駿府
駿府(すんぷ)は、駿河国(現在の静岡県中部)にあった都市。現在の静岡市葵区の静岡中心市街地にほぼ相当する。
古代の律令時代に駿河国の国府(国庁、府中)が置かれた。駿府の名は「駿河府中」の略である。律令時代以後も近世まで長く駿府や府中、駿河府中と呼ばれた。戦国時代には駿府城が築かれ、城下町が整備される(駿府城下)。江戸時代には、単に府中と言えば駿府を指した。 江戸時代初期に行われた大御所政治(駿府政権)では実質的な首都として機能し[1]、江戸・上方(京・大坂)に並ぶ大都市であった[2][3]。
明治になり、駿府が徳川宗家ゆかりの地であることから、府中は不忠に通ずるとして新政府に恭順の意を示すため改名、駿府に政庁を置いていた藩は静岡藩と命名された。名称は、駿府の北西に位置する賤機山(しずはたやま)にちなむ。廃藩置県によって、静岡藩の後継として静岡県が成立。1889年4月の市町村制度発足に伴い旧駿府城下96ヵ町の地域を中心とした静岡市が成立した[4]。
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駿府城 巽櫓 東御門(復元)
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駿府城堀内の官公庁街
歴史
古代
律令時代に駿河国の国府が置かれ、駿河国の中心地となる。国府は見つかっていないが、駿府城北側に位置する葵区長谷町付近が有力である。
※横田の駅、曲金の古代史跡、安倍の市など
中世
室町時代から戦国時代にかけて、今川氏の城下町として栄えた。今川氏は京の都を模して碁盤の目状の駿府の街造りを行い、現在でも地名や町名等に京都と同じ地名や町名が残る。また、荒廃した京の都を逃れた多数の公家や文化人が駿府に居を移し、「東国の京」或いは「東国の都」と呼ばれ、戦国三大文化の一つ、今川文化が栄えた。しかし、1560年、桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、今川氏は衰退し、武田信玄の駿河攻めによって、駿府は焼討ちに遭い一時荒廃した。
徳川時代
今川氏の人質として幼少時代を駿府で過ごした徳川家康が、1585年に駿府を本拠地に定め、城下を整備し、かつての繁栄をとり戻した。家康は1590年に関東移封となり、豊臣秀吉配下の中村一氏が駿府に入るが[5]、家康は江戸幕府を開いたのち隠居するとして再び駿府城に居住、大御所政治が展開された。大御所家康公が駿府に君臨していた時代は、「駿府九十六箇町」と呼ばれる街区が整備され、人口10万人とも12万人ともいわれ、上方(京・大阪)、江戸(15万人)に並ぶ大都市となった。この時期、名目上の駿府城主(駿府藩主)は家康の十男・頼宣(よりのぶ)であった。
家康死去(元和2年、1616年)の3年後、頼宣は紀州に移封となり、秀忠三男の忠長(ただなが/駿河大納言)が駿府城主になる。忠長の改易以後は、大名は置かず城代が配属され、幕府の直轄都市として駿府城代・駿府町奉行が置かれた。
東海道が整備されると、駿府城下には、江戸から数えて十九番の宿場、府中宿が置かれた。
明治
江戸幕府が滅ぶと、駿府に政庁を置いた藩(駿河府中藩、駿府藩)は「静岡藩」と新たに命名された。1871年の廃藩置県で静岡藩が廃され、静岡県が成立[4]。
1889年の市制施行により、駿府城下にあたる安倍郡の1宿74町および有渡郡の50町が合併して旧 静岡市が成立した[4]。
現在、静岡市葵区の行政区画(町丁)として「駿府町」があり、駿府の名が住所に載る形で残されている。駿府町は、駿府城址の東側一帯にあたる。
駿府を題材にした作品
脚注
- ^ “家康公の生涯 - 隠居でなかった家康の晩年”. www.visit-shizuoka.com. 2020年11月2日閲覧。
- ^ “駿府のまちづくり”. 静岡市. 2020年12月5日閲覧。
- ^ “静岡まつりと駿府九十六ヶ町 | 静岡まつり公式ページ”. shizuokamatsuri.com. 2020年12月5日閲覧。
- ^ a b c 『日本地名大系 静岡県の地名』(1988年)平凡社
- ^ “駿府城跡、豊臣方の「幻の城」天守台の石垣見つかる”. 毎日新聞 (2018年10月16日). 2018年10月17日閲覧。
関連項目
人物