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ノート:屋嶋城

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 出典根拠はできるだけ詳細な記述に努めます。少し時間が必要です。--屋嶋の仙人会話) 2013年1月17日

城の名称の件

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 2013年1月下旬、投稿活動に参加の折、高松市の文化財課に屋嶋城の名称に関して電話で確認しました。回答は、「高松市は、今後の発表資料等の漢字表記は『屋嶋城』、読みは『やしまのき』とする」とのことでした。重要な事柄ですのでノートに記述しました。--やしまのお城(会話)2014年9月17日

投稿の依頼の件

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 2013年10月の、第4回古代山城サミット髙松大会の1年前に、屋嶋城を拝読しました。そして、地元民として恥ずかしいと思った記憶があります。屋島の活性化に取り組むボランティアグループ(10年強の活動歴)等と連携できれば、良いものが出来るのでは? ・・・2013年1月に西も東もわからない状態でのスタートでした。仕事に支障が出ますからの返事でも、強引に巻き込んだ方もいました。一歩前進、半歩後退の繰り返し。・・・我慢々の連続。・・・屋嶋の仙人様、誠に有難う御座いました。 屋嶋城は、まだ調査・整備の途中です。更新しつつ、仕上げることは大仕事です。皆々様のご支援、よろしくお願い申しあげます。尚、末尾となりましたが、「屋嶋城ーWikipedia」を立ち上げられた諸先輩に敬意を表します。 --やしまのお城(会話)2014年9月18日

編集に関して

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事典として必要な事柄は記述しましたが、意図して詳述を排除しています。しかし、本事典の長所である手法を活用し、「高松市の公式ホームページの『屋嶋城』と『屋島ナビ』を外部リンク」し、詳しい城跡内容・アクセス・地図情報等を容易に入手できる構成にしています。また、屋嶋城を代表する遺構は、復元工事中の「城門跡」だと思われますので、他の画像は意図して省略しています。ご理解を賜りたく。--やしまのお城(会話)2014年10月10日 

「日本の城郭」の枠内の内部リンク禁止要望の件

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「日本の城郭」の枠内に記述の文言は主ページ内で内部リンクされています。重複リンクは不要と判断いたします。やめて下さい。--やしまのお城会話2015年3月10日 (火) 04:26 (UTC)[返信]

目次の配列順位の変更に関して

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Wikipediaの脚注と参考文献の配列順位は、書籍と同様に配列されています。Wikipediaは、「脚注表示」をクリックすれば読めます。「屋嶋城ーWikipedia」は、出典が多いため脚注も多くなつています。そして、脚注は総ての読者が必要とするものでもありません。そのため、読者の利便性を優先し、異端となりますが、「外部リンク」を脚注と参考文献の上位に変更いたします。種々の精査をいたしましたが、「屋嶋城ーWikipedia」では、不都合は無いと判断いたしました。--やしまのお城会話) 2015年4月3日 (金) 02:54 (UTC) ・・追記・・ 「関連項目」も同様に思いますで、配列順位を変更しました。--やしまのお城会話2015年5月4日 (月) 13:22 (UTC)[返信]

古代山城の分類と呼称に関して

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古代山城の発掘調査が多くなり、学術が急速に進展しました。従来は、史書に記述された城を「朝鮮式山城」、史書に記述のない城を「神籠石(こうごいし)式(系)山城」と分類していました。しかし、近年は一般の方々が分かりづらいと、多くの研究者が見直し提案をしています。これらの遺跡を一括して、「古代山城(こだいやましろ・こだいさんじょう)」と、呼称することが多くなり、前記の分類は、「史書に記述された城」と「史書に記述のない城」に変えることが多くなりました。その他、選地・構造・機能形態などによる分類が提案されています。1995年(平成7年)の文化財保護法の指定基準の改正にともない、「神籠石」は削除され、「城跡」に改正されました。そのため、近年の一般書籍では、「〇〇神籠石」は、「〇〇山城」に書き換えられています。本項目も、読者が分かり易いよう「朝鮮式山城」などの文言は意図して排除しました。ご理解を賜りたく。--やしまのお城会話2015年4月11日 (土) 12:36 (UTC)[返信]

山上地区の南嶺説に関して

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屋嶋城の遺構を最初に発見した関野貞氏は、「断崖のところは城壁を省略するものの南嶺と北嶺を城内に取り込み、浦生の谷を包括する山城である」と学会誌に発表しています。近年、古代山城の学術が急速に進展し、屋嶋城の学術調査も進みました。向井一雄氏は、「屋島南嶺山上部での石塁遺構の確認によって南嶺を本城(内城)、浦生石塁を第一次防衛線とする想定が妥当性を増してきている」と(「外城ラインに関する一考察」『戦乱の空間』第4号、2005年7月、戦乱の空間編集会)発表しています。--やしまのお城会話2015年4月14日 (火) 04:33 (UTC)[返信]

画像に関して

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城門遺構の復元が進み、全長45メートルの城壁が立ち上がりました。現地説明会が開催されましたので画像を見直します。城跡の各所の画像は、リンクしている「高松市の公式ホームページの『屋嶋城』他」で、容易に見ることができますので、城跡を代表する城門遺構の画像に意図して、限定しています。ご理解を賜りたく。--やしまのお城会話) 2015年7月5日 (日) 03:41 (UTC) ・・追記・・ 画像が多くなりますので「ギャラリー」の新設を計画しています。ご理解を賜りたく。--やしまのお城会話2015年7月7日 (火) 00:52 (UTC)[返信]

書きかけ項目タグの削除の件

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 先達に続き、多くの協力者により「地元民として恥ずかしいと思ったレベル」を超える内容に成りました。書きかけ項目タグを削除させていただきます。ご理解を賜りたく。尚、文字入力他、まったくの素人の下名が、多大な改訂版を重ね、迷惑を掛けました事を、お詫びいたします。--やしまのお城会話2015年8月14日 (金) 00:20 (UTC)[返信]

お城のための山容画像に関して

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 屋嶋城は、「山上の城は断崖を利用して城壁は築かれなかった」と考察されていた、特異な城です。しかし、文言で断崖の状況を説明することは容易でありません。そのため、「屋島ーWikipedia」の山容画像に類似しますが、目的が異なる「断崖の様子を重視した山容画像」を追加の予定です。ご理解を賜りたく。--やしまのお城会話2015年9月20日 (日) 02:23 (UTC)[返信]

「屋嶋城および関連史跡の位置」図に関して

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 香川県は、数年前から「讃岐国府」の調査を行っています。しかし、平成27年10月現在、讃岐国府跡を確定するに至っていません。言い換えれば、「数十年前からの讃岐国府跡の推定地」とされていますと、同様です。未確定の史跡が記載された本図を削除させていただきます。ご理解を賜り度。--やしまのお城会話2015年11月6日 (金) 01:05 (UTC)[返信]

香川県埋蔵文化財センター」によれば、「2012(平成24)年度の発掘調査で、讃岐国府の中心施設を確認することができ」ているはずで、そこから数十キロレベルで場所が異なることがあると思えないのですが、どこか他の有力地が見つかったのですか? 「史跡」が嫌なら「讃岐国府推定地」とでも書けば良いと思います。城山の地図含め、当時の讃岐国の防衛情勢には有用な情報であると考えますが。--Saigen Jiro会話2015年11月6日 (金) 06:18 (UTC)[返信]
讃岐国府跡に関して、貴殿も下名も表現に差異があるものの、両者とも誤りは無いと思われます。しかし、「城山城」の他、国指定の史跡でも、「Wikipedia」が立ち上がっていない現状ですので、本件は先送りと致し度。よろしく。--やしまのお城会話2015年11月15日 (日) 11:46 (UTC)[返信]
Wikipedia上で記事がないと地図には載せられない、とは全く理解できない理屈ですね。やはり記事の質として後退だと思いますが、別にこだわりませんのでここまでとします。--Saigen Jiro会話2015年11月15日 (日) 12:29 (UTC)[返信]