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メシャジ・アジズベコフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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メシャジ・アジズ=ベク=オグルィ・アジズベコフ
Мешади Азиз-бек оглы Азизбеков
مشه‌دی عزیزبه‌ی‌اوو
Məşədi Əziz bəy oğlu Əzizbəyov
生年 (1876-01-18) 1876年1月18日
生地 ロシア帝国バクー県バクー郡バクー
没年 (1918-09-20) 1918年9月20日(42歳没)
没地 ロシア社会主義連邦ソビエト共和国の旗 ロシア社会主義連邦ソビエト共和国ザカスピ州クラスノヴォツク郡、カスピ海横断鉄道ペレヴァル駅=アフチャ・クイマ駅間
思想 マルクス・レーニン主義
活動 農民ソビエトの組織
反地主闘争の指揮
所属ロシア社会民主労働党→)
ボリシェヴィキ
ヒンメト
投獄 クレスティ監獄ロシア語版
記念碑 26人のコミッサール記念碑 (1968 - 2009)
母校 サンクトペテルブルク国立技術学院ロシア語版卒業
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メシャジ・アジズ=ベク=オグルィ・アジズベコフロシア語: Мешади Азиз-бек оглы Азизбеков. アゼルバイジャン語: مشه‌دی عزیزبه‌ی‌اوو / Məşədi Əziz bəy oğlu Əzizbəyov〈マシャディ・アジズ=ベイ=オグル・アジズベヨフ〉1876年1月18日 - 1918年9月20日)は、アゼルバイジャン人革命家である。ロシア社会民主労働党員かつヒンメトのリーダーであり、バクー・コミューンでは内務副委員などを務めた。しかし、1918年7月にコミューンでの権力を失うとバクーを放棄して逃亡を試み、カスピ海対岸で反ボリシェヴィキ勢力に捕らえられ、同志たち(いわゆる「26人のバクー・コミッサール」)とともに9月20日に処刑された。

生涯

前半生

父、アジズ=ベク
母、サルミナズ
ペテルブルク時代のメシャジ

1876年1月18日(ユリウス暦1月6日)、ロシア帝国バクー県バクー、アジア通り107番地(現在のピョートル・モンチン通り105番地に相当する)に生まれた[1]。煉瓦職人であった父は1889年に流刑先のシベリアで死亡した[2][注 1]。バクーの実科学校を卒業後はサンクトペテルブルク国立技術学院ロシア語版へ進み、在学中の1898年からロシア社会民主労働党の党員となった[4]ペトロパヴロフスク監獄で学生のマリヤ・ヴェトロワ (ru) が自殺した際には、学生を糾合し抗議運動を行った[4]ロシア第一革命の際にも革命運動に参加し[4]聖イサアク大聖堂でのデモに参加して逮捕され、クレスティ監獄ロシア語版へ収監されたこともある[5]1905年アルメニア・タタール虐殺ロシア語版が発生した際には多くのアルメニア人を救い、翌1906年にはバクーでムスリムによる自警組織を設立した[5]。同時期には、社会民主主義組織「ヒンメト」の幹部も務めている[4]。アジズベコフの旧友は回顧録にこう記している[6]

彼自身やっとの思いで勉学の機会にありついていたにもかかわらず、アジズベコフは自分を差し置いても他人を助けようとした。腹を空かせた友人のために、ほとんど唯一の財産だった銀時計をペテルブルクの質屋に売り払ったこともあった。誠実さと無欲の結晶であるメシャジは、カフカースの学生の中でも特別に尊敬を集めていた。

バクーでの活動

アジズベコフ(左端)とメフメト・エミーン・ラスールザーデ(右端)

1908年に技術学校を卒業してからはバクーで教師として働いていたが[5]1910年には市議会の労働者代表議員に選出された[4]。また、バクーの貧困層を支援するために文化教育団体を組織し、1913年から翌1914年にかけてストライキを組織し[4]第一次世界大戦時には多くの難民や負傷者を、彼らの国籍を問わず助けた[7]。同時期に作家のジャリル・マンマドグルザーデ英語版から教育問題への貢献を賞して『モッラー・ナスレッディン英語版』紙の創刊号を贈られている[8]

1917年からバクー・ソビエトのメンバーとなり、同年9月にはバクー油田のゼネストを主導[4]。翌1918年3月に発生したミュサヴァト党による反乱を鎮圧し、バクー・コミューンが発足するとその県委員および内務副委員に就任した[4]。5月からはバクー郡農民ソビエト執行委員会議長となる[4]。この際に結成された革命防衛委員会[注 2]から、アジズベコフは、スラハニ県アゼルバイジャン語版から離れ「革命の秩序を回復し、国際的な労働者組織を強化」するよう命じられた[10]。アジズベコフは農民ソビエトの組織と反地主闘争の指揮を行った[11]。アジズベコフの組織的宣伝活動について『バキンスキー・ラボーチー』紙は次のように書いている[12]

イスラム教徒の村で農民を組織する特別な手腕を買われ、我らが同志メシャジ・アジズベコフが地方人民委員に近日任命される。彼は数日かけて村々を回り、奴隷化されたイスラム教徒の大衆に、彼らの階級敵に対してロシア民主主義勢力と連携して闘うよう、ソビエト政府に代わって訴えた。同志アジズベコフの盛んな活動はすでに大きな成果を生み出している。執行委員会は農村社会でのソビエト権力の影響を認めることを決定した。

その後、バクー・コミューンで左派が権力を失うと、同年7月31日にアジズベコフたちはカスピ海を渡ってアストラハンへの逃亡を試みた。しかし8月16日に社会革命党に捕らえられ、9月20日夜にカスピ海横断鉄道のペレヴァル駅とアフチャ・クイマ駅の間(クラスノヴォツクからおよそ220キロメートルの地点)で処刑された[13]

ロシア内戦後、ソ連政府によって発見されたコミッサールの遺体は一度はバクーに葬られたが、2009年アゼルバイジャン当局によって掘り起こされ、ヒョヴサンアゼルバイジャン語版改葬された[14]。アジズベコフの親族は彼がスヴェランの母の墓の隣に改葬されることを望んでいたが、当局はそれを無視し、彼らに一切情報を与えなかった。そのためにアジズベコフの墓所の正確な位置は今や特定することが不可能になっている[15]

評価

アジズベコフについての評価は未だ定まっていない。新アゼルバイジャン党ミュサヴァト党人民戦線などの民族主義勢力からは否定的に語られる[16]一方で、共産党英語版など多くの左翼勢力からは特筆すべき偉大な人物としてアジズベコフは見なされている。

ソ連崩壊後、三月事件におけるバクー・コミューンの役割の再評価が進むなか、アゼルバイジャン国立科学アカデミー歴史研究所所長のヤグブ・マフムードフ (ru) は、アジズベコフがサビラバド県ビラスヴァル県アゼルバイジャン語版で死の部隊を率いて大量殺人を行っていたと発表した[17]

その一方で、アジズベコフは三月事件の間に「救済委員会」(комитеты спасения) を組織し、放火や破壊行為から数千の人命を保護したとも指摘されている[18]。さらに、コミューンの都市経済人民委員であったナリマン・ナリマノフの報告書には、「占領状態のカフカース」を見たアジズベコフはシャマヒアゼルバイジャン語版から戻ると「目に涙を浮かべて、道中で目撃した悲劇について語った」とある[19]

さらに、メシャジの孫息子はこう述べている[20]

メシャジはシャマキとシャマヒ県英語版を監督する地方長官だった。そして、実際に彼はアルメニア人の軍隊による反革命虐殺からシャマヒの人命を救っている。彼は軍の司令官のもとへ赴き、虐殺と反革命行為を停止するよう要求した。しかし司令官がこれに耳を貸さなかったため、メシャジはナリマノフに電話で連絡し、ナリマノフはレーニンに電報を打った。そしてレーニンはすぐさま虐殺への停止命令を下した。

当時のバクーでアジズベコフと協同していたアナスタス・ミコヤンの評によると、アジズベコフは「短気な性分」で、「もっともよい意味に解釈できる革命的狂信とすら言えるような影さえ宿した、革命的情熱の持ち主」だったという[21]

遺産

ソ連政府はアジズベコフたちを英雄として顕彰し、多くの地名や施設にアジズベコフの名が付けられた[22][23][24][25][26]。メフディ・フセイン (en) は1942年に彼を主人公とした小説「コミッサール」«Комиссар» を執筆し、ルスラン・シャフマリエフ (az) は1975年に「バクー・コミッサール メシャジ・アジズベコフ」(az) という短編ドキュメンタリーを制作した。

1976年にはトカイ・マメドフ (ru) が制作したアジズベコフの彫像がバクーに建てられた。この作品によってマメドフは1978年ソビエト連邦国家賞を受賞した[27]が、2009年4月に彫像は撤去された[28]。アジズベコフの記念碑はアルメニアの首都エレヴァンにも存在したが、トラックの衝突によって損壊したために撤去された。それは公式には事故として処理されたが、アルメニア人のアゼルバイジャン人に対する民族感情に基く意図的な行為ではなかったかと疑われている[29]

親族

メシャジの妻は富豪のザルバリエフの娘で[20]、息子の1人は1903年4月14日に需品監督部門の少将となっている[30]。孫娘のピュスタハニム (az) は歴史家でアゼルバイジャン国立科学アカデミーの会員であり、アゼルバイジャン歴史博物館アゼルバイジャン語版の館長であった[31]。従兄弟の曾孫は1994年ナゴルノ・カラバフ戦争で戦死した[32]

脚注

注釈

  1. ^ しかし、バクーでアジズベコフと協働していたアナスタス・ミコヤンは、アジズベコフは裕福な家の出身だったと書いている[3]
  2. ^ この委員会は、ステパン・シャウミャンプロコーフィー・ジャパリーゼグリゴリー・コルガノフら3人の人民委員と、社会革命党員1人、ヒンメトのメンバー1人、ダシュナク党員1人から成っていた[9]

出典

  1. ^ Казиев М. А. (1976). Мешади Азизбеков: жизнь и деятельность. Б.: Гянджлик. p. 5.
  2. ^ Каренин А. А. (1976). Мешади Азизбеков, пламенный борец за власть советов: речи, документы и материалы. Б.: Азербайджанское гос. изд-во. p. 6.
  3. ^ ミコヤン (1973) 248頁
  4. ^ a b c d e f g h i I Азизбе́ков / И. И. Санина // А — Ангоб. — М. : Советская энциклопедия, 1969. — (Большая советская энциклопедия : [в 30 т.] / гл. ред. А. М. Прохоров ; 1969—1978, т. 1).
  5. ^ a b c Азизбеков, Мешади-Бек”. Большая биографическая энциклопедия. 2009. 2016年4月5日閲覧。
  6. ^ Казиев М. А. (1983). Ученики и соратники В.И. Ленина — Борцы за Советскую власть в Азербайджане. Б.: Азернешр. pp. 131–132.
  7. ^ Мешади Азизбеков, пламенный борец за власть советов: речи, документы и материалы by Alexey Karenin, Azerneshr, 1976.
  8. ^ Əzizbəyov və Caparidzenin heykəlləri əvvəlki yerinə qaytarılmayacaq
  9. ^ 中島偉晴『閃光のアルメニア - ナゴルノ・カラバフはどこへ』J.P.P. 神保出版会、1990年、341頁。ISBN 978-4915757037 
  10. ^ А.А. Каренин (1976). Мешади Азизбеков, пламенный борец за власть советов: речи, документы и материалы. Азербайджанское гос. изд-во. pp. 19–20.
  11. ^ ミコヤン (1973) 147頁
  12. ^ История Азербайджана. Vol. 3, часть 1. Баку: Изд-во АН Азербайджанской ССР. 1963. p. 122.
  13. ^ ミコヤン (1973) 243頁
  14. ^ Мурсал Алиев. “Продолжается демонтаж мемориала 26 Бакинских комиссаров в Баку”. 1news.az. 2011年7月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年1月17日閲覧。
  15. ^ Is Meshadi Azizbekov removing from the history? - Musavat article Archived 2012年2月25日, at the Wayback Machine.
  16. ^ Criticism on Meshadi Azizbekov's political views by Maharram Zulfuqarli - SalamInfo
  17. ^ Фараджова В. (2010年1月29日). “Мешади Азизбеков руководил карательными отрядами?”. Vesti.az. http://vesti.az/news/30512 2015年10月7日閲覧。 
  18. ^ “«Красные» негодуют, но не все…”. 1NEWS.az. (27.04.2009). http://1news.az/politics/20090427095849447.html 
  19. ^ Нариман Нариманов: Избранные произведения. Vol. 2. Баку: Азернешр. 1989. p. 189.
  20. ^ a b “Мехди Азизбеков: «После идентификации мы хотим похоронить останки деда на семейном кладбище в Шувелянах» - Интервью и Фотосессия”. АПА. (2009年2月23日). http://ru.apa.az/news/128206 2015年10月7日閲覧。 
  21. ^ ミコヤン (1973) 148頁
  22. ^ “Naxçıvan Muxtar Respublikası şəhər və rayonlarının inzibati ərazi bölgüsündə qismən dəyişikliklər edilməsi haqqında”. Azərbaycan Respublikasının Milli Məclisi. http://www.meclis.gov.az/?/az/legislation/view/580 
  23. ^ “Азизбековский район Баку переименован”. Информационное агентство TREND. (11.05.2010). http://ru.trend.az/news/official/parliament/1685328.html 
  24. ^ Азербайджанский индустриальный институт (АЗИИ)- АГНА (Баку)
  25. ^ 17:22 (2010年5月11日). “Baku's Azizbeyov district renamed Khazar”. News.az. 2013年7月6日閲覧。
  26. ^ Переименованные улицы гор.Туркменбаши (Красноводска)”. Avaza.ucoz.ru. 2013年7月6日閲覧。
  27. ^ "Мамедов Токай Габиб оглы" (Популярная художественная энциклопедия ed.). М.: Советская энциклопедия. Под ред. Полевого В. М. 1986. {{cite journal}}: Cite journalテンプレートでは|journal=引数は必須です。 (説明)
  28. ^ “В Баку снесен памятник Азизбекову - одному из 26 бакинских комиссаров”. РИА Новости. http://www.rian.ru/society/20090426/169287943.html 
  29. ^ Russian Cultural Anthropology After the Collapse of Communism. Yerevan memory and forgetting in the organization of post-Soviet urban space by Levon Abrahamian, p. 240
  30. ^ Generaly Azerbaĭdzhana: katalog by Naila Valikhanli. 2005.
  31. ^ Народные депутаты СССР: справочник серии "Кто есть кто". Внешторгиздат. 1990. p. 12.
  32. ^ Бабаев Р. (2009年7月8日). “Родственников Мешади Азизбекова называют врагами народа - Эксклюзив”. Vesti.Az. http://vesti.az/news/10285 2015年10月7日閲覧。 

参考文献