ハインリヒ・ヨーゼフ・ベールマン
ハインリヒ・ヨーゼフ・ベールマン(Heinrich Joseph Bärmann または Baermann とも、1784年2月14日 ミュンヘン - 1847年6月11日)は、19世紀前半を代表するクラリネットのヴィルトゥオーゾの一人で、その流麗で美しい演奏により、ウェーバーやメンデルスゾーンらに霊感を与え、両者の協奏曲や室内楽に影響を及ぼした。自身も作曲をよくし、とりわけ《クラリネット五重奏曲 変ホ長調》作品23の第2楽章は、かつてはワーグナー作品と誤認され、「ワーグナーのアダージョ」と呼ばれていた。
青年期にポツダムの軍事学校でクラリネットをヨーゼフ・ベーア(1744年 - 1811年)に師事した。その後は演奏力がベルリンのルイ・フェルディナント王子の宮廷に注目され、1804年に同地の宮廷楽団においてフランツ・タウシュ(1762年 - 1817年)の薫陶を受けた。王子薨去後は1807年よりミュンヘンの宮廷楽団に採用され、没するまでその地位にあった。
その頃クラリネットは、ベールマンの出世と並行して、キーの構造やアンブシュールが一連の発達を遂げている最中であり、それによって機敏で柔軟な演奏が可能になったのである。当時は、それまでの演奏習慣とは逆に、今日と同様に下唇の上に簧を乗せて吹くのが習慣化した時期であった。ベールマンはこの新しい演奏様式の擁護者であり、グリースリングやシュロットが製造した近代的な楽器を所有したことにより、伝統的な5鍵クラリネットよりもずっとたやすく半音階的なパッセージを吹くことが出来るようになったのであった。ベールマンのダイナミックレンジは広かったと言われている[1]。
ベールマンのために数多くの作品が作曲されているように、ベールマンがロマン派のクラリネット音楽に影響を与えたことは明らかである。フランツ・ダンツィやペーター・フォン・リントパイントナーといった比較的無名の作曲家からだけでなく、マイヤベーアやウェーバー、メンデルスゾーンといった大家からも作品を贈られた。メンデルスゾーンの(ベールマンと息子カールが共演できるようにとの意図で作曲された)2つの《コンツェルトシュテュック》作品113および114や、マイヤベーアの《クラリネット五重奏曲》のような例があるが、とりわけウェーバーはベールマンの演奏様式に刺戟されて一連のクラリネット作品を手懸けており、《クラリネット五重奏曲》作品34や《コンチェルティーノ》作品26、2つのクラリネット協奏曲(作品73および作品74)といった比較的有名な作品のほか、《協奏的大二重奏曲》作品48や《「シルヴァーナ」の主題による変奏曲》作品33なども残している[2]。
同時代のヴィルトゥオーゾの例に漏れず、ベールマンもまた得意とする楽器のために作曲を手懸けており、《コンチェルティーノ ハ短調》や《コンツェルトシュテュック ト短調》、《クラリネット協奏曲 変ホ長調》、《クラリネット五重奏曲》は、ディーター・クレッカーやコンソルティウム・クラシクムによって録音されている。
脚註
- ^ His playing is described in primary sources by the Trio de Clarone in the Preface to Mendelssohn's Concert Piece for Clarinet, Basset Horn and Piano No. 1, published by Breitkopf and Härtel, Germany, 1993
- ^ Taken from the section by Pamela Weston in Colin Lawson's Cambridge Companion to the Clarinet, pp. 94-95, Cambridge University Press, Cambridge, 1995.