コンテンツにスキップ

オグズ・ナーメ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。トムル (会話 | 投稿記録) による 2023年8月13日 (日) 16:24個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (新しいページ: 「'''『オグズ・ナーメ』'''(Oguz Namä)とは、古代テュルク民族のあいだで広く語り継がれていたオグズという名の英雄の物語で、古代ウイグル文字で書かれた写本がフランスパリにあるフランス国立図書館にある。現在残っているのは全部でわずか376行にすぎないが、もとはもっと長い物語で、その中間の部…」)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)

『オグズ・ナーメ』(Oguz Namä)とは、古代テュルク民族のあいだで広く語り継がれていたオグズという名の英雄の物語で、古代ウイグル文字で書かれた写本がフランスパリにあるフランス国立図書館にある。現在残っているのは全部でわずか376行にすぎないが、もとはもっと長い物語で、その中間の部分だけが残り、前と後の部分が失われてしまったものと考えられる。[1]

名称

初めの部分が欠けてしまっているので、本来の題名はわからないが、残っている内容をもとに今日では『オグズ・ナーメ(オグズの物語)』と呼ばれている。これと同じような物語は中世から近世にかけて中央アジアで書かれた何冊かの歴史書にテュルク系民族の歴史として断片的に書き残されている。[2]   

内容

物語は前半がオグズ王(オグズ・カガン Oğuz Ķağan)の生い立ち、後半がオグズ王の行った事跡をを語っている。ウイグルをはじめ、この物語に登場する国や土地の多くは実在のものであるが、一つ一つの事件を歴史上実際にあった出来事とみなすことはできない。物語全体はテュルク民族が直接経験した多くの歴史的事件と、ほかの民族から伝えられた物語とが、語り継がれてゆく間に次第に脚色され、さらに一人の優れた人物の業績として受け取られるようになって出来上がったものと思われる。物語の内容は歴史上の事実とは全く異なったものになっているが、古代のテュルク民族が自分たちの歴史と世界をどのようなものと考えていたかを知る手掛かりとして貴重な資料である。[3]

成立時期

写本が作られたのは物語のなかにモンゴル語からの借用語がいくつか用いられていることから、モンゴル族が中央アジアへ進出した13世紀ごろと考えられている。しかし、物語の内容を子細に検討してみると、モンゴル時代以前に成立した可能性が考えられる。この物語に登場する人物の名前は元来、民族ないし部族の名である。これらの部族あるいは物語の舞台となっている国の名などを検討してみると、オグズ族のウイグル部族が有力であったのは8~9世紀、カルルク族が勢力を伸ばすのも8世紀キプチャク族が勢力を伸ばすのは11世紀タングート族が西夏を建国するのも11世紀、ジュルチン(女真)族がを建国するのは12世紀の初めである。ここから推測するに、8~12世紀ごろのテュルク民族とその周辺の諸民族の歴史がこの物語の下敷きになっているとみてよいだろう。すなわち、物語が今の形に出来上がったのは12世紀以後のことである。[4]

オグズ・ナーメの言語

オグズ王はその名前からしてテュルク系のオグズ族の祖先とみなされる人物である。ところがオグズ王を主人公とした『オグズ・ナーメ』を書き記している言語はオグズの言語すなわちテュルク諸語の南西語群(オグズ語群)ではなく、テュルク諸語の北西語群(キプチャク語群)やテュルク語族の南東語群(カルルク語群)に近い。このことはオグズ・ナーメがオグズ族だけに語り伝えられてきたものではなく、多くのテュルク系民族に共通の歴史として語り伝えられてきたものであり、オグズ王はテュルク系民族共通の指導者と思われていたことを示している。[5]

脚注

  1. ^ 長谷川 2006,p54
  2. ^ 長谷川 2006,p54
  3. ^ 長谷川 2006,p54-55
  4. ^ 長谷川 2006,p73
  5. ^ 長谷川 2006,p79-80

参考資料

  • 長谷川太洋『オグズ・ナーメ 中央アジア・古代トルコ民族の英雄の物語』(創英社/三省堂書店、2006年、ISBN-4-88142-296-0 C3022)