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15の夜

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「15の夜
(THE NIGHT)」
尾崎豊シングル
初出アルバム『十七歳の地図
B面 「傷つけた人々へ」
リリース
規格 7インチレコード
録音 1983年7月30日 - 31日[1]10月1日[2]
ソニー六本木スタジオ
ジャンル ロック
時間
レーベル CBSソニー
作詞・作曲 尾崎豊
プロデュース 須藤晃
尾崎豊 シングル 年表
15の夜
1983年
十七歳の地図
1984年
十七歳の地図 収録曲
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15の夜」(じゅうごのよる)は、日本のシンガーソングライターである尾崎豊の1枚目のシングル。英題は「THE NIGHT」(ザ・ナイト)。

1983年12月1日CBSソニーからリリースされた。作詞・作曲は尾崎が行い、プロデュースは須藤晃が担当している。

ファースト・アルバム『十七歳の地図』(1983年)と同時リリースされたデビューシングルであり、尾崎が14歳の時に家出を行った経験を基に製作された曲。しかし後年、尾崎の父である尾崎健一は尾崎本人ではなく友人の家出を題材とした曲であった事を明らかにしている[3]。また歌詞中にあるバイク窃盗する描写について尾崎の同級生は、「尾崎はバイクを盗んだことはない」と述べている[4]

尾崎の死後となる1993年4月25日に生前最後の公演となった代々木オリンピックプール第一体育館におけるライブ演奏バージョンが「15の夜(ライブ)」としてリリースされ、死後の報道時にはそのバージョンが多く使用された(後述)。

背景

小学校5年生の時に東京都練馬区から埼玉県朝霞市に引っ越した尾崎は、転校先の学校に馴染めずに登校拒否を行うようになった[5][6]。学校に行かずにいた尾崎は、兄が購入して使用されていなかったクラシック・ギターを手に取り音楽に触れる事となった[5][6]。特にフォークソングやシンガーソングライターの曲に興味を持っていた尾崎は、その中でも井上陽水の詞の世界のシチュエーションに強く惹かれていた[6]。小学校6年生になると半年に渡り登校拒否を続け、その間は実家にて井上やさだまさしイルカの曲を弾き語りで演奏していた[5][7]

中学生になった尾崎は以前住んでいた練馬区の中学校に越境入学する[8]。旧友たちと再会した尾崎は学校に行くようになり、フォークソング・クラブに所属[8]。小学校の頃に毎日ギターを弾いていた尾崎は、同学年の誰よりもギターも歌も上手かったためすぐに一目置かれるようになり、声質が岸田智史に似ているという事から文化祭で演奏し一躍学校内で有名な存在となる[9][6]。その後、青山学院高等学校へと進学した尾崎は、ジャケットを見ただけで購入したジャクソン・ブラウンのアルバム『孤独なランナー』(1977年)の収録曲「孤独なランナー(ランニング・オン・エンプティ)」を聴いて衝撃を受ける[9][10]。その影響で「町の風景」や「ダンスホール」などの曲を制作したが、ギター1本の弾き語りスタイルは時代遅れのフォークソングと捉えられると考えた結果誰にも公表せずにいた[11]

その頃、中学時代の友人から促された事を切っ掛けとして、CBSソニー主催の「SDオーディション」、ビクター主催のオーディションにそれぞれ応募する[12]。尾崎は「SDオーディション」に合格し音楽プロデューサーである須藤晃が担当となり、尾崎と須藤は月に一度会う機会を設けた[13]。会合の席で須藤は尾崎の作成したデモテープや大学ノートに綴られた歌詞に目を通していたが、尾崎の書く歌詞は須藤の望むような作品ではなかったため音楽に関する話はせず、尾崎の読む本の話や日常の話をするに留めていた[14]。その後、尾崎が書いてきた「十七歳の地図」の歌詞を見た須藤は「十七歳の少年そのものの言葉が息づいている歌」として感嘆し、ようやくレコーディングに取りかかる事となった[15]

録音、制作

レコーディング前の打ち合わせの段階で、尾崎が須藤に初めて渡した詞であり、その際は「無免で…」というタイトルであった[16][17]。須藤は無免の意味が分からず、尾崎に対し「無免って何?」と尋ね、釈然としなかったためタイトル変更を要求した[17]。その後、デモテープの段階で「無免許」に変更。さらに「15の夜」に改題された[18]

1983年7月30日18時から、当時高校三年生であった尾崎にとって初となるレコーディングが開始され、本作の他に「愛の消えた街」「僕が僕であるために」も同時にレコーディングされた[1]。当日はリズム録りのみであったが、曲構成やボーカルとのリズムの照らし合わせのため尾崎のボーカルも同時に録音されている[1]10月1日には正式に歌入れが行われた[2]

当初の構想では無免許で暴走族のような行為を行った夜を題材とした長い歌詞となっており、レコーディングの段階で歌としての体裁を取るために家出をした友人に同情して集まったものの、一晩ともたずにそれぞれが帰路についたというストーリーの歌詞に変更された[16]。曲の途中でメロディーを崩して語り口調になる箇所があるが、これは浜田省吾のアルバム『PROMISED LAND 〜約束の地』(1982年)の収録曲「僕と彼女と週末に」に影響された尾崎が「メロディーを歌いながら、一部語ってるみたいな曲にしたい」と希望した事から採用された[16]。須藤は歌詞中の「自由になれた気がした」という箇所に関して「自由になれた」とは言わない所が尾崎らしいと述べている[16]

音楽性と歌詞

盗んだことをいいことだとは思わない。でも10人の友達が、あの車のなかでどんな夢を見てたのか知らないけれど、無理やり髪を切られるのは間違ってるって、自分の思った正しい道へ進もうとしたことは、大切なことなんじゃないかって今でも思ってる。そういうあいつらの気持ち、僕自身の気持ちを大切にしていかなきゃいけないと思ってます。
尾崎豊,
ギターブックGB 1984年6月号[19]

本作は尾崎が14歳の時、中学校にてタバコを吸っている所を教師に発見された事、もしくは尾崎の同級生である友人の一人が髪が長いという理由で、中学校の教師にバリカンで髪の毛を刈られたことに反発し仲間とともに実際に家出した経験を基に作られた[20][21]。夜中に仲間10人と共に家出をした尾崎は、バイクで街を走り回ったが、後に行き場をなくして車のスクラップ工場で仮眠を取っている際に教師に発見され補導されたと述べている[20]。当初は「14の夜」と作詞したかったが、語呂が悪いため「15の夜」とした。その仲間たちとよく集まり、歌詞にもある家出の計画を立てた場所は、東京都練馬区にある向山公園である。

しかし父である尾崎健一の日記によれば、実際には尾崎の友人の家出を題材とした事が明らかになっている[3]。健一の日記において家出は1978年10月に起きた事であると記されており、「友人の家出を午前三時まで探す」、「これは、後に豊が『15の夜』で歌った事件」と記述されていた[22]。この出来事は尾崎が13歳の時であり、また午前三時までは尾崎は友人と共に過ごしていた事となる[3]。このエピソードは後に脚色され、仲間10人と共に家出したという前述の内容で語られる事になっていった[3]。歌詞中にある「盗んバイクで走り出す」という一節について尾崎の同級生は、尾崎はバイクを盗んだことはないと断言しており、実際に不良少年との付き合いはあったがそこまで入れ込んでおらず、様々な体験をして自身が納得するためであったのではないかと同級生は推測している[4]。また妻であった尾崎繁美は「バイクを盗んだのは尾崎の友人で、それを曲にした」と、尾崎の死後に語っている。

須藤は本作の歌詞について「誰も書いたことのないような、ティーンエイジャーのための、ティーンエイジャーによる、ティーンエイジャーの詞だった」と述べている[23]。また須藤は尾崎の実像は内省的な普通の男の子であったと述べ、友人と家出を計画しても結局は家に帰るような状態であり、本物の不良やアウトサイダー達と付き合いがあった訳ではないと述べた上で、本作はアウトサイダーとして生きるティーンエイジャーを描いた曲ではなく、「誰にでもあるやるせない、やり場のない青春時代の体験」を描いた曲であると述べている[16]。作詞家の岡本おさみは歌詞中の「しゃがんでかたまり 背を向けながら」という箇所が新しい感じがすると述べている[16]

リリース

須藤は本作が「青春時代のやるせなさを、非常にストレートに、飾らずに歌っている」としてシングルとしてのリリースを検討する事となった[16]。アルバムの全体像がほぼ完成した段階で須藤は本作をシングル候補曲として提案し尾崎に伝えた所、尾崎は「あ、それがいいです」と回答しシングル曲として決定した[16]。須藤の提案に対し尾崎が即答したため、尾崎自身も本作がシングルに相応しいと判断していたであろうと須藤は推測している[16]

1983年12月1日CBSソニーより7インチレコードの形態でリリースされた。当初レコード会社が付けたキャッチコピーは「もう学校や家には帰りたくない」であったが、あくまで尾崎の一面を捉えたコピーであり、全共闘世代から引きづられた反抗する若者のシンボルのようにされる事を懸念して、須藤はこれに反対した[16]

1989年3月21日には「卒業」(1985年)との両A面シングルとして8センチCDにて再リリースされた。さらに、1993年4月25日にはライブバージョンが8センチCDにて再リリースされた(後述)。

後に尾崎は2枚目のアルバム『回帰線』(1985年)がオリコンチャートにて1位を獲得した際にコマーシャリズムに載せられているという危機感を持っており、「卒業」などの曲が代表曲とされ売り込まれていく自身の状況に対して本作を最初に制作した事が誤りであったかもしれないと疑念を抱く事となった[24]

アートワーク

シングルジャケットはアルバム『十七歳の地図』と同じものが使用された[25]。当時の尾崎は「顔を出さない」という戦略が取られており、その理由としては尾崎の端正な顔立ちと楽曲の激しさにギャップがありすぎた事、また「顔のいい人間はまともな歌を歌わない」という偏見があった時代ゆえに、アイドルと間違われそうであった事からそのような戦略が取られる事となった[25]。また「ロック・ミュージシャンは笑わない」という当時の風潮があった事から、後に公開された尾崎の写真は鋭い目つきをしたものが多用され、笑顔の写真は没とされたケースも存在した[25]

デザインは田島照久が担当[25]。田島はその後尾崎のジャケットデザインのみならず、ツアー・パンフレットやメモリアルチケットに至るまで全て担当する事となった[25]

カバー

シングル収録曲

全作詞・作曲: 尾崎豊。
#タイトル作詞作曲・編曲編曲時間
1.15の夜(THE NIGHT)尾崎豊尾崎豊町支寛二
2.傷つけた人々へ(TO ALL THAT I HURT)尾崎豊尾崎豊西本明
合計時間:

スタッフ・クレジット

参加ミュージシャン

スタッフ

  • 須藤晃 - プロデューサー
  • 助川健 - レコーディング、ミックス・エンジニア
  • 田島照久 - デザイン、アート・ディレクション、写真撮影
  • いとうたかし - セカンド・エンジニア
  • 大野邦彦 - セカンド・エンジニア
  • 村上茂 - プロモーション・スタッフ

リリース履歴

No. 日付 レーベル 規格 規格品番 最高順位 備考
1 1983年12月1日 CBSソニー EP 07SH1433 -
2 1989年3月21日 CBSソニー 8センチCD 10EH-3248 8位 卒業」との両A面シングル

15の夜(ライブ)

「15の夜 (ライブ)
(THE NIGHT (LIVE))」
尾崎豊シングル
初出アルバム『『約束の日 Vol.2』』
B面 「ダンスホール (ライブ)」
リリース
規格 8センチCD
録音 1991年10月30日
代々木オリンピックプール
ジャンル ロック
時間
レーベル ソニー・ミュージックレコーズ
プロデュース 尾崎豊
須藤晃
チャート最高順位
尾崎豊 シングル 年表
汚れた絆
1992年
15の夜 (ライブ)
1993年
OH MY LITTLE GIRL
1994年
約束の日 Vol.2 収録曲
EANコード
EAN 4988009363516
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15の夜 (ライブ)」(じゅうごのよる・ライブ)は、日本のシンガーソングライターである尾崎豊の13枚目のシングル

1993年4月25日ソニー・ミュージックレコーズからリリースされた。作詞・作曲は尾崎、プロデュースには須藤晃と共に尾崎の名前がクレジットされている。前作「汚れた絆」(1992年)よりおよそ1年ぶりにリリースされたシングルであり、後にリリースされた2作目のライブ・アルバム『約束の日 Vol.2』(1993年)からの先行シングルとなった。

本作では生前最後の公演となった1991年10月30日代々木オリンピックプール第一体育館におけるギター1本による弾き語りの演奏が収録されている。A面が(カップリング曲とともに)ライブ・テイクであるので、前述のライブ・アルバムに対してライブ・シングルとでも言うべき内容である。また、尾崎は以前にもA、B両面がライブ音源のシングル「DRIVING ALL NIGHT」(1985年)をリリースしている。

オリコンチャートでは最高位15位となり、登場回数は5回で売り上げ枚数は12.5万枚となった。

録音、制作

本作は尾崎の死去から1周忌となる日に、黙祷の意味を込めて企画された[27]。収録された音源は、「TOUR 1991 BIRTH」のツアーファイナルであり生前最後の公演となった1991年10月30日代々木オリンピックプール第一体育館のテイクとなっている[27]。オリジナル盤「15の夜」(1983年)やアルバム『十七歳の地図』(1983年)収録バージョンとは異なり、全編アコースティック・ギターでの尾崎単独の弾き語りの演奏となっており、尾崎の死後にテレビの報道番組などで映像とともに多く使用されたのはこちらのバージョンとなっている。

2曲目の「ダンスホール (ライブ)」は、A面の「15の夜(ライブ)」と同日に3度目のアンコールとして21曲目に予定外で演奏されたテイクである[27]。演奏された経緯は、舞台袖にいた須藤から「尾崎、もう1曲やりなよ」と言われリクエストされたのが「ダンスホール」であったためである[28]。後にライブ・アルバム『約束の日Vol.1』および『約束の日Vol.2』がリリースされているが、「ダンスホール」は未収録であったためこのシングルのみの収録となった[27]

2曲ともにアンコールの際に歌われ、アンコールの最終曲である「ダンスホール」の演奏後に、尾崎は「また次のツアーで会いましょう」という言葉を残したが、翌1992年4月25日に急死し、次のツアーは行われなかったため、尾崎が生前最後にライブで演奏した曲は「ダンスホール」となった。

シングル収録曲

全作詞・作曲: 尾崎豊。
#タイトル作詞作曲・編曲収録日時、会場時間
1.15の夜(ライブ)(THE NIGHT (LIVE))尾崎豊尾崎豊1991年10月31日、代々木オリンピックプール第一体育館
2.ダンスホール(ライブ)(DANCE HALL (LIVE))尾崎豊尾崎豊1991年10月31日、代々木オリンピックプール第一体育館
合計時間:

スタッフ・クレジット

参加ミュージシャン

スタッフ

  • 尾崎豊 - プロデューサー
  • 須藤晃 - コ・プロデューサー
  • 諸鍛治辰也 - レコーディング、ミックス・エンジニア
  • 笠井鉄平 - マスタリング・エンジニア
  • 中沢慎太郎 - アシスタント・ディレクター
  • 徳永陽一 - アシスタント・エンジニア
  • 田島照久(田島デザイン) - アート・ディレクション、デザイン、写真撮影
  • アイソトープ - エグゼクティブ・プロデューサー

収録アルバム

「15の夜」

スタジオ音源
ライブ音源

「15の夜 (ライブ)」

脚注

  1. ^ a b c 地球音楽ライブラリー 1999, p. 141- 「『SEVENTEEN'S MAP』 RECORDING MEMO」より
  2. ^ a b 地球音楽ライブラリー 1999, p. 145- 「『SEVENTEEN'S MAP』 RECORDING MEMO」より
  3. ^ a b c d 見崎鉄 2018, p. 276- 「第三部 尾崎豊という事件(尾崎論のためのノート)」より
  4. ^ a b 吉岡忍 2001, pp. 45–46- 「17」より
  5. ^ a b c 山内順仁 1989, p. 6- 「WORDS 1984 - 1988」より
  6. ^ a b c d 地球音楽ライブラリー 1999, p. 23- 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 1」より
  7. ^ 地球音楽ライブラリー 1999, pp. 23–24- 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 1」より
  8. ^ a b 地球音楽ライブラリー 1999, p. 24- 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 1」より
  9. ^ a b 山内順仁 1989, p. 7- 「WORDS 1984 - 1988」より
  10. ^ 地球音楽ライブラリー 1999, p. 25- 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 1」より
  11. ^ 地球音楽ライブラリー 1999, p. 26- 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 1」より
  12. ^ 地球音楽ライブラリー 1999, p. 28- 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 1」より
  13. ^ 須藤晃 1998, p. 23- 「第一章 尾崎豊 追憶」より
  14. ^ 須藤晃 1998, p. 40- 「第一章 尾崎豊 追憶」より
  15. ^ 須藤晃 1998, p. 25- 「第一章 尾崎豊 追憶」より
  16. ^ a b c d e f g h i j 須藤晃 1995, p. 25- 「『十七歳の地図』 15の夜」より
  17. ^ a b 地球音楽ライブラリー 1999, p. 135- 「『SEVENTEEN'S MAP』 RECORDING MEMO」より
  18. ^ 須藤晃 1998, p. 12- 「第一章 尾崎豊 追憶」より
  19. ^ 尾崎豊の残した言葉 1997, p. 19- 「第1章“ARTERY” FRIEND 友達」より
  20. ^ a b 山内順仁 1989, p. 9- 「WORDS 1984 - 1988」より
  21. ^ 『15の夜』は実体験だった…今なお、若者の心を捉え続ける尾崎豊の生き様”. FNNプライムオンライン. フジテレビジョン (2019年4月25日). 2020年5月20日閲覧。
  22. ^ 見崎鉄 2018, p. 275- 「第三部 尾崎豊という事件(尾崎論のためのノート)」より
  23. ^ 須藤晃 1998, p. 13- 「第一章 尾崎豊 追憶」より
  24. ^ 吉岡忍 2001, p. 126- 「45」より
  25. ^ a b c d e 地球音楽ライブラリー 1999, p. 84- 「YUTAKA OZAKI SINGLE GUIDE」より
  26. ^ 尾崎豊トリビュート、公式ページにて特典映像ほか”. TOWER RECORDS ONLINE. タワーレコード (2004年3月16日). 2021年10月10日閲覧。
  27. ^ a b c d 地球音楽ライブラリー 1999, p. 85- 「YUTAKA OZAKI SINGLE GUIDE」より
  28. ^ 須藤晃 1995, p. 63- 「『回帰線』 ダンスホール」より

参考文献

外部リンク