映画芸術
『映画芸術』(えいがげいじゅつ)は、日本の映画雑誌である。季刊誌。
概要
1946年に沢村貞子の夫であり京都新聞出身の大橋恭彦が創刊[1][2][3][4]。
1963年頃の執筆陣は、吉本隆明、埴谷雄高、花田清輝、いいだもも、斎藤龍凰、三島由紀夫や武田泰淳ら。社長が大橋恭彦で、編集長が小川徹という体制で、後に映画監督となる神山征二郎がレイアウトのアルバイトで参加していた[2][5]。1964年には6,000部だった発行部数は、1969年末には13,000部に伸びた[6]。
しかし、1970年6月から経営難のためストライキも勃発し、発行も編集長の小川徹が行うようになった。従来の映画雑誌が取り上げなかったアングラ映画やポルノ映画も積極的に取り上げて評論するようになる。1960年代末から1970年代にかけての小川編集長時代の『映画芸術』は、佐藤重臣の『映画評論』や松田政男の『映画批評』と並ぶ存在だったが、「政治的に過ぎる」ともみなされる[1][2][6][7]。
商業的には低迷して、1972年8月から隔月刊化し[8]、その後、季刊を経て休刊となる。休刊の際には葬式パーティーが開かれた[2][9]。
1989年に脚本家の荒井晴彦が癌で死の直前の小川徹から引き継ぐ形で、発行人兼編集長となって、季刊誌て復刊した。執筆陣は、荒井の人脈で、田中陽造、大川俊道、桂千穂、佐治乾、神波史男など脚本家仲間が多く参加して、映画評論家から映画人に比重を移した[1]。金欠のために編集スタッフは無報酬のボランティアであり、新宿ゴールデン街でクダを巻いてるような映画人の愚痴ばかりと揶揄されるような誌面作りの一方、個人雑誌の強みから、映画業界誌的な『キネマ旬報』には不可能な業界タブーを書けるとも評価されている。1997年夏には、執筆陣が大量に離反して、浅田彰、鹿島徹といった学者を起用して誌面をリニューアルした[2]。
発行元は、星林社、第一出版社、共立通信社出版部、映画芸術社などを変遷している。
日本映画ベストテン&ワーストテン
毎年1月に発表されるランキングである。『ALWAYS 三丁目の夕日』や『おくりびと』など、他の映画賞で高評価の映画をワースト一位にすることがあり、そのことがきっかけで掲示板を荒らされることもある。また、本ランキングは「ベスト票の点からワースト票の点数分を引いて、その結果をベストランキングとする」という方式[10]であり、映画評論家の柳下毅一郎はその件について、「荒井晴彦の都合の良い結果にするためのシステムである」と言う趣旨の批判をブログでしている[11]。それに対し『映画芸術』側も公式サイトで反論している[12]。
脚注
- ^ a b c 谷岡雅樹『Vシネマ魂 二千本のどしゃぶりをいつくしみ……』四谷ラウンド、1999年、p.367
- ^ a b c d e 山本修構成・文「キネマ旬報対映画芸術 老舗映画誌はつらいよ」『別冊宝島345 雑誌狂時代!』宝島社、1997年、pp.165-167
- ^ 斎藤茂太「骨は自分で拾えない」 集英社文庫・今月の新刊ちょっと立ち読みコーナー 集英社公式サイト内
- ^ 田中純一郎『日本映画発達史3 戦後映画の解放』中央公論社、1980年、p.416。
- ^ 神山征二郎『生まれたら戦争だった。 映画監督神山征二郎自伝』シネ・フロント社、2008年、pp.47-48。
- ^ a b 佐藤千穂「シカゴにて『映画芸術』の歴史を想う」『映画芸術』1996年春 NO.378、p.55
- ^ 黒沢清『黒沢清の映画術』新潮社、2006年、p.15。
- ^ 田中純一郎『日本映画発達史5 映像時代の到来』中央公論社、1980年、p.382。
- ^ 中島貞夫著、河野真悟編『遊撃の美学 映画監督中島貞夫』ワイズ出版、2004年、p.140。
- ^ 2007年度に廃止されたが、2008年度には復活している
- ^ 映画評論家緊張日記 2009-02-03
- ^ 映芸ダイアリーズ座談会 柳下毅一郎氏のブログ発言から、ベストテン&ワーストテンを考える