為替
為替(かわせ)とは、手形や小切手、郵便為替、銀行振込などによって金銭を決済する方法である。遠隔地への送金手段として、現金を直接送付する場合のリスクを避けるために用いられる。特に輸出入をする際に用いられている。
日本では江戸時代の大坂を中心に為替(手形)による取引が発達して、当時の世界ではもっとも優れた送金システムを築き上げた。
主に次の2種類に分けられる。
- 内国為替 金融機関が、国内の遠隔地で行われる債権・債務の決済を、現金の移送を行わずに決済する方法。
- 外国為替 通貨を異にする国際間の貸借関係を、現金を直接輸送することなく、為替手形や送金小切手などの信用手段によって決済する方法。
また、外国為替を利用した金融派生商品に「外国為替証拠金取引」がある。
江戸時代の為替
いわゆる「為替」という言葉が生まれたのは、鎌倉時代である。この時代、鎌倉で俸給をもらう下級役人が現れており、俸給として鎌倉に入って来る年貢を先取りする権利が与えられた。その際に権利証書として「為替」が発行されたのである。あるいは、鎌倉番役や京都大番役を勤める中小の御家人が、地元の所領からそれぞれが金銭や米を持ち込まなくとも、大口の荘園に便乗する形で、鎌倉や京都で金銭や米を受け取るシステムとして、為替の仕組みが生まれている。つまりこの時代の為替は、金銭のみならず米その他の物品の授受にも用いられていたのである。
いわゆる金銭のみの授受としての、日本で最古の為替の仕組みは室町時代の大和国吉野で多額の金銭を持って山道を行くリスクを避けるために考えられ、寛永年間に江戸幕府の公認を受けた制度であるとされている。吉野には大坂などの周辺地域の商人も出入しており、大坂商人の為替はこれを参照したとする説もある。また、鎌倉時代以来存在した割符との関係も指摘されている。
江戸時代の日本では、政治・消費都市である江戸と経済的中心である大坂(更に商工業が発展した都・京都を加える場合もある)の間で商品の流通が盛んになった。それは多額かつ恒常的な貨幣流通の需要を生じさせるとともに、支払手段としての貨幣機能の発展、信用取引の発展を促して、両替商あるいは大都市それぞれに店舗を持つ大商人を仲介とした為替取引を発達させた。
例えば、江戸の住人・「甲」が金100両を大坂在住の「乙」に送金する場合、江戸の両替商「丙」に100両を預けて、「丙」は代わりに為替手形と置手形の2通を作成して「甲」に渡す。「甲」は為替手形のみを「乙」に渡して、置手形は保管する。「乙」は為替手形の裏側に裏書を行った後に「丙」によって指定された大坂の「丁」(「丙」の支店あるいは取引先である事が多い)に為替手形を渡して金100両を受け取る。その後、「丁」は「丙」に返送して、「乙」の裏書を証拠として「甲」から置手形を取り戻した。この他にも両替商間で予め一定額限度で相手側からの支払要請の受理を保証する事を約束しあった空置手形や、予め両替商に預け入れている事を示す預金証書である預り手形や預金者が預金先である両替商に対して振り出す振手形などが存在し、最終的には「丙」と「丁」の間における相互の手形の差引及び相殺によって処理した。
特に江戸・大阪間では消費都市である江戸の商人達からの支払のための手形と商業都市である大坂からの江戸幕府の大坂城御金蔵や諸藩の蔵屋敷における米や物産の売却代金を幕府中枢及び諸藩の江戸屋敷に御用両替商を通じて送金するための手形(幕府ではこれを「公金(江戸)為替」と称した)が行き交っており、大坂の両替商は幕府や諸藩から依頼された送金用の金銭で江戸から流れてきた江戸からの支払用の手形(下為替)を買い入れて(国内為替市場の形成)、江戸の両替商に送り、江戸の両替商はそれを江戸の商人達から取り立ててその代金を大坂の両替商に代わって幕府や諸藩に納付していた。
こうした手形のやり取りが両替商達の信用力を高めて行くとともに、集められた資金は投資や貸付資金などにも流用されて、日本の近代資本主義の成立に欠かせない信用機関の発展と都市商業資本の集積に貢献したとする見方が強い。それだけに江戸幕府崩壊と廃藩置県に伴う、経済構造の変化は為替に対する信用不安を生み出す可能性が出てきた。このため、明治政府は遅々として進まない商法典制定の中でいち早く手形・為替関連法を整備するとともに、国立銀行の設置などの金融政策を取っていく事になった。
参考資料
- 山口徹『日本近代商業史の研究』東京大学出版会(書籍情報:ISBN 4-13-020097-6)
西洋における為替の歴史
中世の為替取引には今日の鋳貨同士による両替に相当する小口為替(petty exchange)とそこから派生した証券を仲介とする証書為替(exchange by bills)が存在した。今日の為替取引の原型は後者にあたる。13世紀の北イタリアの都市で両替に伴う貨幣運搬の危険性を避けるために公証人を間に立てて支払いを取り決めた公正証書を作成させたのが始まりとされている(※)。
この仕組みが促進させたのは当時の教会と大商人たちである。前者はローマ教皇が10の1税を徴収するために行われたもので、各キリスト教国で徴収事務を扱った両替商がその税収を原資としてローマやイタリア各地にある教皇庁御用の両替商や大商人の為に物資を販売し、その売掛金の代金受け取りを約束した公正証書を教皇庁に送り、教皇庁が御用商人から売掛金を回収する事で税収相当の金銭を得ていた。後者は代金支払いのためにシャンパーニュの大市などの大市を確定日として振り出された手形を振出人からの商品購入希望者が購入して大市当日において振出人からの商品購入の代金の代わりに手形を提示して相殺して商品を入手した。やがて後者は15世紀頃に従来の持参人支払いの公正証書から現在の為替手形の形式に変わっていく事になる。
※…古代バビロニアや古代エジプト、8世紀のイスラム帝国にも為替手形は存在したと言う説もある。ただし、今日の為替の仕組みに直接繋がる可能性は低く、たとえ実在するとしても起源とするのには不適切だとするのが一般的である。
為替は売買か貸付か
為替は本来商取引に伴う貨幣運搬のリスクと流通経費の発生を避けるために同一(あるいは近隣)地域内の代金決済に振り替えるものである。この関係の発生の仕組みを代金受け取り(あるいは相殺する)権利の売買と看做すか、一定期日に返済を行う事を前提とする一種の利息(為替の売買の際に発生する差益が利息であるとする)を伴う信用貸付であるのかが中世以来ずっと議論されてきた。利息を伴った貸付を禁じる一方で為替の運用で資金の安定供給を得ていた教皇庁の立場の影響を受けているヨーロッパ大陸では前者を支持する意見が強く、宗教改革や重商主義でこれらの国々と競ってきたイギリスでは後者の意見が強い。この論争はマルクス経済学の影響で日本にも伝えられ、戦後のマルクス経済学者間で激しい論争が行われたと言う。
内国為替制度
たとえば個人や企業がB銀行に対する送金をA銀行に依頼したものとする。その場合に銀行同士の決済を行うための仕組みは内国為替制度と呼ばれる。全銀システムという。全銀システムでは、日本国内のすべての銀行の貸借関係が相殺され、過不足が日銀当座勘定で清算される。内国為替とは、国内でのこうした送金の流れをさすものである。
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参考
関連項目
罫線表の種類
- 価格の変動を表す罫線表
- その他の罫線表
外部リンク
- 外国為替及び外国貿易法 (法令データ提供システム)
- 金融先物取引法 (法令データ提供システム)
- Yahoo!ファイナンス - 外国為替情報
- 外為 Infoseek マネー
- 主要国政策金利
- 主要19通貨のリアルタイム為替クロスレート表とクロスレートチャート