鯰絵
鯰絵(なまずえ)は江戸時代の日本で出版された、ナマズを題材に描かれた錦絵(多色摺り)の浮世絵)の総称である。大鯰が地下で活動することによって地震が発生するという民間信仰に基づいており、1855年(安政2年)10月2日に起きた安政の大地震の後、江戸を中心に大量に出版された。本稿では特に断りのない限り、安政の大地震を単に「地震」と表記する。
背景
鯰絵の種類は確認されているだけで250点を越え、実際はそれを大きく上回る点数の鯰絵が発行されたと考えられている。当時の書籍や浮世絵は幕府の検閲を受けていたが、鯰絵はほぼすべてが無届けの不法出版であり、取締まり逃れのため作者や画工の署名が無いものが多い。地震の発生直後から出版が始められた鯰絵は身を守る護符として、あるいは不安を取り除くためのまじないとして庶民の間に急速に広まり、流行が収束するまでのおよそ2ヶ月の間に多数の作品が作られた。
1840年代前半に幕府により実施された天保の改革は質素倹約を旨とし、贅沢品とみなされた浮世絵は規制の対象となった。それまでの華美な役者絵・美人画は発行を厳しく制限され、風景画や風刺画、あるいは色数の少ない作品への転換を余儀なくされていたのである。歌舞伎の正月とされる11月を前に地震が発生し興行が中止となったことも、芝居絵による収入を当てにしていた版元には打撃であり、鯰絵が大量に発行された背景の一つと考えられている。
鯰絵の種類
鯰絵には多種多彩な構図が用いられた。大鯰を懲らしめる庶民の姿を描いた合戦図の形式、あるいは両者の対立を描いたものが特に知られる。鹿島神宮(現在の茨城県鹿嶋市)の祭神である武甕槌大神が要石によって大鯰を封じ込めるという言い伝えは当時広く流布しており、ナマズと対決する役柄として鯰絵にもしばしば登場している。ナマズが地震を起こしたことを謝罪したり、震災復興を手伝ったりするユニークなパターンも、いわゆる「世直し鯰」の構図としてさまざまな作品が作られた。倒壊家屋が多かったため、地震後の復興景気により大工や木材商が莫大な利益を上げたことを風刺し、これらの職人や商人がナマズに感謝する姿を題材にしたものもある。このような地震により損をした者、得をした者の対比は多くのバリエーションで描かれ、「三人生酔」(笑い上戸・泣き上戸・怒り上戸の三者の姿を通じて立場の違いを表す)などの手法によって人々の喜怒哀楽が表現された。
鯰絵の前身
上述の通り、地震の後に流布した鯰絵はさまざまなモチーフで描かれたが、これらは必ずしもオリジナルの画題・構図で描かれたわけではなく、地震以前に知られていた浮世絵や民画をパロディ化したもの、当時流行していた世俗の文化を取り入れたとみられるものが多数ある。
歌舞伎
ナマズが大地震を起こすという俗説は江戸時代中盤には既に民衆の間に広まっていた。歌舞伎十八番の一つである演目『暫(しばらく)』には「鯰坊主」という悪役が登場し、主人公に対し地震を背景とした強がりを言う場面がある。地震の後発行された鯰絵にも、『暫』を題材としたものが見受けられる。『暫』の主人公が鯰坊主を要石で押さえつける、というのが主な構図である。要石による大鯰の制圧は本来は鹿島大明神の役割で、歌舞伎の『暫』にはこのような場面は登場せず、両者の特徴を組み合わせた構図とみられる。このほか、『与話情浮名横櫛』『鞘当』などの演目も鯰絵の題材とされている。
大津絵
鯰絵の前身と言える絵画の一つに大津絵がある。大津絵は大津宿を中心に描かれた民俗絵画で、本来の仏画とともに多彩な世俗画を特徴としている。「大津絵十種」と呼ばれた代表的な画題の一つとして、室町時代の画僧如拙により描かれた国宝「瓢鮎図」(ひょうねんず:ここでの鮎は鯰の古字)を茶化した「瓢箪鯰」がある。つるつるの瓢箪でぬめるナマズを押さえつけるにはどうするかという禅問答をモチーフとしたのが本来の瓢鮎図で、大津絵では猿が瓢箪で鯰を押さえようとする図が滑稽に描かれる。地震後の鯰絵にも、この瓢箪鯰に加え、藤娘など大津絵のテーマをパロディ化したものが種々認められる。
瓦版
江戸時代、地震の被害状況や復興の様子が、瓦版で各地に伝えられた。地震を報じた瓦版にナマズが登場したのは、1819年(文政2年)の伊勢・美濃・近江地震が最初とみられている。この瓦版は「文政二己卯年大角力」と題され、擬人化されたナマズと神々が相撲をとる姿が描かれている。1847年の善光寺地震(弘化4年3月24日)では歌川国輝による「さてハしんしうぜん光寺」にナマズが現れるほか、1853年の小田原地震(嘉永6年2月2日)や翌年の安政東海地震(嘉永7年11月4日)の後にも鯰絵が出版されている。
江戸の世相・風俗
当時の江戸では大日如来などへの参詣が広まっており、このときに描かれた世俗画の構図が、鹿島大明神が登場するいくつかの鯰絵に影響している。遊廓のお座敷遊びであった首引きやじゃんけんもテーマとされ、地震の2年前に黒船で来航したペリーとナマズが首引きをする「安政二年十月二日夜大地震鯰問答」などの例がある。また、前年に亡くなった人気の歌舞伎役者である八代目・市川団十郎の死絵も、「大鯰後の生酔」という鯰絵に影響を与えている。
鯰絵が与えた影響
はしか絵
上述のように、鯰絵は以前に存在したさまざまな出版物を下敷きとし、また当時の世俗を反映したものであった。一方で鯰絵自身もまた、後世の風刺画に影響を与えている。よく知られたものが1862年(文久2年)のはしか絵である。はしか絵は疱瘡絵とも呼ばれる浮世絵の1種で、当時、治療不可能とされた天然痘を防ぐ護符としての役割をもつとともに、流行に混乱する人々の状況を描く世俗画でもあった。文久2年に江戸で麻疹が広まった際に描かれた一連のはしか絵では、7年前の鯰絵に構図を借りた作品がしばしば見受けられる。ナマズを打ち据える民衆を描いた「即席鯰はなし」に対する「はしか後の養生」など、鯰絵における大鯰を麻疹の神に置き換えたものが基本である。また、金太郎、桃太郎、鍾馗、源為朝などが、疫病神の嫌う色・赤色のみで描かれている。
- 「桃太郎」 南岱 作 大判 嘉永2年
あわて絵
はしか絵の翌年、1863年(文久3年)には生麦事件から薩英戦争に至るまでの江戸における混乱を描いたあわて絵が流行した。この年横浜ではイギリス軍による幕府への威嚇砲撃があり、本格攻撃を恐れた庶民が江戸から郊外へと一斉に避難する騒ぎがあった。この様子を滑稽に描いたのがあわて絵で、はしか絵と同じく鯰絵の構図を多く参考にしている。
参考文献
- 気谷誠 『鯰絵新考 災害のコスモロジー』 筑波書林、1984年
- 稲垣進一編 『図説浮世絵入門』 河出書房新社 1990年 ISBN 4-30972476-0 C0371
- 川那部浩哉監修 『鯰<ナマズ> イメージとその素顔』 八坂書房 ISBN 978-4-89694-904-9
- 宮田登・気谷誠・今田洋三・高田衛・北原糸子 『鯰絵―震災と日本文化』 里文出版 ISBN 978-4947546845