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平陽の戦い (紀元前234年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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平陽の戦い
戦争秦の統一戦争
年月日紀元前234年-紀元前233年
場所:平陽、武城、宜安
結果:秦の勝利
交戦勢力
指導者・指揮官
桓齮 扈輒
戦力
8万人 第一次:10万人
第二次:不詳
損害
不詳 全滅
秦の統一戦争

平陽の戦い(へいようのたたかい)は、紀元前234年に起きたの戦い。

概要

紀元前236年、秦の将軍王翦桓齮楊端和と周辺の9城を落とし、2年間、秦と趙は戦闘を続けた。

紀元前234年、桓齮は平陽に直行した。趙は扈輒を将として平陽を救援に向かわせ、秦軍と戦った。秦軍は趙の将である扈輒を討ち取り、十万の趙兵を平陽の城外で斬首した[1][2][3]

紀元前233年、桓齮は再び出兵し宜安・平陽・武城の3城を取り、再び趙軍を破りその将を討ち取った[1][3]。この2戦で趙は10万以上の兵を失った[1][2]

脚注

  1. ^ a b c 『史記』秦始皇本紀「十三年,桓齮攻趙平陽,【正義】:括地志云:「平陽故城在相州臨漳県西二十五里。」又云:「平陽,戦国時属韓,後属趙。」殺趙将扈輒,【正義】:「扈音戸。輒,張猟反,趙之将軍。」斬首十万。王之河南。正月,彗星見東方。十月,桓齮攻趙。十四年,攻趙軍於平陽,取宜安,【正義】:括地志云:「宜安故城在常山城県西南二十五里也。」破之,殺其将軍。桓齮定平陽、武城。【正義】:「即貝州武城県外城是也。七国時趙邑。」」
  2. ^ a b 『史記』廉頗藺相如趙奢李牧列伝「七年,秦破殺趙将扈輒于武遂,斬首十万」
  3. ^ a b 『史記』趙世家「二年,秦攻武城,扈輒率師救之,軍敗,死焉。三年,秦攻赤麗、宜安...」