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乃美賢勝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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乃美賢勝
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 不詳
別名 通称:小太郎
官位 備前守
主君 小早川弘平興景隆景
氏族 桓武平氏良文流小早川氏庶流乃美氏
父母 父:乃美慶俊
養父:浦元安
宗勝、女(白井賢胤正室)、
女(村上吉充正室)、女(岡右京室)、
少輔五郎三津口三郎右衛門元信
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乃美 賢勝(のみ かたかつ)は、戦国時代武将竹原小早川氏の家臣だが、独立領主的な性格も有した乃美氏の当主。父は乃美慶俊[注釈 1]。子に小早川隆景の重臣である乃美宗勝乃美元信などがいる。

生涯

竹原小早川氏の重臣・乃美慶俊の子として生まれたとされる。後世に作成された乃美氏の系図類では、浦元安の養子となって浦氏を継承したが、浦氏を名乗らず乃美氏を名乗のったとしている。

永正4年(1507年)から始まる前将軍足利義尹(足利義稙)を奉じた大内義興の上洛に従い、永正8年(1511年8月24日船岡山合戦で戦功を挙げ、同年9月13日に大内義興の感状杉興宣奉書を与えられる[1][2]

船岡山合戦の時の賢勝は「小太郎」を称しており、天文5年(1536年11月30日大内義隆から安芸国頭崎への出陣の労をねぎらう書状[3]を受けた際には父・慶俊と同様に「備前守」を称していることから、賢勝の家督相続時期は永正8年(1511年)から天文5年(1536年)の間と考えられている[4]。なお、賢勝が家督を相続した後も、父・慶俊が奉行職や周防国山口における夫役負担を担う一方で、大内氏が展開する各地での軍事行動には賢勝が参加している[4]

天文20年(1551年)の大寧寺の変で大内義隆が陶隆房(陶晴賢)に討たれ、天文22年(1553年)に陶晴賢が対立する石見国三本松城吉見正頼を攻撃すると、賢勝は陶晴賢に従って出陣したが、同年11月13日長門国野坂において吉見軍に敗れ[5]、賢勝の郎従である世良源左衛門尉が口の左側に矢傷を受けている[6]

天文23年(1554年3月3日に長門国賀年城を攻め落とした際には楊井若狭守を討ち取ったが、賢勝が左脚に矢傷を受け、郎従の戸嶋源五郎が左手の甲に切傷を、僕従の孫右衛門が右肩に投石による傷を受けている[6]

また、同年3月から始まる三本松城の戦いにも引き続き参加したが、同年7月3日に三本松城西側の喜汁口における戦いで先述の郎従・世良源左衛門が左足に矢傷を受け、8月2日には三本松城の固屋口を攻めていた賢勝が左脚に矢傷を受けている[6]

以上の吉見氏攻めにおける一連の戦いについて、賢勝は同年9月20日に陶晴賢に軍忠状[注釈 2]を提出し、同年10月23日大内義長から糸永加賀守先知行の安芸国賀茂郡東西条仁賀田村20貫800文余、勝屋衆跡の賀茂郡福本の内の6貫800文足、三永の内の3貫文足などを与える旨の下文[7]を与えられ、同年11月18日には晴賢から、大内義長に賢勝の軍忠状を披露して判を受けたことを伝え、より一層の戦功を挙げることが肝要であるという旨の書状を受け取っている[8]

しかし、天文23年(1554年)5月12日には安芸国の毛利元就が大内氏と断交し(防芸引分)、乃美氏が属する小早川氏当主・小早川隆景も同年9月に安芸国能美島へ出陣して大内氏に属する能美氏を打ち破っており、賢勝が陶晴賢に軍忠状を提出した時期には既に小早川氏も陶晴賢と対立状態にあった。また、毛利氏と大内氏の断交後も大内氏に味方した能美氏、多賀谷氏呉衆といった海洋領主層は乃美氏と親密な関係にあったことから、賢勝に対しても小早川隆景から離反して大内氏に味方するよう働きかけがあった。乃美氏は隆景の宿老的地位にある一方で、独立領主的な性格も有しており、陶晴賢への軍忠状提出からはこの時期の賢勝も動向に迷っていたことが窺える[4]

最終的に乃美氏は一体となって毛利氏に味方し、天文24年(1555年)の厳島の戦いにおける毛利方の水軍の中核を担って勝利に貢献した。しかし、この年以降は賢勝の動向が見られなくなっており、大内氏からの離反に伴い、賢勝に代わって嫡男の宗勝が乃美氏の軍事的権限も掌握したと考えられている[9]

没年は不詳。

脚注

注釈

  1. ^ 乃美氏の系図では諱を「家氏」としているが、一次史料では諱が定かでなく、史料上に表れる「慶俊」は法名とされる。
  2. ^ この時の賢勝の軍忠状の写真が『大日本古文書 家わけ十一ノ二 小早川家文書』に収録されている。

出典

  1. ^ 『閥閲録』巻11「浦圖書」第61号、永正8年9月13日付、乃美小太郎殿宛て大内義興感状
  2. ^ 『閥閲録』巻11「浦圖書」第62号、永正8年9月13日付、乃美小太郎殿宛て杉興宣奉書
  3. ^ 『小早川家文書』附録「浦家文書」第7号、天文5年11月30日付、乃美備前守宛て大内義隆書状。
  4. ^ a b c 光成 2019, p. 39.
  5. ^ 三卿伝編纂所編 1983, p. 181.
  6. ^ a b c 『閥閲録』巻11「浦圖書」第69号、天文23年9月9日付、陶尾張守(晴賢)殿宛て乃美賢勝軍忠状。
  7. ^ 『閥閲録』巻11「浦圖書」第71号、天文23年10月23日付、乃美備前守賢勝宛て大内義長下文。
  8. ^ 『閥閲録』巻11「浦圖書」第70号、天文23年比定11月18日付、乃美備前守(賢勝)宛て陶晴賢書状。
  9. ^ 光成 2019, p. 40.

参考文献

  • 閥閲録』巻11「浦圖書」
  • 『小早川家文書』
  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 光成準治『小早川隆景・秀秋』(ミネルヴァ書房、2019年)