命していたウィルヘルミナ女王のオランダ政府はハーグへの復帰後、東インドの再征服を決定し、イギリス政府と協議した。そこで、まず英軍が東インドに上陸して日本軍を武装解除し、その後オランダ軍に引き渡すこととなった。

9月29日イギリス軍第一陣がジャカルタに上陸し、各地を占領していったが、10月25日スラバヤに上陸したイギリス軍第49旅団は武装したインドネシア人の抵抗を受け、戦闘が発生した(この英軍にいたインド人が感銘し、後のインド独立運動に影響を及ぼしたとの意見もある)。

スカルノやハッタがスラバヤに飛来して停戦を成立させたが、その後、イギリス軍旅団長が殺害されたため再び戦闘が発生し、各地に拡大していった。1946年1月、スカルノ大統領らはジョグジャカルタに退避した。やがてオランダ軍部隊が東インドに派遣されると続々と増加して12万人に達し、同年11月末にイギリス軍部隊はインドネシアから完全に撤退した。

国連の介入

1946年11月12日、オランダはジャワ島スマトラ島マドゥラ島をインドネシア共和国の勢力下にあると認め、双方は連邦国家樹立に向けて努力するという停戦協定(リンガジャティ協定)が成立し、しばらくは平穏な状態が続いた。

しかし、1947年7月21日に開始されたオランダ軍の全面的攻勢によって平和は破られた。オランダ軍はジャカルタやスラバヤを占領し、インドネシア共和国臨時首都であるジョグジャカルタにも迫った。独立軍は都市部を確保できず、農村部でのゲリラ戦に転換せざるをえなかった。

ここで成立したばかりの国際連合が介入、8月1日国連安全保障理事会はオランダとインドネシア共和国に停戦を呼びかけ、10月にはアメリカベルギーオーストラリアによる調停国委員がジャカルタに到着した。1948年1月17日ジャカルタ沖に停泊する米国軍艦レンヴィル艦上で新たな停戦協定が調印され、引き続きオランダとの和平案が模索された。

オランダ軍の反撃

副大統領ハッタが首相となったインドネシア新内閣は、米国の軍事援助を受け入れ、共産主義者を次第に排除していった。このため、共和国政府に権力抗争が多発し、オランダは12月11日和平会談決裂を宣言、12月19日再び戦闘が開始された。

オランダ軍は共和国臨時首都であったジョグジャカルタを陥落させ、スカルノ、ハッタら共和国政府要人を一網打尽にした。共和国側はスマトラで臨時政府樹立を宣言したが、重大な危機に立たされることになった。しかし、オランダの軍事的勝利は外交的敗北の始まりだった。国際世論は植民地主義に固執するオランダを激しく非難し、国連安保理はオランダに共和国指導者の釈放を要求した。とりわけオランダが打撃を受けたのが米国の経済援助停止だった。国際世論の圧力のもとにオランダは和平受諾に追い込まれて行く。また、インドネシアにおける過大な軍事費支出は、ドイツの占領で疲弊したオランダ経済にとって耐え難いものとなっていたのである。

ハーグ円卓会議

スカルノらインドネシア指導者は1949年7月になって次々に釈放され、8月23日にオランダの首都ハーグで円卓会議が開催された。オランダ首相によって主催されたハーグ円卓会議は11月2日に一応終結し、以下が決議された。

  1. 諸邦連立のインドネシア連邦共和国を樹立する。
  2. オランダは無条件でインドネシアの主権を連邦共和国に引き渡すことに同意する。
  3. インドネシア連邦共和国はオランダのインドネシア連邦(イリアン・ジャヤを含む)に参加し、オランダ女王を国家元首とする。
  4. インドネシア連邦共和国の外交、国防、財政等にオランダは永久に協力する。他。

オランダはインドネシアに対する影響力を残しながらも、12月27日インドネシアの主権を連邦共和国に移譲した。ここにおいて戦争は公式に終結した。また、オランダはインドネシア独立時に60億ドルという莫大な額を請求している。

戦後の行方

独立を獲得したインドネシアだが、オランダが影響力を残すため、共和国が支配するジャワ島のほかに、オランダの作ったいくつもの傀儡政権が連立する連邦共和国となっていた。だが、諸邦が分立する連邦共和国制度を不満とし、土侯国を中心とする諸邦の権力をジャカルタの中央政権に委譲させ、1950年8月15日インドネシア共和国の樹立が宣言された。オランダの目論みは完全に失敗し、300年に及ぶ影響力を遂に失った。

建国後のインドネシアは原油ゴムの輸出によって経済を再建するとともに、政治的には議会制民主主義を忠実に実行したが、政治的混乱を収拾するため、スカルノは1956年に「指導された民主主義」を提唱し、独裁制へ移行して行くとともに、ソビエト連邦へ接近した。1960年には、なおオランダ支配下にあった西イリアンへ進攻し、オランダと国交を断絶、米国の介入による国連暫定統治を経て、1962年にはインドネシアへの移管が決まった。

一方、オランダはドイツの侵略によって社会が疲弊しきっているところへ、最大の植民地である東インドを完全に失い、経済は大打撃を受け没落した。その上、植民地に固執して多くの血を流した姿勢は諸国の批判を招き、国際的地位は低下した。また戦争中、アメリカ合衆国によるマーシャルプラン(西欧経済援助)が停止されたことは特に打撃が大きかった。1962年には西イリアンも失い、植民地国家から西欧国家への移行を目指した。ベルギールクセンブルクベネルクス関税同盟はその後の欧州共同体、現在の欧州連合の先駆けとなった。

日本の関与

オランダ領東インドを占領した日本軍は兵補制度を採用して、これを日本軍の中に組み込んだ。こうした兵補の多くは、旧蘭印軍の現地人兵士から募集されたが、農村の住民から採用された者も多かった。

この「兵補」があくまで日本軍の補助兵力としての位置づけであったのに対して、郷土防衛義勇軍(Tentara Pembela Tanah Air、略称PETA「ペタ」)は、日本軍から組織的に独立し、インドネシア人指揮官が自ら率いる民族軍として構想されたものである。軍政下における現地住民の武装化については、日本軍内にも、また現地の民族主義運動リーダーたちのあいだにも慎重論があった。しかし、軍政当局の側には戦局悪化にともなう兵力不足の危機感が、そして現地指導者層の側には独自の民族軍を有していなければ独立達成後に旧宗主国オランダとは対峙できないという危機感があったため、1943年10月3日、ジャワ郷土防衛義勇軍の設立が正式に決定された。同様の組織は、バリ郷土防衛義勇軍、スマトラ義勇軍など、占領各地に創設された。こうして設立された民族軍ではあっても、占領期間中は日本軍の指揮下に置かれ、軍事訓練等は日本軍の指導の下に実施された。そして、インドネシアの独立宣言後、初期のインドネシア国軍の将校団を構成したのは、主にこれら対日協力軍の元幹部たちであった(以上、倉沢、1992年、第7章、を参照)。

日本の敗戦後、いち早く旧蘭印を占領したイギリス軍は日本軍を武装解除し、日本軍の軍人・軍属を日本へ送還したが、約2,000人の元日本軍兵は祖国に帰らず、そのまま除隊(この時点で日本軍籍は消滅)、残留してインドネシア独立軍に参加し、降伏時所持していた兵器物資を横流しした者、軍政資材をそのまま利用し独立運動の広報・宣伝に当たった者もいた。ある者はインドネシア人と結婚して家庭を築き、またある者はイスラームに改宗するなどして現地社会に溶け込み、インドネシア独立戦争の終了後も日本に帰還する者は少なかった。

多数の日本人が独立軍に身を投じたことは、建国後のインドネシアで親日的傾向の形成に寄与したと評価する声もあるが、その一方で、今日でもインドネシア国内においては、「インドネシア独立への日本軍政の貢献」といった言い方・評価には強い抵抗感がある。このことは、インドネシア独立戦争に参加した日本兵を描いた映画『ムルデカ Merdeka』(「独立」を意味するインドネシア語2001年、日本・インドネシア共同製作)がインドネシア国内で上映されるにあたって、その一部シーンについて同国政府から抗議があり、修正されたという経緯にもうかがうことができる(しかし「ムルデカ」はインドネシア軍が協力しており、インドネシア国内においても歴史認識に差異があることが伺える)。また、靖国神社における歴史認識、すなわち東南アジア諸国の独立に大東亜戦争が寄与したという歴史認識について、2006年には駐日インドネシア大使が批判している。

独立戦争に参加した、アブドルラフマン=市来龍夫歩兵操典をインドネシア語に翻訳した)とアレフ=吉住留五郎の墓が、東京タワーそばの青松寺にある。1956年スカルノ大統領が来日した際に、「民族の独立は一民族のものならず、全人類のものなり」と書かれた顕彰碑が送られた(市来龍夫については、後藤、1977年を参照)。

関連文献

  • Crouch, Harold, The Army and Politics in Indonesia, revised edition, Cornell University Press, 1988
  • Salim Said, Genesis of Power : General Sudirman and the Indonesian Military in Politics, 1945-1949, P.T.Pustaka Sinar Harapan, 1993
  • Taufik Abdullah ed., The Heartbeat of Indonesian Revolution, P.T.Gramedia Pustaka Utama, 1997
  • 増田与 『インドネシア現代史』、中央公論社、1971年
  • 宮元静雄 『ジャワ終戦処理記』、同書刊行会、1973年
  • 後藤乾一 『火の海の墓標-あるアジア主義者の流転と帰結-』、時事通信社、1977年
  • 後藤乾一 『日本占領期インドネシア研究』、龍渓書舎、1989年
  • 倉沢愛子 『日本占領下のジャワ農村の変容』、草思社、1992年
  • 首藤もと子 『インドネシア - ナショナリズム変容の政治過程』、勁草書房、1993年

関連項目

外部リンク