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水島の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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水島の戦い

良寛荘付近から見た玉島港
戦争治承・寿永の乱
年月日:寿永2年10月1日1183年11月17日
場所備中国水島 (倉敷市
結果:平家軍の勝利
交戦勢力
源氏 平家
指導者・指揮官
足利義清  
足利義長  
海野幸広  
平重衡
平知盛
平通盛
戦力
7,000騎
船数:500余艘
船数:1,000余艘
治承・寿永の乱

水島の戦い(みずしまのたたかい)とは、平安時代末期における治承・寿永の乱戦闘の一つである。

寿永2年10月1日ユリウス暦1183年11月17日 グレゴリオ暦換算1183年11月24日)、備中国水島(現在の倉敷市玉島[1]において義仲軍と平家軍との間で海戦が行われた。

水島合戦(みずしまがっせん/みずしまかっせん)とも呼ばれる。

概要

当時、平家軍の拠点は讃岐屋島にあった。平家を追討するため、寿永2年(1183年)9月20日に義仲軍は都を出発して屋島方面へ進軍していったが、閏10月1日、四国へ渡海する前に、水島付近で平家軍に敗れた。義仲軍を率いていたのは、義仲の同族である武将足利義清義長兄弟と海野幸広海野氏)である(『源平盛衰記』)。

平家は、軍船同士をつなぎ合わせ、船上に板を渡すことにより、陣を構築した。源平両軍の船舶が接近し、互いに刀を鞘から抜いて、今にも白兵戦を始めようかという時、平家軍の弓兵による義仲軍への射撃によって開戦した。平家軍は船によく装備された馬を同乗させており、その軍馬と共に海岸まで泳いで上陸した。

最終的に平家軍は勝利し、義仲軍は足利義清・義長兄弟や海野幸広、高梨高信仁科盛家といった諸将を失い壊滅、京都へ敗走することになった。

この勝利により平家軍は勢力を回復し、再入京を企て摂津福原まで戻り、一ノ谷の戦いを迎えることとなる。

この戦いの最中に95%ほど欠けた金環食が起こったことが『源平盛衰記』等の資料によって確認されている(参照:「日食#予報の歴史」「日食の一覧#12世紀」)。

当時、平家は公家として暦を作成する仕事を行っていたことから、平家は日食が起こることを予測しており、それを戦闘に利用したとの説がある[2]

脚注

  1. ^ 現在、水島といえば倉敷市水島もしくは、水島群島(上水島・下水島)を指すが、合戦当時は、現在の同市玉島地域にある柏島もしくは乙島(ともに現在は陸地化)、あるいは両島および周辺の島々の総称であったとされる。
  2. ^ “スコープ2012:21日に金環日食 源平水島合戦、勝敗分けた天文知識 日食予測、平家が勝利 /岡山”. 毎日新聞. (2012年5月19日). http://mainichi.jp/area/okayama/news/20120519ddlk33040517000c.html 

関連項目